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  1. 幕末明治に続いた南北朝(2)
  2. 妙満寺の鐘(2)
  3. 茶壺に終われてとっぴんしゃん(3)
  4. 十津川郷士(2)
  5. 京都嵐寛余話(4)
  6. 京都歴史研究会の掲示板(2)
  7. 暦の歴史余話(4)
  8. 十津川郷士余録(0)

[ 編集 ][ 返信 ]幕末明治に続いた南北朝

奥津希多世ママ mail

いわゆる南北朝の南朝57年は後醍醐天皇に始まるが、幕末維新では南朝正統論が沸騰した。

その嚆矢は水戸学にあり、大要は明暦3年(1657)水戸光國主導の大日本史(明治39年=1906)と、頼山陽の日本外史・日本政記につきる。

それが室町時代は逆賊とされた楠木正成の復活を呼び、南朝正当論に拍車をかけ、幾多の幕末維新勤王の志士・文人墨客たちをして湊川神社に詣でさせたのである。

本来、幕末維新研究において逃れられない南北朝天皇問題だが、維新の志士たちにその認識知識がどこまであったかどうか。

我々ですら、今の天皇が北朝系であるのはあまり知らないだろう。

249年かかった大日本史完結から5年後の、明治44年その南北朝正閏論が起こった。
明治天皇は北朝系だったが、これを憂いて同年3月3日、北朝をも尊崇しながら南朝正統の勅栽を下した。

ちなみに孝明天皇は、北朝正統論者だったようである。

以上、概略参照は「南北朝史論」(村田正志著-中央公論社昭和24年刊)

2015/07/24 Fri 07:28 [No.54]

[ 編集 ][ 返信 ]今の天皇さんは…

杉さんぼく

今の天皇さんは、北朝系-ホクチョウですね。

伏見・藤森神社の宮司さんも講演ではっきり仰有ってました。
一応、明治の頃にはどうやら決着はついたようで、以後タブーなのか表面化せずに今日に至ってる訳です。

もう少し知られても良いのではないでしょうか。

2015/07/26 Sun 00:02 [No.59]

[ 編集 ][ 返信 ]水戸学と南北正閏論

藤原改新

水戸学を分析してみると光圀時代の前期水戸学(水戸史学)と斉昭時代の後期水戸学(水戸政教学)の二つに分類することが出来る。前期水戸学とは大日本史修史方針である大義名分論及び、尊王斥覇論から生じた尊王論である。後期水戸学とは幕末の内憂外患の非常時に対処する為、永年藩内に於いて育成された尊王論と新たに外敵に備える為の攘夷論とを結びつけて主唱した尊王攘夷論である。
徳川幕府の官学は朱子学である。水戸学派は特に朱子の著作『通鑑鋼目』の中の大義名分と尊王斥覇の思想に啓発された。「大義名分」の思想とは世の中の秩序、平和、調和を保つ為の必要条件であり、大義とは尊王の大義であり、名分とは君臣の別である。「尊王斥覇」とは王道を尊んで覇府を排するという事である。水戸学派は特にこの書を精読して、新しい日本史の解釈に応用したのである。
当時の天皇は北朝系統であり、朝廷よりの官位も総て北朝から授与されている関係上、南北朝問題については北朝正位説をとる事が正統視されていた。幕府の本朝通鑑にしても前半は南朝、後半は北朝の勢力が増大するにつれ北朝正位説をとっており、特に明確な解釈は下していなかった。光圀はこれを遺憾として「皇統の正閏の解決の道は、三種の神器の所在を以て定める以外に方法は無い」旨を主張して南朝正位説をとった。南朝設立当時は神器は南朝方にあった。南朝正位の問題は当初、水戸史官全部の合意ではなかった。光圀死去後も再三論議されている。その度、安積澹泊(水戸黄門の格さんのモデル)が異論を抑えて、水戸藩としては最後まで南朝正位説を堅持したのである。南朝正位説については、水戸学派独自の説ではない。北畠親房は光圀誕生300年前既に『神皇正統記』を著して南朝正位説を主張している。光圀は親房に非常に感化を受けた。当時としては全く埋れていた『神皇正統記』の歴史事実を裏付ける為、『神皇正統記』は勿論、『太平記』、『源平盛衰記』、『平治物語』、『保元物語』等を調べ、歴史上重要な事項は写本又は修正して南朝正位説を裏付けた。そして、北朝を擁立した北条、足利氏等の策謀に筆誅を加えると共に、400年以上埋れていた楠木正成以下の南朝の忠臣を掘り起して顕彰、皇統の正閏と人臣の是非を公にした。

2015/07/26 Sun 10:15 [No.60]

[ 編集 ][ 返信 ]妙満寺の鐘

奥津希多世ママ mail

数年前、能の初舞台デビューで道成寺を観ました。
これは歌舞伎での演目、「京鹿子娘道成寺」として有名、南座での上演に際し、歌舞伎役者は妙満寺の鐘にお詣りする、とされています。
今は移転した岩倉の妙満寺に、京歴会代表と行った折はさして話題にはなりませんでしたけどね。
そこで調べて見ると…。
紀州道成寺の鐘は、高さは1m安珍・清姫の鐘として妙満寺資料館に安置されているそうですね。
寄進正平14年(1359)の銘の鐘、なぜここにあるのでしょう。
幕末期、老中間部詮勝が井伊直弼の意を受けて入洛、当時は寺町二条にあった妙満寺を拠点に、長野主膳などを中心として活動、その結果、安政の大獄の歴史を名に残しました。(ちなみに、上洛、入洛は高貴な大名クラスを指す場合に使われ、新選組が上洛、入洛とするのは間違いで、上京が正しい、と奈良本史学門の高野澄氏は指摘する)
松陰は間部詮勝老中を襲撃する予定だった、と白州で訴えた為、井伊直弼は死罪の朱筆を入れた、とされました。
その拠点だった妙満寺は大獄後、長州本陣となり、秀吉が石山本願寺制圧後、その跡に大坂城を築いたように、長州は妙満寺を本陣にする事で、松陰の間部詮勝老中に対する想いを果たしたのかも判りませんね。
京都オークラホテル前に桂小五郎の銅像があり、この像がその元妙満寺跡の方を見つめているのは、さてさて、偶然でしょうか、はたまた意図的でしょうか。

2015/07/19 Sun 11:12 [No.32]

[ 編集 ][ 返信 ]Re: 妙満寺の鐘

京都歴史研究会代表

ママさん。

妙満寺に道成寺の鐘があるのは、豊臣秀吉が根来寺を攻めた際に
秀吉の家臣がこの鐘を見つけ
合戦でこの鐘を使い、清姫の怨念を解くために京都へ運んだそうです。

ところで、妙満寺には、花登 筺(1928年-1983)の墓がありますね。
芸能人も多くお参りされるようです。。
因みに花登筺というペンネームはイギリスの劇作家・バーナード・ショーから命名とか、本名は花登 善之助さんといいます。

桂小五郎像は、妙満寺ではなく市役所前の地下鉄入口を見てますね〜(笑)

2015/07/21 Tue 22:08 [No.46]

[ 編集 ][ 返信 ]Re^2: 妙満寺の鐘

奥津希多世ママ mail

会長代表さん。
ありがとうございます。今はない妙満寺の方ではなく、そのまだ西の彼方は故郷の長州かもわかりませんよね。

2015/07/22 Wed 11:34 [No.47]

[ 編集 ][ 返信 ]茶壺に終われてとっぴんしゃん

奥津希多世ママ mail

お茶壺道中の話ですが、茶壷道中の行列が来ると世話ばかりかけさせられて(追われて)、煮炊きの煙も出せずに困り、「ずいき」を食べなければならないのを見かねたので、行列宿泊を断った本陣並みのお寺がありますね。
その寺、岐阜にある久運寺で、「お茶壺道中ゆかりの寺」との看板があるそうです。

宿泊を命じた城主により、何とか断った住職を説得し、茶壺宿として役目を果たしましたが、住職の代替わりをさせて、寺社大工の娘、千勢を夜接待、同襟を命じました。
住職も千勢も辞退、そして、千勢は自らの顔を焼いて抵抗しました。
この、千勢が子供たちとよく歌っていたのが、ずいずいずっこりばし〜だったんですって。

後年、住職はこの歌の木碑を建てたんだと。(今はない)

茶壺に追われてとっぴんしゃんとは、ある意味、政治、権力批判のある恐怖の歌かも知れません。

道中筋宿場の家では、悪いことをしたら「行列が来るぞ」と、戒めとされたそうな…。

と、言うわけです、ちゃんちゃん。

交通史、江戸時代史でのお茶壺道中、茶道頭1人、茶坊主2人、徒頭1人組の走衆というその役送とは「茶壺の御通」と言った、と松平太郎氏は江戸時代制度の研究(大正8年刊、土方副長とも面識持つ陸軍総裁松平太郎を父に持つ)で書いています。

そして、「採茶は…」と茶壺の御通に触れています。
「…歩行頭、宇治に至りて茶壺に収め、之を愛宕の山頂に蔵し、一夏を過して、冬に至り、之を江戸に齊せしが、中頃より京より直ちに甲州谷村へ遣はし、夏中此に置かれたり。後、又之を改めて府城富士見櫓に置く…警蹕道中(ケイヒツ=いましめて先払う)を警(イマ)しめ、沿道諸家の家老は出でゝ之を送迎し…諸侯は、故(もっぱ)らに道を回りて之を迂(トオシ)けたり…幕末…其役送を簡易ならしむ、数寄屋頭廃止と共に供献の茶は徒目付在洛の数寄屋坊主と共に、之を所司代に致し、以て禁裏に進めたり…」
ちなみに、京の御物茶師「上林」氏は山城宇治郷に390石、近江蒲生野に153石7斗6升、計543石7斗6升の知行を与えられていました。

資料には、御茶壺東海道往来之例書、御廻状等の他に元禄14年の茶壺通行岡崎宿言録があります。(享保、文化、安永年資料も残る)
詳細は、書ききれないのでこれで失礼します。

この話はだいぶ前に、会長代表に話しましたわね。

2015/07/21 Tue 00:19 [No.36]

[ 編集 ][ 返信 ]Re: 茶壺に終われてとっぴんしゃん

木曽 武

将軍が飲む茶に限って、御大層に・・・

それを真剣に有難がって、恐れ戦いて勤務する役人が、関係の無い通行近隣の、上は大名から下は庶民までに、その責任を権力で押し付る道中なんて・・・

まぁ 迷惑な話ですなぁ!

のんびり宿泊なんかしてねぇで、宿場継立でトットとイッチめぇよ!!
たかが小便の元を(チョット言い過ぎ、汗)

すみませんでした

2015/07/21 Tue 07:31 [No.38]

[ 編集 ][ 返信 ]Re: 茶壺に終われてとっぴんしゃん

木曽 武

PNG 403x207 67.9kb

お茶壺道中

グーグルから貰ってきました。

2015/07/21 Tue 08:16 [No.39]

[ 編集 ][ 返信 ]Re: 茶壺に終われてとっぴんしゃん

京都歴史研究会代表

ずいずいずっころばしの解釈
★昔、宇治から江戸の将軍に
[新茶]献上する為の
「お茶壺道中の一行」が、
(最大で人足1140人.馬161頭)たいそうえらそうにして
通っていた。
その当時は、
まだ[斬り捨て御免]の時代庶民は粗相の無いように、細心の注意を払っていた。
ある農家で、
[ずいきの胡麻味噌あえ]を作っていると、
お茶壺道中が来ると言うので、家の中に入り
戸をピシャリと閉めて(=トッピンシャン)やり過ごした。
子ども達は、両親に呼ばれても決して外に出てはならないと教えられた。
そしてお茶壺道中が通り過ぎると、やっと一息つけた
の中で、息を潜めていると、米を齧っているネズミの鳴き声や、
井戸の近くで、茶碗が割れたような音まで聞こえてくる

◇以下、怖い別の解釈

ずいずい   →どんどん
ずっころばし →すっ転ろばしゴマみそずい →ごますり接待茶壺     →お茶壺一行、       →大名行列
追われて   →やってきたらトッピンシャン→戸をピシャン抜けたら   →一行が通り抜        けたら
ドンドコショ →安心してどん        どこ大騒ぎ
俵のネズミ →お役人たち
食って  →農家が汗水流        して作り上げ        た米を取り上        げて
チュウチュウ
チュウチュウ →役人たちを小        馬鹿にする様おっとさんが
呼んでも
おっかさんが
呼んでも   →たとえ親が呼        んでも、
行きっこ
な〜あ〜し〜よ→外へ出てはい        けません。
井戸のまわりで→井戸は罪を背        負ったときの        身投げの場所お茶わん
欠いたのだあれ→慌て茶碗を割        ったのは誰
★本当は、怖い童謡より
何だか、番町皿屋敷みたいだ

2015/07/21 Tue 19:17 [No.42]

[ 編集 ][ 返信 ]十津川郷士

杉さんぼく

十津川郷士について述べましょう。
まず郷とはムラ、士とはサムライのことで、十津川村天誅殺人事件という、西村京太郎氏の小説に沿革説明がありますから、これが判りやすいでしょう。

十津川と言えば、天誅組挙兵が思い浮かべます。

詳細は略しますが、天誅組となぜ十津川なのかと言えば、十津川の勤王にゆかりある土地柄だと言うことがあげられます。

それは神武東征の先駆けを勤めた八咫烏伝説に、十津川郷が関与した伝を誇りにしていたからです。

以後、天皇の吉野や熊野等の御用立を勤め、壬申の乱、南北朝大塔宮親王の潜居、楠木正勝(大楠公の孫)の奮戦に労力をなして来ました。(大正時代に、正勝の賊名は除かれ正四位を追贈)

古来からのこうした縁で、幕末期の十津川郷士は禁裏御守衛願い出て、禁裏近くの屋敷とは別に、勤王浪士が出入り出来た京都円福寺に十津川屋敷を構えて勤王活動を始め、やがて、皇軍御先鋒とした中山忠光以下の天誅組に参加するわけです。

十津川郷に当てた天忠組檄文(事情大略)は云う。「十津川郷の為には急度御盡力被為在候思召に付、郷中有志の人々も兼ての忠義猶更憤發方、今天朝の御為死力を以て被盡度深く御頼被思召候…」
十津川郷士の農兵としての発端はと言えば、嘉永年間、あの松陰もわざわざ訪ねた大和の儒者森田節齊、その門下乾十郎が十津川に来て、節齊がに記すように「当時、僕等十津川農兵調練凡二千人、意在護鳳輦、憂国之志如…」として、調練した事があるのは多分に間違いありません。

それ以前には、天保14年に藤本鐵石も来ていますし、安政5年には松本奎堂も入郷しています。

その後、陸援隊・土佐濱田辰弥(田中光顕)なども、十津川郷士を頼って逃れ、鳥羽伏見前後の鷲尾侍従内勅の高野山義挙隊長として、十津川郷士650余名の働きを見ています。

従って、勤王運動にはやはりゆかりある土地柄と言えなくはありません。
「十津川ハ、山岳重畳の間二散布スル僻邑ニシテ、戸数一千有余、闔郷ノ人ハ、皆南朝ノ遺臣ニシテ、古来郷士ト称ス…」(明治維新発祥記-建標会編大正8年)

前述の田中光顕日記や中岡慎太郎日記には、しきりと十津川郷士の名前が出て来るのが見受けられます。

2015/07/18 Sat 08:39 [No.21]

[ 編集 ][ 返信 ]Re: 十津川郷士

木曽 武

深い歴史が隠れていた処だったのですね!

僕の 35〜40年に及んだバイク人生の中で、
和歌山・三重に向かう途中、何度も十津川を訪れてますが…
山の中の田舎、不文明なつり橋、の感しか無かったのですが…

その頃の僕の頭の中で、天誅組と十津川は繋がってませんでした。
不勉強だったんですね、今でも深くは分からないのですが(恥)

2015/07/18 Sat 09:20 [No.29]

[ 編集 ][ 返信 ]Re^2: 十津川郷士

奥津希多世ママ mail

何年か前の台風被害あって、また今回もかと心配いたしましたが、大丈夫だったようで何よりです。

2015/07/21 Tue 00:26 [No.37]

[ 編集 ][ 返信 ]京都嵐寛余話

奥津希多世ママ

古い俳優さんの話です。
嵐寛さんってご存知ですか。

嵐寛こと葉村屋-嵐寛寿郎は、明治35年12月8日に京都木屋町三条下ルで生まれました。
本名高橋照一、祖父の名は桐竹紋十郎、叔父に嵐徳三郎、叔母に三味線名人と言われた祇園の芸妓がいて、この娘が森光子です。(ネットでの明治36年とあるのは間違い)

祖父紋十郎の連れ合いで、祇園縄手は祖母の葉村屋(行友李風の名作-月形半平太は、この宿で生まれた)に嵐寛は預けられて育ちました。

だらしない父親は、男勝りのきつい母親に追い出されて、その頃大阪浜寺の紡績会社のボンにひかされ、木屋町二条で旅館をしていた妹(森光子の母親)の家に転がり込みます。

そこで、60歳を越すというのに女中さんに子供を産ませたりしている父親でした。

森光子のデビュー作は、昭和10年のマキノ正博監督作品嵐プロ「なりひら小僧・春霞八百八町」で、これが3月封切りされ、7月の行友李風作「月形半平太」にも、当時府立高女に通っていた森光子が出演しています。

この頃の後、森光子の母親は亡くなり学校をやめて、再婚して森端となっていた嵐寛母親の所に来ました。
「…学校やめて従兄のうっとこへ来たんダ、妙な関係になった…」(嵐寛談)

森端の森から本名美津をつけて、森光子としましたが、もっと良い芸名を、と利発な光子は生意気をいい、これが嵐寛の母親のカンに触らない訳がありません。

「…挨拶忘れたと、モノサシで打つんダ。女のいくさにまきこまれたらかなわん。かなりの修羅場で…その時、たしかに光子は数えで15やった。押入の中に不浄のモノを突っ込んでいたと、それを見つけた母親が叱りつけた。こら可哀相や、男の弟子もいますがな。光子はきっとワテのことも、こころよく思っておりませんかったやろな。あれも苦労したんダ。…肉親とか家庭ゆうもんは、地獄や…『女を好きになるな、×××なら何ボでも好きになれ』とマキノ省三先生のいわれた意味がやっと身にしみました。…」(嵐寛談)

多感な時に母親を亡くし、恋し恋しの母親と眠る、森光子の気丈さはこうして育まれたんでしょうね。

参考
名著としてあたくしのお薦めの本です。
【聞書アラカン一代-鞍馬天狗のおじさんは】(竹中労1976)

2015/07/17 Fri 15:20 [No.15]

[ 編集 ][ 返信 ]Re: 京都嵐寛余話

木曽 武

奥津希多世ママさん こんばんは

嵐寛十郎こと、むっつり右門(近藤右門)それから鞍馬天狗…
大好きでした!!!
映画はどれも見たいのに、お金が無くて、たまに貰う僅かの小遣いを、お菓子とか欲しいものも買わずに、必死で貯めて映画を見に行ったものです。嬉しくてうれしくて……

懐かしい小学生の頃の思い出です。

2015/07/17 Fri 18:53 [No.17]

[ 編集 ][ 返信 ]Re^2: 京都嵐寛余話

杉さんぼく

> 奥津希多世ママさん こんばんは
>
> 嵐寛十郎こと、むっつり右門(近藤右門)それから鞍馬天狗…
> 大好きでした!!!
> 映画はどれも見たいのに、お金が無くて、たまに貰う僅かの小遣いを、お菓子とか欲しいものも買わずに、必死で貯めて映画を見に行ったものです。嬉しくてうれしくて……
>
> 懐かしい小学生の頃の思い出です。

2015/07/18 Sat 08:59 [No.26]

[ 編集 ][ 返信 ]Re^3: 京都嵐寛余話

杉さんぼく

キー操作間違えました

2015/07/18 Sat 09:04 [No.27]

[ 編集 ][ 返信 ]Re^3: 京都嵐寛余話

杉さんぼく

なるほど〜杉作、日本の夜明けは近い!

2015/07/18 Sat 09:18 [No.28]

[ 編集 ][ 返信 ]京都歴史研究会の掲示板

木曽 武

本会は、京都を中心に平安時代から幕末。明治維新までの広い範囲の歴史研究を目指しています。
 研究発表会や、フォーラムの開催なども計画しています。

 自分は、本会の代表ではありませんが、会の発展と永続を祈る者です。
 よろしくです♪♪♪

2015/07/14 Tue 08:43 [No.6]

[ 編集 ][ 返信 ]Re: 京都歴史研究会の掲示板

京都歴史研究会代表

いつも 有り難う御座います。
こちらこそ

ご指導願い、勉強に成ります。
よろしくお願い致します。

2015/07/17 Fri 20:13 [No.18]

[ 編集 ][ 返信 ]Re^2: 京都歴史研究会の掲示板

杉さんぼく

騙る会にはなりたくないですね。

2015/07/18 Sat 08:58 [No.25]

[ 編集 ][ 返信 ]暦の歴史余話

杉さんぼく

旧暦は明治5年11月9日に司法省令第22号により、12月3日を明治6年(1873)1月1日としました。
従って、明治5年は12月2日まででした。
だから、明治6年1月1日(12/3)以降は現代暦で解釈します。

余談ながら例えば、池田屋騒動は元治元年6月5日(新暦1864/7/8-金)に起こっていますが、新撰組ファンならご存知の、通説にいう祇園祭の宵宮ではありません。
正しくは宵々山であり、6/5は曳き初めとかで宵宮は6/7でした。

それに山鉾巡行は、昭和41年まで前祭(7/17)と後祭(7/24)に分けての巡行があり、現在の7/17〜18になり、だからこそ俗に後の祭り、と言うようになったとかで、近年、再び二回巡行になりました。

ついでながら、桜田門外の変も正しくは安政7年です。

何故ならその15日後の、3/18(1860/4/8日)に万延元年と改元されたからです。

最近では、正しい安政7年年号で紹介されつつあります。

では龍馬暗殺は…?。

即死なら、慶応3年11月15日(1867年12月10日・火曜日)初夜(20:00頃)でした。
或いは16日(11日・水曜日)かも知れませんが、とにかくも11月15日(12/10火)として、方や通説に云う龍馬生誕についてはどうでしょうか。

正しい記述は、天保6年11月15日(1836年1月3日)です。
天保6年(1835年)11月15日とか、1835年(天保6年)11月15日とあるなら、それは間違いで、作家であれ、歴史家・研究者であれ正確ではなく信頼は出来ません。
また、坂本龍馬(1835〜1867)とある表記も然りです。
1835は、1836〜1867とするのが正しい記述です。

因みに天保6年は閏7月があり、1年は13ヶ月の384日ありました。
こうした基本的な歴史年号を教える歴史の教師は、教育現場には多分皆無でしょう。

なぜなら、何年に何々があった、起こった等で年号を覚えるのが歴史と思わされているのですから。

そして、今度はそれを教える側になるのですから。

歴史は現代であり、現代は歴史なら、正しい月の満ち欠けに拠る旧暦が記載された、新旧年表をもってして教えて貰いたいものです。

2015/07/15 Wed 22:14 [No.12]

[ 編集 ][ 返信 ]Re: 暦の歴史余話

木曽 武

杉さん こんにちは

結構たくさん書き込みましたね!
面白いです! もちろん勉強になります。

明治6年1月1日(12/3)は水曜日だったそうですが、間違いないですか。

2015/07/16 Thu 16:48 [No.14]

[ 編集 ][ 返信 ]Re^2: 暦の歴史余話

杉さんぼく

はい、明治6年1月1日(12/3)は水曜日で間違いありませんよ。曜日記載の万年新旧暦は会長代表も持っておられます。

新旧暦は、明治以前歴史の基本中の基本ですからね。

君が代斉唱に目くじらたてる、文科省もなぜか教えようとしません。

2015/07/18 Sat 08:50 [No.23]

[ 編集 ][ 返信 ]Re: 暦の歴史余話

京都歴史研究会代表

祇園祭は…御霊会。
初め山鉾巡行は神社とは関係の無い行事で、明治以前は、雑色と呼ばれる人たちの支配になっていました。

巡行の前夜祭は、宵宮ではなく宵山になります。
天神祭は…天満宮の神事ですから、宵宮ですね。

八坂神社の神事では…宵宮ナンチャラと云うようです。

鉾町では、前夜祭を宵山と云うのでしょうね。

2015/07/17 Fri 20:31 [No.20]

[ 編集 ][ 返信 ]Re^2: 暦の歴史余話

杉さんぼく

山鉾巡行は四条通りまでが優雅な祗園囃子の流れと共に進む、八坂祗園社への奉納神事で、河原町の辻回しからは、戻り囃子音色に乗って鉾町に戻ります。

2015/07/18 Sat 08:56 [No.24]

[ 編集 ][ 返信 ]十津川郷士余録

杉さんぼく

ちなみに、龍馬惨殺に、十津川の者としてその名刺が利用されました。

そこには、慶応年間、獄にいた適塾々生十津川郷士深瀬仲麿の名がありました。(適塾会誌にご子孫寄稿談)

十津川郷士の名が出るなら、中岡慎太郎を狙っていたのか、或いはカモフラージュだったか…。

2015/07/18 Sat 08:41 [No.22]

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