京都歴史研究会・代表
@織田信雄続き、
そして織田同士は戦わないようした。
大坂の陣のとき、信包は死没していたが、信雄は先に片桐且元の殺害計画があることを本人に知らせ大坂を脱出させ、徳川に大坂の内情を知らせ、自らも脱出した。
信雄の戦功から(家康の織田家を存続させる温情か)、元和元年(1615)、上野国甘楽郡(かんらぐん,群馬県)に2万石・大和国宇陀郡に3万石の領地を得た。
上野国小幡藩では養蚕など事業に務め、楽山園を造園(現代でも名園として知られる)。江戸後期、養蚕事業は地域の一大地場産業となり、明治期の富岡製糸場へと繋がっていく。
安土城近くの桑實寺は天智天皇の時代に建立され、養蚕が行われていた。信雄はそれを見て思いついた感がある。
やがて領地を子供らに分け与え、晩年は京都に移り、現:中京区西洞院三条下ル柳水町(りゅうすいちょう)に隠居した。
宇陀に出向くことはなく、能や茶の湯など優雅に暮らした。柳水町は正に、千利休が茶の湯に利用した[柳の水]の名水が出る場所だから。
寛永(1624〜1645)初年に、
北野五辻に転居して没した。
享年73歳。
若い頃の天正伊賀の乱や、
小牧・長久手の戦いでの失敗はあったが、信忠や信孝といった直情型の兄弟とは違い、世渡り上手だった。
2016/04/02 Sat 12:03 [No.255]