杉さんぼく
金輪五郎(本名 志渡長治)諸説ある生年があり、20代後半から30代後半か。
秋田は阿仁銀山町、真木沢鉱山の台所手代(労働者の指揮監督役)をしていた志渡家の次男として誕生。
17〜18歳の頃、久保田の城下に出た後、渋江内膳家へ下男奉公しながら直真影流を学ぶ。
得意手を片手横面打ちだったとした。
身長5尺前後の短躯ながら五人力の肩幅がっしり型でそのいかつきは、手足を付けた衝立の様な体格だった。
年月不明ながら、そんな金輪の3尺5寸の朱鞘を越しにあびて闊歩する姿を人は、「赤鞘団九郎」と渾名した。
文久3年国抜け出奔して江戸を目指した。
おそらくこの後、赤報隊小島将満こと相楽総三たちと江戸辺りで出会い、東奔西走していたのかも知れない。
慶応2年、京都の所司代師範・大野応之助から西岡是心流の免許皆伝を受けている。
この大野応之助義章の門人には所司代のみならず、見廻組に多く、龍馬惨殺事件に名が挙がる渡邊篤、桂早之助などいる。
金輪五郎がなぜ大野応之助門下に名を連ね、免許皆伝までに至ったか。
ただ単に剣術だけに邁進していたのか、それとも、情報を得るために所司代・見廻組門下生の多い西岡是心流に学んだか、些かの疑念を感じなくもない。
その同門が龍馬惨殺に関与したか否かの慶応3年には、江戸にいて御用盗騒ぎの任務を負う薩邸浪士隊に入り、翌4年に相楽総三の赤報隊に身を置いた。
やがて、相楽総三は西郷や岩倉の命を帯びて官軍嚮導先鋒赤報隊として、中山道を進発。信州下諏訪まで進んだ所で、偽官軍の断命を下される。
しかし、金輪五郎は京都にいた為に、相楽総三たち赤報隊幹部が斬首された下諏訪の惨劇には遭遇しなかった。
赤報隊壊滅後、金輪五郎は、とにかく秋田に戻る。
しかし、血が騒ぐのかほどなく再び東征して来た官軍の戦列に身を投じて、東北各地を転戦している。
その最後、明治2年、攘夷志士として京都で大村益次郎暗殺に加わり、同年12月刑死した。
結局は、彷徨える西岡是心流の、それだけの尊王攘夷志士だったのかもか知れない。
2015/07/27 Mon 22:49 [No.66]