杉さんぼく
田中河内介父子に対し、科人‐とがにんと云う烙印を押された―、との認識で言われる方がいます。
しかしながら、これは正しくなく、ましてや科人(咎人)ではないのではありません。
柿本人麻呂のいろは歌ではありませんが、やはりは罪科=とがなくて死すと思われます。
同じ例に、長州人による中山忠光卿惨殺事件があります。
中山忠光卿は、田中河内介の影響を強く受けて、闘う尊攘公家として暗殺されたとは言え、遠い長州の地で死しましたからね。
確かに、薩摩の罪刑はきつい法制がありました。
しかし、身ぐるみ剥いで、足枷手枷をして重しをつけ、海に沈めて投棄するのは、裁きも何もあったものではありません。
子孫にまで、追求するのも咎人以上です。
地元で祀られ建てられた小豆島の墳墓撤去にまで、薩摩人は干渉、疵跡抹消を求めて、明治12年の森遷郡長はこれを拒否した、と伝わります。(これについては、河内介が長州から資金を受けていたから、これをして薩摩人は背信行為だ、としたとも言われている)
偽装家紋まで墓に彫らねばならなかったのは、辛い限りです。
明治24年の贈位まで、これまた辛い限りです。
遺族への薩摩のしつこさ、陰謀の有り様、幽霊話しにまで仕立てるのは、やはり維新史上の汚点でしょうね。
これは赤報隊にまで続きます。
2015/10/21 Wed 13:04 [No.172]