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奥津希多世ママ
NHK京都放送局が、昭和35年から一年間放送された「京都今昔」が、本になって出ていたのを引っ張り出し、「一粒の麦、京都に芽吹く」と題した一文がありましたので紹介します。
ご存知のように、ザヴィエルは京都にキリスト教布教の拠点とするため上京して来ました。
しかし天文20年(1551)当時の京都は混乱期、11日ばかりで離れます。
その8年後、永禄2年(1559)その意志を継いだガスパル・ヴィレラが、海路を堺に着き、大坂から山崎から舟で遡り、伏見、六地蔵、醍醐から山科を経て大津、坂本に入りました。
天台座主の要領を得ず、やっと京都の土を踏み、その過程は4ヵ月でした。
しかし、泊まる所なく同行のディエゴがやっと見つけたものの、2ヵ月あまりを転々とします。
そして、やっとヤマダノゴキ(山田の後家)持家だった、四条新町衣の棚辺りに落ち着きました。
「やっと落ち着いたが、誰も説教を聞きに来ない、誰も我々を知らないらしい」と、ロレンゾは手紙でぼやいています。
ここもやがて、追い出され、六角新町玉蔵町に移りました。
「又一軒家を借り、小なる十字架を建て、側に毛氈を敷きて飾りとし、予は赤き頭巾を被り、手に書籍(聖書)を持ち、日本人の通訳を置いて…」(1564年ヴィレラ書簡)
その一方で、迫害されたりの命がけ説教をしながらヴィレラは、当時妙覚寺にいた足利義輝に謁見、砂時計献上をしたりで布教許可を得ることに成功しました。
人身保護と免税がその許可(室町殿御案内書案)にはあり、一粒の麦としての布教も始まり、やがて30数年後に四条坊門姥柳町に、日本で初めて3階建ての南蛮寺が建築されるに至りました、とさ。
以上、キリシタン弾圧前史でした。
2015/07/17 Fri 18:43 [No.16]
杉さんぼく
梅田雲濱25年祭案内という資料があり、その元資料には、祭主梅田良三さんの部分に梅田印形のあるのが確認出来ます。
ところが、自称雲濱本家という××氏が配付した版があり、それは何度もコピーして潰れた字面で、そこにはそれがなく、痕跡に重ねて見ると、何と故意に梅田の印形を抹消しているのが判明、二枚重ねるとその痕跡は歴然です。
雲濱にはこれだけの弟子がいる、その縁戚だ、と自慢気に配付した資料ですがさらには、月日も9月を8月にして、再び9月に訂正するという資料捏造の痕跡しらも見受けられるのです。
なぜ、祭主梅田良三にある梅田印形を消したのでしょうか。
答えはただ一つ、雲濱こと矢部義質養子説(その系図配付する壬申戸籍では、矢部義質が雲濱である立証が成されていない)を主張したいが故の何物でもありません。
つまり、矢部義質とその父親除籍簿記載がなく、同性同名でもある可能性があるからです。
例えば、資料に名がある謎の海援隊士佐々木多門、明治になってから大阪の副病院長になっていたり(佐々木多聞)、大和郡山高校の教師になっていたりと、別人ながら2人も幕末明治を生きています。
××氏配偶者祖父の矢部義章が、矢部義質(雲濱)の養子になった確かなる立証はありません。
××氏配偶者が、雲濱弟の矢部家であるのは間違いないにもせよ、××氏はその配偶外戚だけのことで雲濱には全く関与せず、昭和初年までの矢部家は、直畿氏が当主との確認があります。(××氏作成系図では絶家とある)
多くの雲濱関係資料を先代健吉氏から持ち出したか借りたかで、××氏曰わく「梅田家には何もない」と公言しています。
昔、××氏が梅田家に相当ひどい事をしたのは想像をしくに余りあります。
困ったものです。
雲濱本家としながら、結局、雲濱遺族墓を京都から奈良に纏められた梅田家のように動く事なく、××氏は安祥院では何も供養法要すらしてません。
余談ながら、6月7日に小浜で雲濱生誕200年顕彰祭が行われ、小浜郷土研究会副会長さんに、ある人が××氏の名を出すと、××さんの…と口ごもり表情が強ばり、××さんにはえらい目にあった、と言われて嫌悪感を抱かれました。
××氏自身が招いたその系図偽造、資料偽造、資料孫引き等によって、小浜では今や信用が失墜しているのは否めず、もはや相手にしないと思います。
その××氏が顧問をする会は、もはや騙る会と化しました。
(杉さんぼく)
2015/07/15 Wed 19:03 [No.10]