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奥津希多世ママ mail
お茶壺道中の話ですが、茶壷道中の行列が来ると世話ばかりかけさせられて(追われて)、煮炊きの煙も出せずに困り、「ずいき」を食べなければならないのを見かねたので、行列宿泊を断った本陣並みのお寺がありますね。
その寺、岐阜にある久運寺で、「お茶壺道中ゆかりの寺」との看板があるそうです。
宿泊を命じた城主により、何とか断った住職を説得し、茶壺宿として役目を果たしましたが、住職の代替わりをさせて、寺社大工の娘、千勢を夜接待、同襟を命じました。
住職も千勢も辞退、そして、千勢は自らの顔を焼いて抵抗しました。
この、千勢が子供たちとよく歌っていたのが、ずいずいずっこりばし〜だったんですって。
後年、住職はこの歌の木碑を建てたんだと。(今はない)
〜茶壺に追われてとっぴんしゃんとは、ある意味、政治、権力批判のある恐怖の歌かも知れません。
道中筋宿場の家では、悪いことをしたら「行列が来るぞ」と、戒めとされたそうな…。
と、言うわけです、ちゃんちゃん。
交通史、江戸時代史でのお茶壺道中、茶道頭1人、茶坊主2人、徒頭1人組の走衆というその役送とは「茶壺の御通」と言った、と松平太郎氏は江戸時代制度の研究(大正8年刊、土方副長とも面識持つ陸軍総裁松平太郎を父に持つ)で書いています。
そして、「採茶は…」と茶壺の御通に触れています。
「…歩行頭、宇治に至りて茶壺に収め、之を愛宕の山頂に蔵し、一夏を過して、冬に至り、之を江戸に齊せしが、中頃より京より直ちに甲州谷村へ遣はし、夏中此に置かれたり。後、又之を改めて府城富士見櫓に置く…警蹕道中(ケイヒツ=いましめて先払う)を警(イマ)しめ、沿道諸家の家老は出でゝ之を送迎し…諸侯は、故(もっぱ)らに道を回りて之を迂(トオシ)けたり…幕末…其役送を簡易ならしむ、数寄屋頭廃止と共に供献の茶は徒目付在洛の数寄屋坊主と共に、之を所司代に致し、以て禁裏に進めたり…」
ちなみに、京の御物茶師「上林」氏は山城宇治郷に390石、近江蒲生野に153石7斗6升、計543石7斗6升の知行を与えられていました。
資料には、御茶壺東海道往来之例書、御廻状等の他に元禄14年の茶壺通行岡崎宿言録があります。(享保、文化、安永年資料も残る)
詳細は、書ききれないのでこれで失礼します。
この話はだいぶ前に、会長代表に話しましたわね。
2015/07/21 Tue 00:19 [No.36]