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  1. 本能寺の変直前の動向(6)
  2. 気になる人々 その1(30)
  3. 織田信長の関係者たち(3)
  4. 3月歴史講演会のご案内(1)
  5. 気になる人ですが判らない(0)
  6. 龍馬余談(14)
  7. 水戸光圀が薦めた儒教の葬儀(2)
  8. 蠣崎波響 危機を救った画家家老(0)

[ 編集 ][ 返信 ]本能寺の変直前の動向

藤原改新

天正10年(1582年)5月29日、織田信長は1年3ヶ月ぶりに上洛する為、安土城を発した。供廻は僅かに小姓2,30人だった。この供廻の少なさが信長の致命的な失態だったといえる。信長の旗本馬廻はこの時どうしていたか?大半は安土城のある近江国内に在住していたと思われる(人数は不明)。『信長公記』には「上洛後すぐに中国筋へ発向なされるので、出陣の用意をととのえておき、お知らせが有り次第出陣するように、という旨のお触れだったので、御供がなかった」信長を守るべき親衛隊は在地に待機したままで、信長からの出陣命令を待っていたのである。(信長の上洛にも随従せず、安土城の留守居衆も含まれていないから、中国出陣の為在所で待機していた旗本衆だといえる。)『晴豊記』には「その日の夕刻までに宿所の本能寺に入った信長は、翌6月1日参集した公家、門跡衆と対面した時、西国へは4日に出陣するつもりだと述べている。」とすれば、旗本衆もこの日までに上京するか、大坂辺りに集結する予定だったと思われる。又、信長出陣の目的は中国攻めの為だけで無く、九州や四国まで含めた西国全体の予定を意図していた可能性がある。

2015/11/29 Sun 15:47 [No.203]

[ 編集 ][ 返信 ]本能寺の変直前の動向 2

藤原改新

中国出陣を目前に控えていたはずの信長が、在京中に大規模な茶会を開く予定だったのではないかと言われている。上洛に合わせて、安土から大量の茶道具を本能寺に搬送させていた。右筆である楠長諳が書いた「御茶道具目録」には、38種の茶道具が記載されている。いずれも信長愛蔵の品々で、九十九茄子、珠光小茄子、万歳大海、珠光茶碗、牧谿絵、千鳥香炉など、名物逸品がそろっていた。そしてこの目録は博多商人の島井宗室に宛てられたものだった。宗室こそ信長が主宰する茶会の賓客だった可能性が考えられる。一方、徳川家康が主賓の1人だったとする説もある。イエズス会の「1582年度日本年報追信」には、「信長が都に来た時、これが最後になったが、三河の国主やその他の諸侯に見せる為、ほとんど全ての道具を揃えて来たからである。」と書かれている。家康は当時、上方遊覧の為、京都から泉州堺に下向して滞在中、堺代官の松井友閑や堺の豪商、茶人たちに茶湯などの接待を受けていた。本能寺の変当日の6月2日朝、上京の途につくが、これが信長、信忠父子の死が伝えられる前の出立だった。「宇野主水日記」の同日条によれば、家康一行は当日の朝、火急に上京していったとある。その理由は信長が安土から上洛した為だとしている。家康は予め信長から、上洛したから茶会を開く旨知らされていたからだろう。ところが、その上京の途上、河内の飯盛山か枚方辺りで京都から堺に向かっていた茶屋四郎次郎と行き会い、凶報を聞いて狼狽するのである。では、茶会はいつ開かれる予定だったのか?茶会は6月3日に予定されており、信長は家康や公家衆を客にして茶会を開き、愛蔵の茶道具を披露することによって、その由緒や権威を高めようとした。尚、信長がこれらの茶道具をいつ本能寺へ運び込んだか不明。信長の上洛時に随従したのは近習たち数十人のみだから、大量の茶道具類まで帯同出来たとは思えないので、上洛直前に搬入していたのだろう。

2015/12/05 Sat 18:49 [No.215]

[ 編集 ][ 返信 ]本能寺の変直前の動向 3

藤原改新

信長が最後に上洛する8日前に嫡男の三位中将信忠も上洛している。信忠の上洛もこれが最後となった。
では、信忠の上洛にはどのような目的があったのか?

信忠は5月中旬、安土城での徳川家康と穴山梅雪の接待の場に同席した後、21日、家康、梅雪一行とともに京都に入った。二人は信長から京都、大坂、奈良、堺を遊覧するよう勧められており、信忠はその警固役も兼ねての同行だったと思われる。
信忠の上洛は天下人の後継者の登場として耳目を集めた。事実、信忠は7年前の天正3年(1575年)に信長から家督を譲られている。

在京中の信忠の動向については、公家の勧修寺晴豊の日記『晴豊記』でその一端が判明する。22日、上洛した信忠はまず禁裏御所に参内した。そして晒し35反、飛騨布15反、絹30反を献上している。翌23日、今度は朝廷(禁裏御所と誠仁親王の二条御所)から京都所司代の村井貞勝のもとに、貫(絹の横糸)1引、晒し1反、「越後つつき」、妙覚寺を宿所としていた信忠のもとには、小鷹、唐錦、勅作の貝香がそれぞれ届けられている。これらは前日の信忠の献上品に対する返礼として贈られたものだろう。26日には信忠は家康、梅雪を伴って清水寺に参詣し、能興行を見物している。その後3人は武家伝奏の甘露寺経元から饗応を受けている。翌27日には、朝廷から再び信忠に「十合十荷」(皮籠などの箱物10個と酒樽10荷)の贈り物があった。この様に、信忠と朝廷の交流には親密なものがあった。朝廷は信長の後継者に熱い眼差しを送ったことだろう。

京都見物を終えた家康、梅雪一行は29日、堺に向けて出立した。その案内人は信長の側近 長谷部秀一と信忠の側近と思われる「杉原殿」である。実は信忠も二人に同行して堺に下向する予定だった。しかし、直前になって信長が上洛してくるのを知り、急遽予定を変更して出迎えの為、在京することにしたのである。信忠が信長側近の森乱に宛てた書状(5月27日付)には、次の様に記されている。「(上様が)中国表に近々出馬されるとのことで、私は堺見物はいったん遠慮しました。一両日中に上洛されると聞いていますので、京都にてお待ち申し上げます」
結果として、この方針変更が信忠の命運を決したのである。

一方、信忠の下向を心待ちにしていたのは、堺の豪商達だった。信長の後継者をもてなして、織田権力との親密な関係を深めようと考えていたが、中止と聞いて落胆したのである。堺の会合衆の一人だった千宗易も女婿の少庵に宛てた書状(5月28日付)で、「殿様(信忠)が下向なされないことについて、我らをはじめ堺南北の者達は力を失い、茶湯の面目も失った。返す返すも残念である」と嘆いている。

この様に、朝廷や堺衆などの信忠への期待は大きかった。

2016/02/08 Mon 01:40 [No.245]

[ 編集 ][ 返信 ]旧二条城・二条御所(二条殿)

京都歴史研究会・代表

慶長8年(1603)、徳川家康が上洛の際の宿舎として造営したのが、観光客で賑わう『二条城』。

しかし、一番最初の『二条城』は、永禄12年(1569)に、織田信長が室町幕府第15代将軍足利義昭の為に築城したもので、

歴史上では区別の為に
『旧二条城』とされている。
場所は、上京区下立売通室町西南角(平安女学院の敷地内)。

『二条御所』は、
天正7年(1579)に、義昭の二条城を廃し、信長の京屋敷として造られた建物。

現在も旧二条城と二条御所(別名:二条殿)を混同している書籍が多い。

二条御所(別名:二条殿)の場所は、
中京区金吹町…現在は廃校の龍池小学校を再利用した建物[京都国際マンガミュージアム]の場所である。

烏丸御池の北西で、二条殿町の名前が残り、二条殿交番も建っている。

当時の公家:山科言継(ときつぐ)の日記『言継卿記』やフロイス書簡にも、屋敷の壮麗さが記されていたが、完成して間もなく、信長は屋敷を二条関白:誠仁(さねひと)親王に献上してしまう。

それで屋敷は二条御所と呼ばれた。

信長は京都に城を築かず、寺社や豪商の屋敷などを宿舎にあてていた。そう、日蓮宗の寺院は、壕と土塁と塀を廻らせ、櫓を建てた城郭的な構造を持っており、信長は上洛時の宿舎として妙覚寺(妙覚寺城)をしばしば利用した。

本能寺も城郭のような壕がある立派な寺だったのだが、後に悲劇を生むとは知る由もなかった。

天正10年(1582)6月2日、
卯の刻(午前6時頃)、本能寺の変

本能寺があったのは、
西洞院六角通〜蛸薬師通。
信長の長男:信忠は、西洞院通りから二筋東の衣棚通り、北は押小路通り(本能寺から北東約700m)の妙覚寺に宿泊していた(現在は上妙覚寺町の町名が残る)。

信忠は、光秀謀反の報を聞くと東隣の二条御所(二条殿)に、500ばかりの手勢を率いて移った。

一時休戦し、先に誠仁親王一行を退去させた後、激闘の末に信忠は自害し果てた。享年26歳。
本能寺と二条御所の戦闘が終わったのは、辰の刻(午前8時頃)だった。

ところで旧二条城は、
足利義昭の将軍座所で、こちらが最初に別名を二条御所と呼ばれた。

それで、二条殿と混同が起きているのだ。

信長が、足利義輝邸の跡地に70日間のスピードで築いた城で、石垣には墓石や石仏を利用していて、信長の神仏を信じない怖ろしさが垣間見える。

2016/03/11 Fri 20:40 [No.251]

[ 編集 ][ 返信 ]織田信忠終焉の地

京都歴史研究会・代表

誤植がありました。

誠仁親王の前の文章訂正します。
関白二条晴良邸の跡地に建ったのが二条御所(別名:二条殿)です♪

2016/03/11 Fri 20:52 [No.252]

[ 編集 ][ 返信 ]本能寺の変直前の動向4

藤原改新

光秀の謀反が実は家康を討つ為だったという説が有る。光秀が軍勢を洛中の本能寺へと向かわせるにあたって、「家康を討つ為だ」と喧伝したことは、イエズス会資料や明智軍の兵士の回想『本城惣右衛門覚書』にも見えられるので、ほぼ事実だろう。しかし、これは中国へ出陣するはずなのに、反対方向の京都に向かって進軍することを兵士達に怪しまれないようにする為の偽装だったことは明らかである。又、京都に自邸や家臣の屋敷を持っている光秀なら、家康がすでに堺に下向していたことは知っていただろう。

では、光秀はいつの時点で謀反を決意したのだろうか?
普通、それに対する答えは、5月28日に愛宕山で興行された百韻連歌の発句「ときは今あめが下知る五月哉」に光秀の思いが込められていたとされる。しかし、この「百韻連歌」の解釈は多義的であり、謀反の決意表明と見なすのは結果から見た後付けの解釈ではないだろうか。例えば、『信長公記』にも愛宕百韻のことが記されているが、その様な解釈は見られない。

又、「愛宕百韻」と同日付で、光秀が山陰の伯耆国内で反毛利の抵抗を続けている豪族、福屋隆兼に宛てた書状が興味深い(「福屋文吾旧記文書」)。その書状には、「山陽道に毛利、吉川、小早川が出陣し、羽柴藤吉郎が対陣しているので、今度の出陣では先ず彼の表(備中)で働くように、という上意である。そこへ着陣したうえで、様子を見てから伯耆へ発向するつもりである」とある。光秀は備中に出陣し、秀吉を支援した後、伯耆に向かい、福屋と合流しようとしていた。つまり、光秀は謀反の3日前に至っても、中国攻めの先陣として出陣するつもりだったのである。とすれば、光秀の決意は28日以降ということになる。

その決定的な契機は27日、信忠が堺に下向せずに信長の上洛を迎える為に滞京を決めたのを程なく知っただろう。イエズス会資料には、次の様に書かれている。「彼(光秀)は信長並びにその世子(信忠)が共に都にあって、さほど多くの兵を伴っていなかったから、両者を殺害する絶好の機会と考え、己が企てを実行することに意を決した」
この様に、光秀は出陣直前に至り、信長、信忠父子が共に少ない供廻で在京しているのを確認してから、ようやく謀反の決断を下したものと考えられる。

2016/04/07 Thu 12:22 [No.258]

[ 編集 ][ 返信 ]本能寺の変直前の動向5

藤原改新

光秀は謀反を決行するにあたり、機密保持を重視し、家老衆にも 出陣直前まで心中を明かさなかったことが『信長公記』で確認できる。だから、配下の与力大名に対しても事前に通告すらしていない。では、光秀の与力大名である丹後の細川藤孝•忠興父子と大和の筒井順慶の動向はどの様なものだったのか?

『信長公記』巻十五によれば、5月17日、信長に家康饗応の役目を解かれた光秀が中国出陣を命じられた。細川忠興や池田恒興らの摂津衆も同様である。ただ、その中には忠興の父 藤孝と筒井順慶の名前がない。

細川家については忠興が出陣し、藤孝は留守居という分担だったのだろう。忠興が丹後宮津から出陣したのは6月3日。舅である光秀の軍勢と合流する予定だったのだろう。松井康之•有吉立行を先手として半里ほど進み、犬の堂まで来たとき、愛宕下坊の幸朝僧正からの急使で本能寺の変を知らされ、忠興は急ぎ宮津に引き返した。そして父子共々髻を払って信長への弔意を示したのである。(『綿考輯録』巻九)。

順慶については、『多聞院日記』五月十八日条に「筒井順慶は昨夕(17日)帰る。来る二十日、西国へ出陣の用意である」とあり、安土から大和へ戻り、二十日に中国に向けて出陣する予定だったことがわかる。だが、順慶が実際に出陣したのは6月2日の朝だったようで、同日記には「順慶が今朝上京したところ、上様(信長)が急に西国へ御出馬とのことで、すでに安土へ帰られたか。その為(順慶は奈良へ)帰られた」とある。日記の記主 多聞院英俊は、本能寺の変当日の混乱した状況をよく把握できていなかったのだろう。順慶は上京したものの、途中で光秀の謀反を知り、とりあえず帰国したものと思われる。その後、光秀から参陣を強く期待された順慶が迷走するのはよく知られているとおりである。

2016/04/25 Mon 22:25 [No.263]

[ 編集 ][ 返信 ]気になる人々 その1

大ふへん物

『井伊家史料 幕末風聞探索書 安政五年編』の安政五年八月 京都町奉行与力渡辺金三郎より長野主膳へ密勅降下、青蓮院宮・鷹司・三條等密議の件探索報告より、「薩州候御家来鵜澤信三」なる人物が出てきます。実は薩摩藩士 日下部伊三次の変名なのです。この人物の生涯は文化11年(1814年)、元薩摩藩士・海江田訥斎連の子として誕生。出生当時、父は脱藩して水戸藩にいたので常陸国多賀郡で生まれる。

はじめ水戸藩主・徳川斉昭に仕える。天保10年(1839年)、父の跡を継いで太田学館益習館の幹事を務めた。弘化元年(1845年)、江戸幕府より斉昭が謹慎を受けた際にはその赦免運動に尽力している。

安政2年(1855年)、島津斉彬に目をかけられて薩摩藩に復帰し、江戸の藩邸に入る。安政5年(1858年)、将軍継嗣問題や条約勅許問題が起こると京都に赴き、水戸・薩摩両藩に繋がりを持つ事から攘夷派の志士の中心として京都で活動。水戸藩士・鵜飼吉左衛門らと公家の三条実万に接触し、同年に水戸藩へ密勅が下ると、実万よりその写しを受け取り、木曽路を通って江戸の水戸藩邸へ届けた(戊午の密勅)。しかしこのことが幕府による安政の大獄を誘発し、子の裕之進とともに捕縛される。江戸の伝馬町の獄に拘留され、凄惨な拷問を受けた末、安政5年(1859年)に獄中で病死した。墓所は青山霊園。家督は薩摩藩士・有村俊斎が海江田信義と改名して継承した。

明治24年(1891年)に贈正四位。

実に謎に包まれた、不思議な人物だと思います。

2015/07/18 Sat 18:08 [No.30]

[ 編集 ][ 返信 ]気になる人々 金輪五郎

杉さんぼく

金輪五郎(本名 志渡長治)諸説ある生年があり、20代後半から30代後半か。

秋田は阿仁銀山町、真木沢鉱山の台所手代(労働者の指揮監督役)をしていた志渡家の次男として誕生。

17〜18歳の頃、久保田の城下に出た後、渋江内膳家へ下男奉公しながら直真影流を学ぶ。
得意手を片手横面打ちだったとした。

身長5尺前後の短躯ながら五人力の肩幅がっしり型でそのいかつきは、手足を付けた衝立の様な体格だった。

年月不明ながら、そんな金輪の3尺5寸の朱鞘を越しにあびて闊歩する姿を人は、「赤鞘団九郎」と渾名した。

文久3年国抜け出奔して江戸を目指した。
おそらくこの後、赤報隊小島将満こと相楽総三たちと江戸辺りで出会い、東奔西走していたのかも知れない。

慶応2年、京都の所司代師範・大野応之助から西岡是心流の免許皆伝を受けている。

この大野応之助義章の門人には所司代のみならず、見廻組に多く、龍馬惨殺事件に名が挙がる渡邊篤、桂早之助などいる。

金輪五郎がなぜ大野応之助門下に名を連ね、免許皆伝までに至ったか。

ただ単に剣術だけに邁進していたのか、それとも、情報を得るために所司代・見廻組門下生の多い西岡是心流に学んだか、些かの疑念を感じなくもない。

その同門が龍馬惨殺に関与したか否かの慶応3年には、江戸にいて御用盗騒ぎの任務を負う薩邸浪士隊に入り、翌4年に相楽総三の赤報隊に身を置いた。

やがて、相楽総三は西郷や岩倉の命を帯びて官軍嚮導先鋒赤報隊として、中山道を進発。信州下諏訪まで進んだ所で、偽官軍の断命を下される。

しかし、金輪五郎は京都にいた為に、相楽総三たち赤報隊幹部が斬首された下諏訪の惨劇には遭遇しなかった。

赤報隊壊滅後、金輪五郎は、とにかく秋田に戻る。
しかし、血が騒ぐのかほどなく再び東征して来た官軍の戦列に身を投じて、東北各地を転戦している。

その最後、明治2年、攘夷志士として京都で大村益次郎暗殺に加わり、同年12月刑死した。

結局は、彷徨える西岡是心流の、それだけの尊王攘夷志士だったのかもか知れない。

2015/07/27 Mon 22:49 [No.66]

[ 編集 ][ 返信 ]気になる人々 髪結い渡世常次郎と相楽総三

杉さんぼく

相楽総三について触れたい。

というのも、学者志士相楽総三が郷学校設立を熱望していたのは全く知られていないからです。
以下、森安彦国文学研究資料室教授の講演(1994/7/28)を参照に紹介しましょう。

まず、ここに荏原郡(東京世田谷)に、郷学校を作った髪結い渡世の常次郎なる人物がいます。
明治維新政府は、財源のないままに各村で寺子屋とは違う学校を作らせようとしする中、郷とは村、村で学校を作らせる政策に出たのです。
そこに常次郎、独学で学び、世の中どうなってるんだ、と当時齢50歳にして子供三人を伴い、明治3年に帰郷するまでの時代を倒幕運動に奔走し、赤報隊に息子を引き連れ参加します。
この偽官軍事件での追放を受けを、斎藤寛斉と称した彼は、学校作りに呼び掛けます。

それは何故か。
相楽の意思であったと断じています。

建言書(明治18年)
謹而奉建言候
「……相楽総三ナル者拙宅江参リ面会ス、水魚交盟ヲ給ヒ……就而同氏存命ノ節…輩ニ替リ国ニ学校蒼立依頼サルル、同氏之心底感絶ス……」
知られざる相楽総三の逸話で、改めて認識を新たにした思いです。

2015/07/27 Mon 22:59 [No.67]

[ 編集 ][ 返信 ]気になる人々 大野応之助門下

杉さんぼく

見廻組以外の大野應之助門人余話

金輪五郎友行(本名 志渡長次郎1833〜1868/12/29)
秋田藩下の阿仁銀山(阿仁合町)、真木沢鉱山の台所手代(労働者の指揮監督役)志渡平四郎の次男として誕生。
志度氏の先が金輪で、久保田藩佐竹3人扶持の苗字帯刀を許された家柄である。

17〜18歳の頃、久保田の城下に出た後、20歳で家老となり、吉田松陰を迎えて天下を論じたと云う渋江内膳厚光に下男奉公して臣となった。
だが、臣として長くはいなく、この頃だろう、辻辰之助の親交を得、勤王運動に奔り江戸に出ている。
剣は直心影流で、得意手は片手横面打ちと云う。(河上玄齋も片手斬りだったようだ)

身長5尺前後の短躯ながら、3尺五寸の刀を帯び五人力の肩幅がっしり型のそのいかつきは、手足を付けた衝立の様な体格だった、と伝わる。

年月不明ながら、そんな金輪の3尺5寸の朱鞘を越しにあびて闊歩する姿を人は、「赤鞘団九郎」と渾名した。

文久3年脱藩。
いつ頃か、華夷弁論を著した赤報隊小島将満こと相楽総三たちと江戸辺りで恐らく出会い、東奔西走していたのだろうが、後、慶応2年、京都の所司代師範・大野應之助から西岡是心流の免許皆伝を受けている。

薩摩藩に属して鳥羽伏見を戦い、江戸薩摩浪士隊を経て、翌4年に相楽総三の赤報隊に身を置き、相楽と美濃大垣の総督府に同行、戦功あり、と烏帽子、直垂を貰ってもいる。

しかし、下諏訪で相楽総三たち赤報隊幹部が斬首された惨劇を聞き、赤報隊壊滅後は薩摩藩を離れて、とにかく秋田藩士小野寺主水と共に秋田藩に帰属した。
やがて、沢宣嘉卿を迎えた同勢に加わり、血が騒ぐのか、ほどなく戦列に身を投じ、東北各地を転戦して功を成して負傷もしている。

そして、沢宣嘉卿に従い、京都に再び帰った。

維新の残滓とも言える金輪のそのエネルギーは、やがて、明治2年の大村益次郎暗殺に加担する事の燃焼となるが、危うい暗殺現場から逃れて、越前敦賀に潜んでいるのを発見され、同年12月、36歳で刑死した。
「大君と皇国(みくに)の為に死ぬる身は 大和魂の道をまよはじ」
「身は野辺の草葉と共に朽ちるとも 天の川原に名をもさがさむ」との遺詠が残る。
(参考:相楽総三とその同志【長谷川伸】1943)

2015/07/28 Tue 10:54 [No.72]

[ 編集 ][ 返信 ]気になる人々 伊庭八郎

杉さんぼく

京都の人見勝太郎と共に遊撃隊として闘った隻腕の粋な幕臣剣客、伊庭八郎に触れます。

心形刀流伊庭八郎秀穎、幕臣、元治元年徳川家茂上洛に随行、遊撃隊として鳥羽伏見の戦いで負傷し、東帰後、西軍の後方を衝く箱根の戦いで左腕を負傷、左手首を失いました。
しかし、その身体で敵を追い払って今に名を留めその後、箱館に至り歩兵頭並として善戦しました。

確かに、池波正太郎氏の小説「幕末遊撃隊」の効用もさることながら、こうした生き様の反面で、遊女小稲を愛した伊庭八郎の人間的な粋さは、春日左衛門と共に玄人好みな女性にはずいぶん人気がありますね。

さてもその死。

土方歳三死す明治2年5月11日の翌日、箱館五稜郭で土方の後を追うようにして、12日土方より8歳年下の伊庭八郎は惜しくも27歳で死しました。

その前月19日の激戦で、肩と腹に銃創を受けての痛みに耐えての戦闘死でした。
新撰組隊士田村銀之助の語り残しでは、恭順に先立ってモルヒネを飲んで没した、と伝わります。
その他、伊庭に従っていた荒井鎌吉が談話資料を残しています。
ついでながら、以下真偽不明ながらの一文。

「八郎君の墓は函館五稜郭土方歳三君の墓の傍にあり」(旧幕府雑誌)

五月の時期になると、歳三忌(5月11日)や瑞山忌(5月11日)に続くのが、伊庭八郎秀穎の秀穎忌(5月12日)です。
墓は、関東大震災前の台東区から移転した中野区沼袋の貞源寺にあります。
「伊庭八郎征西日記」(維新日来纂輯)「伊庭氏世伝」「講武所」(東京市史・外篇)

余談ながら、心形刀流、その名跡を継ぎながら明治36年に没するのが実弟想太郎で、兄に劣らない心形刀流の剣客で温厚珍重な人物でした。
その剣技が予想だにしない、日本初の国際弁護士政治家・星亨刺殺事件(明治34年6月21日)を起こしたのは、八郎死した年から32年後の事でした。

2015/07/28 Tue 20:49 [No.73]

[ 編集 ][ 返信 ]Re: 気になる人々 大野応之助門下

京都歴史研究会代表

金戒光明寺の墓地に
大野應之助の墓があり、

一昨年探しましたね
墓石が横たわってました

ちなみに、河上玄斎ではなく、河上彦斎(げんさい)ですね〜

2015/07/29 Wed 20:27 [No.77]

[ 編集 ][ 返信 ]気になる人々 幕末博徒と相楽総三

杉さんぼく

赤報隊相楽総三に絡んだ話。

赤報隊池田勝馬こと黒駒の勝蔵は、土佐の那須信吾と繋がりのあるのはあまり知られていないでしょう。

それだけにまた、東海の侠客水野弥太郎や黒駒勝蔵は赤報隊の致命傷でした。

早い時期に長谷川伸氏は、「相楽総三とその同志」以前に「伝法さむらい」を著していますが、主人公に桜井常五郎を配し、農民あがりのヤクザな赤報隊を描いています。

ヤクザ小説ならお手のものだった長谷川伸氏にしては、これは不満だったのでしょう、後にこの作品は反古にしています。

これはダメだ、とそこから改めての名作「相楽総三とその同志」が生まれました。

確かに赤報隊の無頼な隊士の参加は否定出来ません

不遇の貧困時代、岩倉家では賭博開帳の場にもなっていました。
岩倉卿はそんな彼らをも見ていたのでしょう、赤報隊士の彼らを見捨て、黒駒勝蔵や水野弥太郎の処刑をもいといませんでした。

では、なぜ清水の次郎長はそうはならなかったのでしょう。

旧悪なら次郎長の方に多々ありますから勝てば官軍なのでしょう。

海舟と西郷の江戸会見のした準備に労の功績があった山岡鉄舟に、やはり関係するのかも判りません。
何しろ鉄舟は次郎長の知恵袋なのですから。

2015/11/14 Sat 20:23 [No.197]

[ 編集 ][ 返信 ]気になる人々 青松葉事件と相楽総三と西郷吉之助

杉さんぼく

そう言えば、国定の長岡忠次の忘れ形見・大谷千乗(後に刑部国次を名乗る)も赤報隊に関わっていたとかどうとか…。(小説に、山田風太郎著「旅人国定龍次」「魔群の通過」がある)

話し変わって、岩倉卿絡みの尾張藩青松葉事件についてです。
当時、岩倉卿の動きとはかけはなれていた位置のが三条卿。

この方はあまりポリシーのないお公家さんで、その分早くから行動力ある岩倉卿がフィクサーとして、人の役割を(利用)上手く考える人物として役割を担わざるを得ませんでした。

だから岩倉、大久保ラインはやはり政治家そのものです。

本来は、成彬のもとで隠密方として動いた西郷が、その役割だったかも知れませんが、入水事件以来(替え玉説もある)西郷は隠密性がなりを潜め、利用したりされたりと、成彬時代にはない働きと行動になります。

そんな西郷を知る大久保に、岩倉が早くから運動をして、敬天愛人を旨とする西郷を利用しない手はありません。

青松葉事件と赤報隊事件はその結果そのものです。

青松葉事件を描いた小説なら、城山三郎氏の「冬の派閥」(1982新潮社)がお薦めで、

「…現代における組織と人間の在りようへの問いかけ」(同書あとがき)

をする事で、指導者者の在り方を問う歴史小説です。

ともあれ、敬天愛人を旨とした西郷が、自分の役割にどうだったかは全く判りませんし、掴めません。

大きく叩くと大きく響く、小さく叩くと小さく響く、と龍馬が評したように、そこが西郷の西郷たる由縁でしょう。

正直、ホントによく隠密型の分からない人物です。

2015/11/14 Sat 20:32 [No.198]

[ 編集 ][ 返信 ]気になる人々 赤報隊・飯田武郷と西宮

杉さんぼく

吉井良隆宮司から、第54代良昭宮司の代になってる西宮神社吉井家の話をします。

その傍系の吉井宮司と言えばやはり貞俊権宮司が、伊勢本街道で馴染みが深いんですが、なぜか、「良」がつくのにこの権宮司さんは貞俊と言うお名前で、残念ながら故人になられてしまいました。

それにしても、吉井一族は皆さん健筆家です。

西宮史話の良隆宮司以前なら、14歳から国書神典を父良幹に受けた影響からか、その才覚を生かして、幾多の著述を残した吉井良秀に尽きます。
「老父の御神幸に関する記事は後人にとっては誠に有益」と、息、良尚宮司が記すように、その遺稿「樟園余影」(昭和15年和装本-良尚宮司編)がなかなか良い。

部屋で籠もって本探しをしていたら、偶然、手元に現れたこの良秀宮司、年譜に「37歳(明治22年)、信州の国学者飯田武郷の門について、皇典・歌文を研究し始めた」とあります。

云わずと知れた、飯田武郷は信州下諏訪で斬首された赤報隊相楽総三の首を奪って埋めた、とされる平田国学の雄です。

華夷弁論を著していた相楽総三と飯田武郷は、国学を通じての江戸での知り合いでした。

平田篤胤の死後門人のそんな武郷が、ほどなく幕末維新の政治運動が昂揚しつつあった慶応2年、京都に上がります。

しかし、何と、後に相楽総三梟首を画策した黒幕との噂があった、岩倉具視の所に落ち着くんです。

やがて、信州に帰郷した時に、下諏訪での相楽総三の偽官軍事件処刑に出会い、その首を神道に則って埋めてやりました。

皮肉な話しながらです。

西宮に来た飯田武郷を迎えた吉井良秀宮司と、何を語ったんでしょう。

皮肉と言えば、赤報隊と西宮…。
う〜ん、重い事件でしたね。
意外な繋がりがあるんですね。
だから、歴史は面白い。

お薦めです。

2016/04/09 Sat 09:01 [No.259]

[ 編集 ][ 返信 ]気になる人々 藤野齋と千葉重太郎

杉さんぼく

山国隊、藤野齋と千葉重太郎について触れます。

それは明治元年11月に始まります。

山国隊が因州藩の属農兵隊という事で、因幡藩江戸屋敷納戸役(金銀.衣服.調度出納)千葉重太郎が、藤野齋を因州裏判所(藩財政)に周旋した間柄により、帰郷に際し、それまでの立て替え金373両の返却督促に千葉重太郎が来ました。

今、帰郷費用を裏判所に借財申請しているとの藤野の弁に、半額でも返金願いたいと千葉が迫ります。

困った藤野は、11月1日河田左久馬に隊費陳情助力を乞いますが、色よい返事なく、11月5日の東京出立まで藤野は金策に奔走する訳です。

隊員不満も募り、河田名義の裏判所借受金50両で隊員をなだめながら、当時の上京していた因幡藩京都留守居役・山田宗平に、書面で500両の借財調達依頼をしました。

とにかく山田宅で待つと、そこに千葉がやって来ました。

そして言うには、裏判所から500両を拙者名義で借り、373両は拙者に返金して貰って、残127両から河田名義の50両を返却すればどうか?と持ちかけました。
ある意味、体のいい千葉の徴収の仕方で、千葉はそこまで、因州藩に関わり合っていたのです。

だからか先年、妹佐那が因州鳥取藩士と婚姻していたという事実が判明しました。

こうした中で、山国隊は11月5日に東京を出立します。
藤野はしかし借財問題で同行出来ません。

その夜、千葉が藤野を訪ねて来ました。
藤野はしかし、再借財、返金の金銭については言い出せず、憤懣は因幡藩京都留守居役山田宗平に向かいます。

翌日、不誠実だからだと、6日深川で宴席に耽る山田を訪ねて藤野は激しく詰問します。

続く

2015/10/06 Tue 06:48 [No.147]

[ 編集 ][ 返信 ]気になる人々 続・藤野齋と千葉重太郎

杉さんぼく

やがて翌7日になって、ようやく山田から、裏判所と千葉より500両を借り出す事に成功、借金清算して東京を後に出来ました。
こうした経緯に藤野の心に残ったのは、山田のような藩官僚への不信と憤懣のなにものでもありません。
考えれば、龍馬と土佐藩京都官僚にも似たような何らの関係があったのでは、と勘ぐれます。
かくして出征者35人中、戦死4人病死2人他負傷の山国隊、明治元年11月25日京都に凱旋しました。
明治5年6月25日付けで、藤野が出した「自弁取調書」には、「255両出兵中因藩御裏判所ニテ借用金額996両ヲ正金ヲ以、千葉重太郎及山田宗平殿へ、帰後金策二付…」
「996両鳥取藩裏判所より軍隊へ金度々借リ入、巳年2月繰り替金ヲ以返納ス」
との記載が見えます。
996両のうちの千葉の500両は、どうにかかき集めて元利と521両余りを、帰郷後直ちに12月の12日に発送返金しています。

明治2年1月21日には、千葉に謝礼として上羽二重一疋を贈っていますから、藤野って人は律義で偉いですねえ。

上記の自弁取調書いわく、軍費7800両のうち4400両を返済し、3400両が借財として残ったそうで、杣山売却等で返済したりした後、明治8年6年終身禄返還により、返納されたようです。

参考
山国隊史(永井登1906)/丹波山国隊史(水口民次郎.山国護国神社1966)/征東日記[山国農兵隊日記](藤野齋-仲村研・宇佐美英機編1985)/山国隊(仲村研1968)

2015/10/06 Tue 06:51 [No.148]

[ 編集 ][ 返信 ]Re: 気になる人々 続・藤野齋と千葉重太郎

京都歴史研究会代表

タイトルが 藤野斎でなく
藤木斎になってます。
誤植の訂正の仕方を知りたいですね〜。

2015/10/08 Thu 16:12 [No.149]

[ 編集 ][ 返信 ]Re^2: 気になる人々 続・藤野齋と千葉重太郎

杉さんぼく

タイトル藤木斎になって、すんまへん。

単なる打ち間違えで深謝で…。
誤植訂正の打ち方分かりません〜。

2015/10/15 Thu 20:02 [No.160]

[ 編集 ][ 返信 ]気になる人々 河田左久馬

杉さんぼく

続いて、以下も河田左久馬関連。
昭和43年の名著「山国隊」(仲村研著-学生社)によれば、昭和40年代の河田左久馬景與相続人は、河田須賀江さん(80歳)だったとあります。
当時、鎌倉の鳥取藩主池田家子孫の池田家に、なぜかその家臣の子孫も同居されていた、と言うわけです。

河田左久馬景與には、妻喜久子さんとの間に一男四女がいて、唯一の長男頼功は明治30年急逝、その友人穂波喜久之助が河田家に養子に入って景延と改名して跡を継ぎました。

この景延と結婚するのが須賀江さんで、佐久馬実弟精之丞の子景尚の長女になります。

その生家河田景尚邸は、京都一条新町にあり、時代祭に参列するに先立ち、この河田景尚邸に立ち寄った、とかで、左久馬関係資料は東京大塚の従弟佐々木秋生さん宅にある、と話しておられます。

佐々木秋生さんの父親の名は佐々木仙介、その父親は佐々木男也、奇兵隊南園隊々長の長州人でした。
従って、みささん(景尚の妻)仙介さん姉弟のそれぞれの子供が、須賀江さんと秋生さんとなり、尊王攘夷運動の長州、因州交流繋がる幕末維新の、姻戚関係の深さが感じられなくありません。

ちなみにこの佐々木家には、河田左久馬宛て龍馬書簡も確かあったと思います。

この佐々木家資料のその後は、確認されていません。

これらの史資料はどうなったか。

河田左久馬の墓が東京で守られるのか、京都の須賀江さんの実家縁戚、あるいは精之丞景福の子孫縁戚で守られるのか…。
(参考・仲村研-山国隊/学生社/中公文庫)

2015/07/28 Tue 20:58 [No.74]

[ 編集 ][ 返信 ]Re: 気になる人々 河田左久馬本圀寺事件

杉さんぼく

続いて…の項より、こちらが先でした。

鳥取因幡の内紛事件、本圀寺事件について〜。

文久3年8.18政変前夜の17日に本圀寺にて勤王派河田左久馬等によって、黒部側用人を襲い、別働隊は佐幕派早川、加藤他を襲撃した事件です。

河田左久馬と言えば、龍馬つながりがありますね。

なぜか小説的なエゾ地開拓や鬱陵島新国開拓には、竜馬には語らせない「竜馬ゆく」話です。

慶応3年3月14日龍馬書簡で、河田左久馬宛てに
「北門の方へ手初(始)致候…北行の船も借受申候。」として、北門開拓という話を「余程面白(き)事御耳に入れ候…」と、言い、北行の船が調達出来たと書いています。

この北門開拓(蝦夷)への想いは、その少し前の3月6日、長府藩士印藤肇にも触れていますが、主題は竹島行開拓に終始しています。

むろん今の竹島ではなく、現在の鬱陵島を差し、竹島は松島が正しいのですが、とはいえ、「小弟ハエゾに渡らんとせし頃より、新国を開き候ハ積年の思ひ一世の思ひ出ニ候…大州の船の来るをまち申べし…」と、並々ならぬ新国開拓の思いを龍馬は記しました。

そして河田にも伝えたのです。
ここで書いた大州の船とは、つまり後日沈没する事となったいろは丸に他なりません。

ちなみに、「いろは」とは以呂波、つまりABCを表し、オランダ語で言うアビソ(エー、ビー、シー)です。
龍馬が、アビソよさらば!?と言ったかどうか定かではないエピソードがあります。

この借り受けたいろは丸で、「彼竹島行の事ハ兼而御聞ニ…」と、北門とは別に、竹島、松島が身近い長州藩士情報によって、そうした新国開拓を考えていた、龍馬書簡が残る河田に伝えたのでしょう。

4月23日にそのいろは丸沈没後、4月28日に「然二太極丸は後藤庄(象)次郎引受くれ申候」を使って、再び「…蝦夷の一条は別して、兼而存込の事故、元より御同意仕候…」(林謙三あて11月11日付け書簡)の想いを語って、かなわぬままにその数日後惨殺されました。

いろは丸と太極丸の新国開拓のかなわぬ龍馬の夢、河田左久馬宛て書簡は、前述の一通のみしか残らないと云う消化不良はなんとも為しがたい。

佐々木秋生氏宅には龍馬書簡が存在しないのだろうか、と先月傍系子孫のS氏に聞いたら、…かも知れないとかで、代わりに河田左久馬景與実弟精之丞景福あて海舟書簡(未公開未解読)を持参されました。

2015/07/28 Tue 22:52 [No.75]

[ 編集 ][ 返信 ]気になる人々 敦賀天狗党惨殺

杉さんぼく

天朝だ、大樹公方さまだ、と喧しいあの時代はどこの藩、家中でも、勤王佐幕の内部抗争はありました。

しかし、水戸人は何人の人が尊王攘夷の名で、外に向かわず、内に闘いの内乱抗争で亡くなったのでしょう。

福井は敦賀の地、1000人余りが水戸から長行したその果ての、天狗党の悲劇353人の墳墓、敦賀湾近くの松原神社には411柱が祀られていて、今も子孫探しをしている研究会、顕彰会のいわゆる茨城県人は必ず来訪するとされる、いわゆる聖地です。

天狗党内乱の犠牲者は全体で1302人、農民716人、水戸家中士454人、郷士49人他で、水戸全体殉難者はゆうに3千数百人以上に登ります。

時に慶応元年、というより現地墳墓、松原神社での解説文では、4月7日(1865/5/1)慶応元年改元前の元冶2年2月4日(1865/3/1)、この日を皮きりに武田耕雲齋諸将24人斬首後、23日までに353人が断罪処刑されました。

通説での投降者は824人とされていますが、2月19日付け加賀藩軍監永原甚七郎の掲示では、元冶元年12月19日767人降伏とありますから、こちらが正しいのでしょう。

2015/10/28 Wed 03:27 [No.177]

[ 編集 ][ 返信 ]気になる人々 続・敦賀天狗党惨殺

杉さんぼく

長行の果てに頼る慶喜公は、元冶元年12月17日に禁裏総督として間近の近江海津まで出張っていました。
天狗党を討つべし、と手柄に逸るその弟昭徳(昭武)も来て布陣します。

結局、事が済むや慶喜公は「この際の処置決まり安心に候」と書いたりもしていますから、自分の立場にほっとしたのでしょう。

或いは皮肉な事に、以下のような逸話もあります。

死罪を免れた人たちを諸藩に預けようと、幕府は薩摩にも打診し、船を敦賀に回して受取に来いと通達しました。

そこで、西郷吉之助が書簡を書きます。

「降伏者を殺すのは日本武士道にはないことだ、それを殺した、命を助けた人間はもっと丁寧にしなけりゃならん、降伏者を苛めるという武士道は薩摩にはござらん、よ ってお断りもうす」

薩摩の作家海音字潮五郎氏が紹介し、以上の話を述べています。(昭和51年-NHk日本史探訪)

いささかの薩摩贔屓があるにしても、では、ではと、田中河内介父子や海賀宮人等への薩摩のとった惨殺行為はどうなんだ、との異論がなくもありませんが…。

いずれにもせよ、幕末維新での水戸の内部抗争は悲劇であるのは変わりありません。

そこには、水戸は破壊、長州は構築とした水長の成破盟約の結果だったとは言え、藤田小四郎に桂小五郎が千両もの軍資金援助をしたのがそれを物語ります。

2015/10/28 Wed 03:34 [No.178]

[ 編集 ][ 返信 ]気になる人々 続々・敦賀天狗党惨殺

杉さんぼく

天狗党死の長行路(出発時は1000余人が800数余人になり、この中の500人余りは水戸郷校で学んだ若者農民たちだった)で、揖斐根尾川へ向かう途路に、西郷吉之助使者として中村半次郎が来て、本道を西に進んで慶喜公に降伏すれば…と勧めているのは、西郷の意見か薩摩の意見かは計りかねる点は否めず、寺田屋事件の前例があるだけに、この点に疑問も残ります。

大久保同様に、前述したように西郷も後に天狗党惨殺処刑について「降伏者を殺したのは武士道にはない、もっと丁寧にすべき、降伏者を苛める武士道は薩摩にはない」
と幕府に述べています。

安政大獄で、西郷は月照上人さんと共に薩摩に逃げた時、薩摩の為に尽力した月照上人さんを匿う義理も果たさず、義理立てした西郷が一緒に投身せねばならなかった事実、寺田屋事件で田中河内介父子などを惨殺した事実からすれば、やはり、水戸が長州に繋がるがゆえに、何も天狗党には出来なかったのかも知れない、そんなこんな風に考えてしまいます。

しかし、偉いですね、地元にしたら迷惑だっただろうし、さりとて死んだら皆、平等で可哀想だろう…これを語り継ぐ、この地に科せられた供養顕彰、と今に伝える鯡(鰊)倉…。

2015/10/28 Wed 03:37 [No.179]

[ 編集 ][ 返信 ]気になる人々 続々々・敦賀天狗党惨殺

杉さんぼく

敦賀市水戸烈士遺徳顕彰会は、小学生向け解説の小冊子まで無料で作られて顕彰していますね。

ましてや、敦賀と水戸はなんのゆかりもなしなのに。

観光ばかりに先行する京都の殿様観光では、ここまではしません。

もう少し、他県人の供養顕彰に力を注いで欲しいと思わざるを得ません。

この例では、東吉野の天忠(誅)組遺跡、墳墓も同様で、地元ではよく供養顕彰がなされていますから感心します。

京都は観光意識よりも、地元として、こうした供養顕彰をする気持ちをもう少し見習わねばなりますまい。

なお、当時16棟あった鯡(鰊)倉は敦賀以外に、353人もの無念の思いをつめられて、故国水戸に運ばれ残されているのも忘れてはなりません。

当初は水戸常盤神社内に回天館としてあったのを、平成元年に水戸有志が回天神社境内に移築されたそうです。

それにしても水戸人にとって、武田耕雲齋墳墓、411柱の遺族にとっては情念の漂うばかりの墳墓かもわかりません。

なかなか立派な墓域で、なんと国史跡なんですね。

2015/10/28 Wed 03:48 [No.180]

[ 編集 ][ 返信 ]気になる人々 続々々々・敦賀天狗党惨殺

杉さんぼく

武田耕雲齋辞世

討つもはた
討たるるもはた 哀れなり
同じ日本の 乱れと思へば

咲く梅の
花ははかなく 散るとても
馨りは君が 袖にうつらん

という武田耕雲齋の和歌にちなんだのか、水戸から運ばれた水戸紅梅が多数植樹されています。

武田耕雲齋の孫に当たる武田金次郎、まだ年少だったため小浜藩に幽囚の身となり、明治元年の朝令で恩赦、京都に行き水戸に戻りました。

それにしても悔しいのは、武田家一族、その他天狗党勤王の士を無残に斬首惨殺した市川三左衛門らの諸生派だ、この仕返しをして怨みを晴らす、と同志を集め虐殺隊を組織し、諸生派を襲い斬り殺したり銃殺の挙に出ました。

ここに横山と云う諸生派に属した屋敷があります。

当然虐殺隊は狙いますから、危機を感じたその家の女性は水戸を離れようと、山を越えた辺りで産気づき、竹薮で一人の男の子を出産しました。

明治元年9月18日の事でした。
これが後の日本画壇最高峰となる横山大観でした。
もし、母子ともに武田金次郎虐殺隊に襲われて殺されていたら、日本画壇の進歩も横山大観その人もいなかったわけになりますから、歴史の歯車って不思議です。

ちなみに、よい意味で言えば天狗党の天狗とは、常に乱世に姿を現わして、邪を正し、賞罰が厳重である…という意味合いがあるのです。(石井良一/幕末動乱異聞1969/〜改題天狗党悲史‐1983)

2015/10/28 Wed 03:52 [No.181]

[ 編集 ][ 返信 ]気になる人々 田中河内介父子

杉さんぼく

田中河内介父子に対し、科人‐とがにんと云う烙印を押された―、との認識で言われる方がいます。

しかしながら、これは正しくなく、ましてや科人(咎人)ではないのではありません。

柿本人麻呂のいろは歌ではありませんが、やはりは罪科=とがなくて死すと思われます。

同じ例に、長州人による中山忠光卿惨殺事件があります。

中山忠光卿は、田中河内介の影響を強く受けて、闘う尊攘公家として暗殺されたとは言え、遠い長州の地で死しましたからね。
確かに、薩摩の罪刑はきつい法制がありました。

しかし、身ぐるみ剥いで、足枷手枷をして重しをつけ、海に沈めて投棄するのは、裁きも何もあったものではありません。
子孫にまで、追求するのも咎人以上です。

地元で祀られ建てられた小豆島の墳墓撤去にまで、薩摩人は干渉、疵跡抹消を求めて、明治12年の森遷郡長はこれを拒否した、と伝わります。(これについては、河内介が長州から資金を受けていたから、これをして薩摩人は背信行為だ、としたとも言われている)

偽装家紋まで墓に彫らねばならなかったのは、辛い限りです。
明治24年の贈位まで、これまた辛い限りです。

遺族への薩摩のしつこさ、陰謀の有り様、幽霊話しにまで仕立てるのは、やはり維新史上の汚点でしょうね。

これは赤報隊にまで続きます。

2015/10/21 Wed 13:04 [No.172]


残り10件

[ 編集 ][ 返信 ]織田信長の関係者たち

京都歴史研究会・代表

@織田信雄

 信長の次男、織田 信雄
(のぶかつ:1558〜1630)
母は生駒吉乃(生駒家宗の娘)。生駒屋敷にて生まれた。
大和宇陀松山藩の初代藩主。

初め、伊勢北畠家の養子に入り、第10代当主として具豊(ともとよ)、信意(のぶおき)を名乗り、御本所と敬称された。
(最終的に北畠家を掌握した)

天正10年6月2日(1582)本能寺の変で信長と長男:信忠は共に倒れた。この時、信雄は伊勢松島の居城にいた。

変報を受けると直ぐに軍を率いて伊賀を越え、近江甲賀郡土山に出た。
(記載:安養寺文書⇒備前国の山岳仏教系の古寺、宝物と多くの古文書が残る。記載:勢州軍記⇒伊勢戦国史,神戸良政が記した。)
しかし、伊賀の国衆が不穏な動きを見せたため、それより西に軍を進ませることができなかった。

蒲生郡日野には、信長の妾子が保護されていて、これを支援するの精一杯で、とても弔合戦など余裕がなかった。

(直前に催された、信長の三男:信孝を将帥とする四国攻めに、信雄の采配下の伊勢衆も多く動員されたからではないかとされる。)

明智光秀と戦うには、兵力が不足していた。

秀吉の時代、小田原征伐の論功行賞で、加増ではなく、父信長の祖の地:尾張と北伊勢五郡は没収され国替えとなった。
(この時、家康は関東へ転封)
信雄は国替えを拒絶した為に改易され、下野国烏山に流罪となる。

秀吉に嵌められたのだ。

文禄(元年:1592)の役を迎え、
流罪を許され名護屋へ招かれた。その後、信雄や信長の弟:有楽斎(うらくさい/長益)は秀吉のお伽衆となった。

信長から、猿・はげ鼠
呼ばれた秀吉に対して、妙なプライドを捨てたのか?媚び諂(へつら)う生活を選んだ。

秀吉の死後、大坂天満屋敷に住み、関ヶ原の戦いの時は傍観。嫡男:秀雄は秀吉からもらった越前大野郡の亀山城主だが、関ヶ原では当初は東軍ににつき西軍の加賀大聖寺城攻めに参加。
その後、信雄の命で西軍に転じた。身を寄せた。

信長の弟:有楽斎(長益)は嫡男:長孝とともに東軍に参加し軍功を遂げる。同じく信長の弟:信包(のぶかね)は西軍だが戦地は関ヶ原ではなく丹後田辺城。
しかし、息子:信重(伊勢林1万石)は東軍に就かせ保険をかけた。

本能寺で死んだ信忠の息子は、西軍で戦地は木曽川など。

よって織田は、東西のどちらが勝ってもいいように二股をかけた。九鬼、津軽、真田のごとく。

2016/04/02 Sat 12:00 [No.254]

[ 編集 ][ 返信 ]Re: 織田信長の関係者たち

京都歴史研究会・代表

@織田信雄続き、
そして織田同士は戦わないようした。
 大坂の陣のとき、信包は死没していたが、信雄は先に片桐且元の殺害計画があることを本人に知らせ大坂を脱出させ、徳川に大坂の内情を知らせ、自らも脱出した。

 信雄の戦功から(家康の織田家を存続させる温情か)、元和元年(1615)、上野国甘楽郡(かんらぐん,群馬県)に2万石・大和国宇陀郡に3万石の領地を得た。

上野国小幡藩では養蚕など事業に務め、楽山園を造園(現代でも名園として知られる)。江戸後期、養蚕事業は地域の一大地場産業となり、明治期の富岡製糸場へと繋がっていく。

安土城近くの桑實寺は天智天皇の時代に建立され、養蚕が行われていた。信雄はそれを見て思いついた感がある。

やがて領地を子供らに分け与え、晩年は京都に移り、現:中京区西洞院三条下ル柳水町(りゅうすいちょう)に隠居した。

宇陀に出向くことはなく、能や茶の湯など優雅に暮らした。柳水町は正に、千利休が茶の湯に利用した[柳の水]の名水が出る場所だから。

寛永(1624〜1645)初年に、
北野五辻に転居して没した。
享年73歳。

若い頃の天正伊賀の乱や、
小牧・長久手の戦いでの失敗はあったが、信忠や信孝といった直情型の兄弟とは違い、世渡り上手だった。

2016/04/02 Sat 12:03 [No.255]

[ 編集 ][ 返信 ]Re^2: 織田信長の関係者たち

京都歴史研究会・代表

@織田信雄…続々…
上野国小幡藩では養蚕など事業に務め、楽山園を造園(現代でも名園として知られる)。江戸後期、養蚕事業は地域の一大地場産業となり、明治期の富岡製糸場へと繋がっていく。

安土城近くの桑實寺は天智天皇の時代に建立され、養蚕が行われていた。信雄はそれを見て思いついた感がある。

やがて領地を子供らに分け与え、晩年は京都に移り、現:中京区西洞院三条下ル柳水町(りゅうすいちょう)に隠居した。

宇陀に出向くことはなく、能や茶の湯など優雅に暮らした。柳水町は正に、千利休が茶の湯に利用した[柳の水]の名水が出る場所だから。寛永(1624〜1645)初年に、
北野五辻に転居して没した。
享年73歳。

若い頃の天正伊賀の乱や、
小牧・長久手の戦いでの失敗はあったが、信忠や信孝といった直情型の兄弟とは違い、世渡り上手だった。

生き残ったことで、
成功者だからだ。

◆信雄系列⇒上野小幡藩、宇陀松山藩、山形天童藩
◆有楽斎系列⇒戒重(かいじゅう)藩、後に岩田藩、芝村藩と改称、柳本藩
◆信包(のぶかね)系列⇒(丹波氷上郡の柏原藩)

信雄の五男:高長(たかなが)が、宇陀松山藩の第2代藩主。高長系織田家初代となり。

2016/04/02 Sat 12:07 [No.256]

[ 編集 ][ 返信 ]Re^2: 織田信長の関係者たち

京都歴史研究会・代表

@織田信雄ラスト、

◆信雄系列⇒上野小幡藩、宇陀松山藩、山形天童藩
◆有楽斎系列⇒戒重(かいじゅう)藩、後に岩田藩、芝村藩と改称、柳本藩
◆信包(のぶかね)系列⇒(丹波氷上郡の柏原藩)

信雄の五男:高長(たかなが)が、宇陀松山藩の第2代藩主。高長系織田家初代となり。

三男:信良が信雄の所領の一部、上野国で甘楽,多胡,碓氷併せて 2万石を分与され、その子孫は出羽国村山へ転封、この流れが、山形の天童藩で、最後の藩主/織田信学(のぶみち)は明治に子爵となり、天童県知事となった。

転封があったケースもあるが明治維新まで生き残った。
さらに信雄の娘:八重姫と家臣だった土方雄久の嫡男:雄氏を娶らせた。

雄氏は菰野藩初代藩主となり明治まで生き残る。

徳川は豊臣潰しをし、幼子の命をも躊躇せず奪った
しかし織田には気を遣い、
二代:秀忠ですら苦難の秀雄を救い、三代:家光は信雄を茶会に招くなど配慮を示した。

結果、信長の宗家は残っていないが、信長の血は脈々と生き続けている。
スケーターの人や、宗家と名乗って活動している人らは別として。

2016/04/02 Sat 12:15 [No.257]

[ 編集 ][ 返信 ]3月歴史講演会のご案内

京都歴史研究会・代表

3月歴史講演会のご案内

◆日時:平成28年3月20日(日)
    13時〜16時30分

◆会場:河原町五条下ル
    ひとまち交流館 京都     2階第1会議室

◆入場無料、予約無し先着30名

◆演目:寺田屋騒動と
    田中河内介の悲劇
二部構成、
◆講師:荻野淳次郎,鎌田泰弘

 藩に翻弄された志士たち
利用され、見捨てられ、時代のかなたに葬り去られた者がいた。

 明治天皇に最も慕われた男-
幼少時の天皇教育係,田中河内介は、寺田屋騒動で薩摩藩により惨殺、海に遺棄された。

 維新史上最も悲惨な最期を遂げ「河内介の最期を語ると祟られる」と言う怪談話で、徹底的に封じ込められた男-田中河内介。

平成の現代、京都歴史研究会が田中河内介を掘り下げ、その最期を語ります。

宜しければお立ち寄り下さい。

※講演前に、昭和46年10月30日放送作品
『天皇の世紀 第九話 急流』田中河内介を丹波哲郎が扮するドラマを上映予定です。

*主催:京都歴史研究会
http://mb1.net4u.org/bbs/1109/article/id1

*平成28年3月度のみ連絡先
電話番号:090-3848-8284

*次回講演会予定
5月15日(日)14:00〜
会場:馬場染工業(株)
演目:名水が語る京都の歴史
講師:水文化研究家,農学博士
鈴木 康久(みちひさ)氏

2016/02/26 Fri 16:22 [No.246]

[ 編集 ][ 返信 ]3月歴史講演会は大盛況でしたね!

杉さんぼく

マイナーな話しながら、京都歴史研究会の3月20日はおかげさまで盛況、会場定員30人部屋が予定オーバーした36人例会となりましたね。

32部の資料が行き渡らずで、それでも参加者の皆さん、知らなかった、勉強になった、と喜んで下さり、数名の会員入会もあったよし、重畳です。

何よりも、嬉しかったの田中河内介の分家で、田中河内介父子のような陶芸家壽寶・綏寶親子さんがいらっしゃった事です。

例会後、お彼岸ということもあり、会場向かいにある田中河内介菩提寺の金光寺さんに、10数名でお墓参りしました。

以下余談。
有馬正義が信頼した同志に、寺田屋到着に遅れた小河一敏がいます。
後に、小河は田中河内介惨殺を耳にし、明治8年、河内介父子事蹟を上申、招魂社合祀願いとして、「田中綏猷父子事蹟略記」を大久保内務卿に提出する事で世に出しました。

そこで明治天皇が田中河内介について問われた件。

その小河一敏発言以外に、別の話では黒田清隆が大久保に問い正した、とあります。

西郷が書簡で、河内介惨殺により「薩摩は勤王は語れない、三文芝居だ」と述べたのも無理はなく、だからかこうした事の起因に諸々、黒田清隆がなぜに酒乱になったとかとかや。

司馬遼さんが短編に書かなかった材料ながら、以下短編がお薦めです。(絶版なら図書館でどうぞ)

遺恨の譜(初出1974年)
滝口康彦
講談社文庫1984「遺恨の譜」
他、作品集等。
〜いわねばならぬ、いつかは真実を語り残しておかねばならぬ…との独白から始まり、旧薩摩藩士帖佐糺これを記す、で結ばれた田中河内介異聞です。

河内介の切腹
南條範夫
桃源社1981「華麗なる割腹」(新書版)
〜田中綏猷の生涯には二説あるとして、惨殺説と切腹説を紹介、異説に田中綏猷が仙石騒動で有名な仙石左京の次男である出自を述べ、経済学者でありながら、著者独特の史観を陳述開示しています。

2016/03/25 Fri 00:01 [No.253]

[ 編集 ][ 返信 ]気になる人ですが判らない

杉さんぼく

昭和2年の回天志士墨寶(森田金藏)にある薩摩中島治部なる人物が判らないので、気になってます。

中島治部通行券
辰九月三日
京都發足越後新發田城迄通行

兵部卿宮附屬
薩摩藩
中島治部家来壹人

なかなか珍しく面白い資料です。

2016/03/09 Wed 12:21 [No.250]

[ 編集 ][ 返信 ]龍馬余談

杉さんぼく

太宰治が坂本龍馬に触れた話があります。

ある友人が突然太宰を訪ねて来た時の事を後に振り返って太宰が言った次の一言。

「あの時は坂本龍馬でも来たのかと思ったよ」

この友人を義母に紹介した折りも次の様に言う。

「僕たちは明治維新の志士くらいの気概はあるんですからね、オッ母サン。坂本龍馬や高杉晋作だってこんなものですよ」

そう言えば、若い10代の頃の初期に習作で奇兵隊を書いていましたから、太宰は幕末維新に興味を抱いていたのでしょう。

今も現代も若者の興味は変わりありませんね。

龍馬が伏見での薩摩藩士同士討ちを思って唄ったと言う里謡
「咲いた桜になぜ駒つなぐ、駒が勇めば花が散る」

これは山家鳥虫歌にあるもので、もし龍馬が知っていての話なら、高杉晋作の「三千世界…」と通ずる風流(フリュウ)かも知れません。

2015/09/11 Fri 09:56 [No.125]

[ 編集 ][ 返信 ]龍馬惨殺秘話余談

杉さんぼく

30年以上前の11月15日昼のTV「おもいきりテレビ」での放送、「今日は何の日」を記憶されている方はおられるだろうか。

この日は龍馬暗殺デーだったから、昭和初期の坂東妻三郎主演「坂本龍馬」からの暗殺場面ラストシーンが流されました。

この感想をみのもんた司会者が、ゲストコメンテーターの實吉達郎氏(広島出身の動物学者)にコメントを求めました。

「(龍馬暗殺の)死の謎が、本当はあの映画で映した様にはなっていないんですね……。
実は私の曾祖父は福岡孝悌と申しまして…龍馬を知っておりまして、死の真相もある筋から知っていたそうなんですが、誰が聞いても、いや、あれは言っちゃあいかん事になっとるんだ、と言いました。それは公開出来ない様な誰かが犯人だったんじぁあないか、と思います。……暗殺した人が、今(放映)した様に、佐々木只三郎、…そうじゃあないんだ、と。」

と、實吉達郎氏はこうコメントしました。

生番組だっただけに、チェックが効かず、しばし呆然自失でした。
この番組ディレクターの中に、長州の白石正一郎縁戚がいたのも奇遇としか言いようもありません。
因みに、実吉家は福岡籐次の娘婿にあたり海軍軍人でした(華譜録)

2015/09/11 Fri 09:58 [No.126]

[ 編集 ][ 返信 ]龍馬惨殺余談

杉さんぼく

土佐藩内抗争についての鳥取藩慶応丁卯雑記資料(慶応3年11月23日挙記-東大資料編纂所)を紹介しておきます。
これにより、倒幕までの藩論統一までいってない事がうかがえます。

「元来、土藩ノ内探索候処、藩士相分レ一途ハ白川組諸浪士相集リ頻リニ暴論の徒ノミ建論増長ニテ、今一途ハ後藤象次郎同意周旋ノ徒ハ、右暴論ノ徒ヲ取鎮メ居候由……梅太郎先月上旬頃、土州ヘ帰入致居候処、北国筋へ罷越、何カ周旋ヲ遂ゲ帰亰仕候跡へ今一手ノ土藩士ノ徒、同様北国へ罷越……右梅太郎ノ跡へ廻リ候亊ニ付、未ダ不発(セ)事件(ヲ)候得共、隔論相成候様子ニテ、梅太郎ト尚又今一手トハ忽チ不和ヲ生ジ、殆ド殺伐ノ次第ニ及バントスルノ事件ニ基キ候由………。」

梅太郎(龍馬)の北国筋福井藩での秘密工作成功に対して、妨害工作失敗した反対派の激怒は龍馬に向けられ、不和は高まる。
他藩の隠密探索にまで、こうした事実は知られていたのです。
続いては尾張藩雑記資料。(慶応3年11月20日付)
「卯11月17日(5日?)近江屋新助方ニ止宿候土州藩中ニテ浪士頭ノ由、斉(才)谷梅太郎、右方ェ何者共不分(ワカラズ)九人斗(バカリ)帯刀人這入、梅太郎切害ニ及ビ、其節残リ居候品、刀壱本・下駄二足・右下駄焼印一足ハ二軒茶屋中村屋印、一足ハ下河原(會々堂=正しくは口篇に+會)印コレ有リ……段々承様候処、祗園町南側永楽屋方へ遊興罷越候者三人ノ内、一人ハ土佐藩ノ良申立、二人ハ佐土原藩ノ良申立居候良ニ候へ共、全ハ当時白川ニ旅宿罷在候坂本龍馬ノ徒党ノ者ノ良相聞候へ共、聢(シカ)ト左様ハ未相分猶探索ノ上、巨細申上グベク候……。」

刺客九人の内、暗殺前夜に永楽屋へ遊興した三人が一人は土佐藩士、二人は佐土原藩士を名乗り何れも土佐藩下屋敷として福岡孝悌が買い上げた白川屋敷出入りだったという。

海援隊士佐々木多門密書第ニ信(12/18付)。

「……白川屋敷に罷在候海援隊の内、…病人も有之、不取締にも有之候間…、小子は右取締致呉候様、長謙(長岡謙吉)始、北山大演(謎の海援隊士)より小子ェ相頼候へ共、辞退仕候処、隊長相極候へば、夫々役人も相定り可申候間、外に人無之是非共、承引致呉候様にとの亊にて、当十日(12月)より白川屋敷ぇ引移リ取締方仕居申候…」

謎の未確認海援隊士・佐々木多門に北山大演の登場は、果たして龍馬暗殺に関わりを持つのだろうか。

2015/09/11 Fri 10:03 [No.127]

[ 編集 ][ 返信 ]龍馬奥津城余談

杉さんぼく

東大維新資料編纂所の資料に、鳥取藩丁卯筆記と云うリアルタイムな探索方記述があります。

「…右三人の死骸、神道の式をもって…高台寺の南隣、国阿上人の旧跡霊山山内、村上歳太郎請け持ちの山地に埋葬に相成り、右山地埋葬の場所へ続きをもって一見仕り候ところ…檜木五寸角くらいの標木、長さ五尺くらい三本建て並べこれあり…坂本龍馬紀直柔神霊、裏に慶応三年丁卯十一月十六日神去三十三才とあい記しこれあり、左の方向同断標面、中岡慎太郎道正神霊、裏に同断年号月日とも、下に三十才と認めこれあり、右の方標面、籐吉神霊、裏に前同断、下に十九才とあい認め記しこれあり候…」

と、葬儀の翌日に墓碑の前に立った鳥取藩探索方が書き残して報告しています。

この記述を改めて見ると、今の龍馬慎太郎墓との違いがあるのは判りますか?

現在の墓は、右手に「中岡慎太郎道正之墓」

左手の真ん中に「坂本竜馬直柔之墓」

そして、囲い外には「藤吉之墓」です。

これは一般的かどうか判りませんが、著名ランクの本来なら一番右に龍馬であり、慎太郎はその次の位置にある訳です。

つまり、集合墓なら一番が右に龍馬であり、左に慎太郎との順番になります。

さて、そこで鳥取藩探索方のリアルタイムな記述です。

「…右三人の死骸、神道の式をもって…檜木五寸角くらいの標木、長さ五尺くらい三本建て並べこれあり…坂本龍馬紀直柔神霊、裏に慶応三年丁卯十一月十六日神去三十三才とあい記しこれあり、左の方向同断標面、中岡慎太郎道正神霊…」

と、葬儀の翌日に墓碑の前に立って報告しています。

「右三人の死骸、…三本建て並べこれあり…坂本龍馬紀直柔神霊、あい記しこれあり、左の方向同断標面、中岡慎太郎道正神霊…これあり…」

当初は、右に龍馬、その左に慎太郎だったのですよ。

いつから代わったのか?疑問に感じざるを得ません。

2015/10/06 Tue 06:37 [No.146]

[ 編集 ][ 返信 ]消えた龍馬兵法目録13年振りに出現!

杉さんぼく

龍馬さんの兵法目録が、おまさんらぁ、それが行方不明なのを知っちゅうか…とテレビ局に掛かって来た電話から、FNS大賞ノミネートされたテレビ番組が、2002年10月(高知は7月)に放送されました。

高知から出た今回の発見ニュース(2015年11月)、やっと世に出てきたか、と言うところです。

指定暴力団会長(当時)を尊敬しているという○氏が、竹中清水氏から中内知事にあった兵法目録を手に入れて、桂浜龍馬会なる架空団体名で桂浜の闘犬センター(現在はない)で展示されていました。

中内知事から手に入れた○氏の、いずれしかるべき場所に皆さんへ見て貰うよう披露したい、との事で、番組は終えていました。そうした中で、今回高知県内で出てきたわけです。

金策に困って売却したかどうかは、新聞記事見てないのでなんとも言えませんが、本来は竹中清水氏から高知県の手にあるべき兵法目録ですから、収まる所に収まって欲しい限りです。

竹中清水氏(たけなかきよみ)は、若くしてアメリカに渡り、サンフランシスコのジャンクマーケットで手に入れたそうで、土居晴夫(龍馬縁者)氏は、ばくち騒ぎで亡くなった船乗りの坂本直衛が龍馬関係資料を売り飛ばした、と推測します。

海援隊始末記などを著した歴史家平尾道雄先生や龍馬全集編纂の宮地佐一郎先生などの著作中では、竹内清水氏となっていたのが、竹中氏の間違いだったのが、この番組で判明しました。

深夜放送でしたから、観た方は少なからずや、否や。

2015/11/10 Tue 21:13 [No.191]

[ 編集 ][ 返信 ]桂浜馬龍馬会として龍馬兵法目録を持っていた〇氏は故人になっていた!

杉さんぼく

2002年10月(高知は7月)に放送されて以来、行方知れずの龍馬兵法目録。

広域指定暴力団会長(故人)を尊敬しているという○氏が、桂浜龍馬会なる架空団体名で桂浜の闘犬センター(現在はない)に展示していたのを、龍馬生誕150年の折りでしたかに確かに見ました。

結局、そのいきさつがTVに出た以上世に出せず、金策に困って内々に売却したのかも知れません。

その〇氏とは広瀬勝氏の事で、既に故人になっていました。

だから、渡り渡ってか、現出したのではないでしょうか。

2016/01/07 Thu 00:45 [No.234]

[ 編集 ][ 返信 ]龍馬惨殺 伊藤痴遊談

杉さんぼく

実録・維新十傑「坂本龍馬-中岡慎太郎」(昭和10年平凡社)を書いた、講談師として名を馳せた伊藤仁太郎痴遊が、昭和2年2月4日に東京放送局で放送した「龍馬の死」で、龍馬暗殺者として、十津川浪士・山田五郎右衛門の名前をあげています。(同書)

はて…。

伊藤痴遊ほど維新資料を集め、読み込んでいる人はいないだけに、この名前はどこから来たのでしょう。

土佐の詩人嶋岡晨氏は小説ながら、岡田以蔵の弟だったかの名前で西尾佐喜市を暗殺者として、列記しているのは分かるにもせよ、伊藤痴遊の山田五郎右衛門っていうのは気になって調べてもよく判りませんでした。

どなたかご存知ないか、というところで、この放送の後日談があって面白い。

龍馬崇拝者であるという杉山又男なる時事新報新聞記者が、放送後に憤慨した手紙を送って来た、とそれを紹介しています。

曰わく、

隆盛や龍馬を語るには、それ以上でなければ資格がない

単なる講談師が龍馬を中岡慎太郎以下に扱ったのは言語道断

薩長連合なども龍馬がいなければ、木戸は如何とも出来なかったではないか、西郷や木戸、高杉などは一小河童に過ぎない

龍馬についての講談するならもっと伝記を研究すべし、その誠意なくば、後龍馬について一言も述べるからず、と龍馬に代わって厳命しておく…

いやはや、いつの時代もいるもんです。

今でも、司馬遼太郎著の竜馬がゆくだけで竜馬は語るにしても、龍馬を語らないファンがいますからね。

2015/12/02 Wed 22:12 [No.207]

[ 編集 ][ 返信 ]龍馬惨殺 伊藤痴遊余談

杉さんぼく

また、以下のような話もあります。

痴遊氏が龍馬暗殺遭難について新聞に書いたら、浜松の代議士候補にもあがる中村四郎兵衛という人の書簡から、元新選組隊士の話を紹介しています。

…小生知己に永田克忠と申人有之…、同氏も新選組の一人にて、病気の為、刺客に加わらず候へ共、全く坂本暗殺者は今井信郎、渡辺一郎、高木啓次郎三人に相違無之、今井は祿七俵の所、右功により六百俵に加俸相成…

永田克忠…。

とある説には、旗本永田某が暗殺者だったともあったりしますから、永田某の名前は気にはならなくもありません。

この本を改めて見ていたら、意外な事に気付きました。

寺田屋にある龍馬忠魂碑、恩賜記念碑の両碑文は、なんとあの梅田雲濱遺稿並伝(昭和4年)梅田雲濱先生(昭和8年)の著書に名がある佐伯仲蔵氏が代作した、というのです。

…坂本龍馬氏に就き、御講演ある由、別紙両碑文は小生の代作せしものにして、此顛末に就きては、種々詳しく申上げたくも…取敢ず御参考迄に貴覧に供し候…。

おーっ、さすがは佐伯先生です。

今やなかなか手に入れるのは難しく、復刻もされない梅田雲濱遺稿並伝、梅田雲濱先生を著した佐伯仲蔵氏が龍馬忠魂碑、恩賜記念碑の代作したとは…。

杉山又男氏も気付かない痴遊氏の「坂本龍馬・中岡慎太郎」伝でした。

中岡日記や結城無二三、龍馬関係文書などの資料満載で、伊藤痴遊氏の「坂本龍馬・中岡慎太郎郎」は、片眼を瞑ってもまさしく入門編にお薦めです。

2015/12/02 Wed 22:26 [No.208]

[ 編集 ][ 返信 ]龍馬惨殺日の新旧暦(平成27年〜30年)

杉さんぼく

龍馬惨殺day
慶応3年(1867)★11月15日
(新暦1867☆12月10日)

平成27年(2015)(☆11月15日★旧10/4)
(★11/15→旧暦★12/25)
(☆12/10→☆10/29)

平成28年(2016)(☆11月15日★旧12/13)
(★11/15→旧暦★12/13)
(☆12/10→☆11/12)

平成29年(2017)(★11月15日★旧平成30/1/1-★2018/1/1)
(★11/15→旧★10/27)
(☆1210→☆10/23)

平成30年(2018)(★11月15日★旧12/21)
(★11/15→旧★12/21)
(☆12/10→☆11/4)

なんと、平成29年(2017)年の11月15日の旧暦、慶応3年から150年を経て、年が明けた翌平成30年(2018)1月1日です。

2015/12/03 Thu 06:19 [No.211]

[ 編集 ][ 返信 ]龍馬惨殺日は満月だったか?

杉さんぼく

龍馬惨殺day
慶応3年11月15日(新暦1867年12月10日)

この日、1867年12月10日(慶応3年11月15日)の月

新月 13日 17時 42分
半月(上弦) 20日 14時 19分
満月 28日 19時 21分
半月(下弦) 7日 0時 32分

龍馬惨殺日の夜は、下弦から新月になろうかと云う夜空で、今井信郎が陳述したようにどうやら満月でなかったのでは?

ついでに、平成27年の(2015年)11月15日の旧暦は12月25日です。

新月 11日 19時 29分
半月(上弦) 19日 0時 14分
満月 25日 20時 12分
半月(下弦) 3日 16時 40分

まさに満月です。
Xmasの夜でもあります。

2015/12/03 Thu 06:54 [No.212]

[ 編集 ][ 返信 ]龍馬惨殺のお薦め本

杉さんぼく

龍馬惨殺本のお薦めには、「龍馬暗殺の黒幕は歴史から消されていた」(中島信文著-彩流社刊2012)です。

曰わく「暗殺通説は、事件現場にいなかった土佐藩要人ら一部関係者による証言から事件後出来上がっており、…全て、土佐藩の武士が関係、関与しないと近江屋事件は無理がある」として、実によく調べています。

「龍馬を殺したるは実弟只三郎なり」と、実兄・手代木勝任が述べた資料についても、実は戊辰戦争で赦されるとなぜか明治5年、高知権参事に出仕、他藩から恵まれた土佐藩援助のもとに生きた、とその関係を紹介しています。
今井信郎→西郷隆盛
渡邊篤→海江田信義
の繋がりにも似てなくもありませんね。

龍馬書簡に見える「…寺町ニ川村盈進入道ニ行合…」(慶応元年9月7日権平 乙女宛)
「入道盈進までおんこし被成候…もし入道盈進がおくに二かへり候時ハ、伏見二て…」(同9月9日乙女宛)
の入道川村盈進が、龍馬旧知の医師にもかかわらず、土佐藩から駆けつけての死体検案書がないのは不思議なのはむべなるなかです。

龍馬惨殺の夜は、雨上がりの月夜だったのでしょうか?

その運命を予言したかのような龍馬の極月書簡がいまに残ります。
「…世の中の事ハ、月と雲、実二どフなるものやらしらず、おかしきものなり。…年のくれハ、米うけとりよなどよりハ、天下のセ話ハ実二おふざツパいなるもの二て、命さへすてれバおもしろき事なり」(慶応2年12月4日)

そう言えば、毎年の旧暦11月15日は満月か満月前夜です。

まさに、世の中は月と雲、人生終わるもおもしろきかなかも知れませんが。

世の中と言えば、
龍馬の歌の流布。
「世の中の人は 何ともいはゞ
いへ 我がなすことは我れのみぞ知る」

正しくは
「世の人は われをなにともゆはゞいへ わがなすことは われのみぞしる」

「…うちにいるのに こゝろのやみぢ さぐりさぐりて いでゝ行」(龍馬里謡)った龍馬dayの満月前夜、天に意志がある年の暮れゆく空があります。

今井信郎が述べた「雨上がりの月が煌々と輝いていた」、満月前夜19時21分の天気良ければの、龍馬慎太郎惨殺の月の光を見て、旧暦のその日こそ季節の体感を感じ、初夜の頃に龍馬・慎太郎、そして雲井龍藤吉を偲びましょう。

2015/12/03 Thu 07:11 [No.214]

[ 編集 ][ 返信 ]才谷屋順水日記余話(龍馬の本家)

杉さんぼく

龍馬の本家になる才谷屋文書(六代直益順水日記)の記述に、日下茂兵衛と言う土佐のネズミ小僧なる、享保の頃の怪盗の事が記されています。

本当にいたのだろうか、と伝説説、実在説の論議がある中、才谷屋文書に実在説の記載があったのです。

享保六年九月四日夜、蓮池町牢舎の罪人日下茂兵衛といふもの、相牢の者の銀を盗み取り、牢をぬけ欠け落ち仕る…。

貧農に生まれた茂兵衛、奉公した庄屋の娘との恋仲を阻止され、死に場所求めて、とある洞窟に入りました。

そこで、天狗か仙人にかに救われ修行、忍術の奥義を極めた、というわけです。

この忍術で、豪商や殿様の屋敷に忍び込み、盗んだお金はネズミ小僧のように貧しい人々に施したとされ、伝説ヒーローになりました。

なお、数十年前に丹中山(たんちやま)で、順水日記を残した直益さんのお墓発掘に出会えました。

その折り、拵えも立派な銀のキセルが、炭をひいた土の中から出て来ました。
このキセルを使いながら、土佐のネズミ小僧の事を順水日記に書いたのだと思うと、なかなかに感慨深くもあります。

参考
伝説の里を訪ねて(高知新聞学芸部編1994)

2016/01/20 Wed 06:43 [No.239]

[ 編集 ][ 返信 ]建立の読みに寄す〜立馬余談

杉さんぼく

数日前の朝日新聞「教えて」欄で、「建立」(こんりゅう)の読みについて、鈴木明雄企画委員が答えていました。
身近に、他の読みでは「立=りゅう」の読みは見当たらない、と。
しかし、坂本龍馬を立馬と読む例のあるのが龍馬関係者なら、知られています。

新選組隊士で、後に高台寺党として分離した服部武雄こと三郎兵衛良章36歳が、慶応3年11月19日(1867)新選組との争闘、油小路にて闘死した時に、以下の詩歌が懐にあったと言うんですね。

坂本立馬主横死の由を聞きて

「たずぬべき 人もあらしの 激しくて 散る花のみにぞ 驚るかれぬる」(『近世殉国一人一首伝』)

ご存知のように、当時は音訓さえ通れば当て字もすくなくともなかったようです。

件(くだん)の坂本龍馬をも、桂小五郎や岩崎弥太郎などは、龍馬を「良馬」と書いた当て字をしていますから、あながち、「立馬=りゅうま」の読み当て字もないとはいえませんね。

ちなみに、昔は「りゅうま」での呼称でしたが、今は「りょうま」のようです。(2016/2/1記)

2016/02/02 Tue 14:47 [No.243]

[ 編集 ][ 返信 ]Re: 建立の読みに寄す〜立馬余談

京都歴史研究会・代表

お龍さんは、

おりゅうさん でしたか?

2016/02/05 Fri 22:19 [No.244]

[ 編集 ][ 返信 ]お立とは言わずお良ですね。

さんぼく

お龍さんは、お良でしょう。
龍馬自身が同じじゃなあと、手紙で言ってますね

よってお龍の読みを「おたつ」と読んだか書いてある若きお龍写真は、疑問符が付きます。

2016/03/01 Tue 17:22 [No.247]

[ 編集 ][ 返信 ]水戸光圀が薦めた儒教の葬儀

京都歴史研究会・代表

◆1月23日(土)15:00〜17:30

京都大学人文科学研究所
本館1Fセミナー室1にて
◇近世後期における水戸藩の儒教儀礼―[喪祭儀略]と[喪祭式]を中心に―

◇報告者:田 世民
(淡江大学副教授、京都大学人文科学研究所招聘准教授)
の講演会を聴講してきた!

中国や朝鮮でも、時代につれて仏教式の葬祭儀礼が普及し、
儒家知識人たちはそれに対抗するべく儒家伝統の喪祭礼の再興に務めた。

近世日本の場合、江戸幕府は寺檀制度を実施し、火葬を含めた仏教式の葬送儀式を、それぞれの菩提寺により仕切るよう制度化させた

その制度の下で、儒家の知識人たちの中で困難が起きた!。

「孝」を重んじる儒者にとっては、親の遺体を火葬にすることなど、全く許しがたかった。

よって、儒家知識人たちが朱子(1130〜1200)『家礼』(冠婚葬祭儀礼のマニュアル書)を忠実に受け止め、これを制約された時代の状況下で生かし、その方法を工夫しようと実践していった。

崎門派の浅見絅斎(あさみけいさい)は、自ら『家礼』の校訂出版や講義を行い、原則的立場を強調した。

火葬は論外であり、また異姓養子の禁止をも厳格に要求した。

(絅斎自身には実子がなかったが、敢えて学問の信念を貫き養子を取らなかった⇒この厳しさは、崎門派に共通する特徴である。)

水戸藩の二代藩主:徳川光圀(1628〜1700)は、藩主として自ら儒教的礼制を定め、藩を上げて儒教喪祭儀礼を実施した。

万治元年(1658)年、正室:泰姫の葬儀を儒礼で行った。

寛文元年(1661)、父親:頼房の葬儀も儒礼で行い、常陸久慈郡(現/茨城県常陸太田市)の瑞龍山に儒式の墓所を造営した。
その儒葬前後の様子は『慎終日録 威公』として記録され、後の葬儀の参考となった。

2016/01/30 Sat 22:24 [No.240]

[ 編集 ][ 返信 ]続き…水戸光圀が薦めた儒教の葬儀

京都歴史研究会・代表

寛文2年(1662)、歴代藩主を祀る『祠堂』(家廟)を水戸城内に建てて、儒式祭祀を始めた。

光圀は寛文6年(1666)家礼に基づく喪祭儀礼を解説した『喪祭儀略』を和文で撰述させ、藩士らの墳墓を坂戸と常磐に授け、自葬儀祭を勧めた

これは光圀が権力者だから出来たことかも知れない

そして喪祭儀略は、写本として流通、改定増補を経て、水戸藩では近世を通じて儒教儀礼が行われ続けた

徳川斉昭(1800〜1860)は喪祭儀略を基に『喪祭式』を編纂、明治になって
斉昭の子、第11代(最後)の藩主:昭武(1853〜1910)によって出版された。

権威ある儒教喪祭儀礼マニュアル書が成立し、儀礼も執り行われてきたが、新しい時代の到来により終焉を迎えている

但し、神道式の葬儀『喪祭式』として、儒教の喪祭儀式が取り入れられ変化して、僅かに残り現在に至っている。

2016/01/30 Sat 22:26 [No.241]

[ 編集 ][ 返信 ]Re:講演会感想

京都歴史研究会・代表

【感想】
今まで私は、仏式の考え方で墓参りをしていて、神道や儒教の墓の形やしきたりが分かっていなかったので、少しは理解出来て、勉強になった。

講演後の懇親会に 急に参加させて頂き、和やかな中にも教授の皆様のお話を 真横で聴くことが出来て、それも貴重な体験になった。

その上、ほとんど夕食はご馳走になり恐縮した。

帰宅後、戴いた名刺からWikipediaで検索したら、凄いハイレベルの教授ばかりで、高校生の時は、赤点ばかりのアホな日本史答案をしていた私には、恐れ多いことだと感じた。

因みに、ご一緒した教授らは…
◆田 世民氏(台湾新北市の淡江大学副教授。京都大学准教授。)
◆高木 博志氏(日本の歴史学者。京都大学教授。専門は 日本近代史。天皇制度・文化史。)

◆山室 信一氏(京都大学人文科学研究所所長 。政治学者。元・衆議院法制局幹事。護憲派。
NHKスペシャル「シリーズJAPANデビュー」で実質的な皇統の廃絶を主張。)

◆岩城 卓二氏(京都大学人文科学研究所准教授。専門 日本近代史。)

2016/01/30 Sat 22:29 [No.242]

[ 編集 ][ 返信 ]蠣崎波響 危機を救った画家家老

藤原改新

蠣崎波響は松前12代松前資広の五男に生まれる。13代の道広は異母兄。母は松前藩家臣長倉長左衛門貞義の娘・勘子。家老職を継いだ長男波鶩(広伴)も画家として知られる。なお、幕末期の家老であった下国崇教も一時期波響の養子であったことがある。

生まれた翌年に父が亡くなり、兄道広が跡を継いだため、家禄五百石の家老蠣崎家の養子になる。幼い頃から画を好み、8歳の頃馬場で馬術の練習を見て、馬の駆ける様を描いて人々を驚かせたと伝えられる。叔父の広長は波響の才能を惜しんで、安永2年(1773年)に江戸に上がらせ、南蘋派の画家・建部凌岱に学ばせた。間が悪く翌3年に凌岱が亡くなると、師の遺言に従い宋紫石に師事。天明20年(1783年)20歳の時松前に戻り、この年の冬から大原呑響が約一年松前に滞在し、以後親交を結ぶ。波響と号したのはこのころからである。

寛政元年(1789年)のクナシリ・メナシの戦い(寛政蝦夷蜂起)で松前に協力したアイヌの酋長を描いた『夷酋列像』(函館市中央図書館に2点所蔵。1980年代にフランスのブザンソン市立美術館で「夷酋列像」11点が発見)を翌年冬に完成させ、これらが後に代表作とされる。寛政3年(1791年)3月に同図を携え上洛、『夷酋列像』は京都で話題となり、光格天皇の天覧に供され、絵師波響の名は一時洛中で知られた。円山応挙につき、その画風を学び以後画風が一変する。文化4年(1807年)、幕府が北海道を直轄地にしたため、松前家は陸奥国伊達郡梁川に転封され、波響も梁川に移った。文政4年(1821年)、松前家が松前に復帰すると、波響も翌年松前に戻り、文政9年63歳で没した。

画の門弟に、継嗣の波鶩のほか・高橋波藍・高橋波香・熊坂適山・熊坂蘭斎などがいる。

2016/01/17 Sun 10:02 [No.238]

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