京都歴史研究会・代表
@織田信雄
信長の次男、織田 信雄
(のぶかつ:1558〜1630)
母は生駒吉乃(生駒家宗の娘)。生駒屋敷にて生まれた。
大和宇陀松山藩の初代藩主。
初め、伊勢北畠家の養子に入り、第10代当主として具豊(ともとよ)、信意(のぶおき)を名乗り、御本所と敬称された。
(最終的に北畠家を掌握した)
天正10年6月2日(1582)本能寺の変で信長と長男:信忠は共に倒れた。この時、信雄は伊勢松島の居城にいた。
変報を受けると直ぐに軍を率いて伊賀を越え、近江甲賀郡土山に出た。
(記載:安養寺文書⇒備前国の山岳仏教系の古寺、宝物と多くの古文書が残る。記載:勢州軍記⇒伊勢戦国史,神戸良政が記した。)
しかし、伊賀の国衆が不穏な動きを見せたため、それより西に軍を進ませることができなかった。
蒲生郡日野には、信長の妾子が保護されていて、これを支援するの精一杯で、とても弔合戦など余裕がなかった。
(直前に催された、信長の三男:信孝を将帥とする四国攻めに、信雄の采配下の伊勢衆も多く動員されたからではないかとされる。)
明智光秀と戦うには、兵力が不足していた。
秀吉の時代、小田原征伐の論功行賞で、加増ではなく、父信長の祖の地:尾張と北伊勢五郡は没収され国替えとなった。
(この時、家康は関東へ転封)
信雄は国替えを拒絶した為に改易され、下野国烏山に流罪となる。
秀吉に嵌められたのだ。
文禄(元年:1592)の役を迎え、
流罪を許され名護屋へ招かれた。その後、信雄や信長の弟:有楽斎(うらくさい/長益)は秀吉のお伽衆となった。
信長から、猿・はげ鼠
と
呼ばれた秀吉に対して、妙なプライドを捨てたのか?媚び諂(へつら)う生活を選んだ。
秀吉の死後、大坂天満屋敷に住み、関ヶ原の戦いの時は傍観。嫡男:秀雄は秀吉からもらった越前大野郡の亀山城主だが、関ヶ原では当初は東軍ににつき西軍の加賀大聖寺城攻めに参加。
その後、信雄の命で西軍に転じた。身を寄せた。
信長の弟:有楽斎(長益)は嫡男:長孝とともに東軍に参加し軍功を遂げる。同じく信長の弟:信包(のぶかね)は西軍だが戦地は関ヶ原ではなく丹後田辺城。
しかし、息子:信重(伊勢林1万石)は東軍に就かせ保険をかけた。
本能寺で死んだ信忠の息子は、西軍で戦地は木曽川など。
よって織田は、東西のどちらが勝ってもいいように二股をかけた。九鬼、津軽、真田のごとく。
2016/04/02 Sat 12:00 [No.254]