No.21へ返信

記事投稿フォーム
題名
名前
補助
本文
他の入力項目
編集キー
  
送信

十津川郷士

杉さんぼく

十津川郷士について述べましょう。
まず郷とはムラ、士とはサムライのことで、十津川村天誅殺人事件という、西村京太郎氏の小説に沿革説明がありますから、これが判りやすいでしょう。

十津川と言えば、天誅組挙兵が思い浮かべます。

詳細は略しますが、天誅組となぜ十津川なのかと言えば、十津川の勤王にゆかりある土地柄だと言うことがあげられます。

それは神武東征の先駆けを勤めた八咫烏伝説に、十津川郷が関与した伝を誇りにしていたからです。

以後、天皇の吉野や熊野等の御用立を勤め、壬申の乱、南北朝大塔宮親王の潜居、楠木正勝(大楠公の孫)の奮戦に労力をなして来ました。(大正時代に、正勝の賊名は除かれ正四位を追贈)

古来からのこうした縁で、幕末期の十津川郷士は禁裏御守衛願い出て、禁裏近くの屋敷とは別に、勤王浪士が出入り出来た京都円福寺に十津川屋敷を構えて勤王活動を始め、やがて、皇軍御先鋒とした中山忠光以下の天誅組に参加するわけです。

十津川郷に当てた天忠組檄文(事情大略)は云う。「十津川郷の為には急度御盡力被為在候思召に付、郷中有志の人々も兼ての忠義猶更憤發方、今天朝の御為死力を以て被盡度深く御頼被思召候…」
十津川郷士の農兵としての発端はと言えば、嘉永年間、あの松陰もわざわざ訪ねた大和の儒者森田節齊、その門下乾十郎が十津川に来て、節齊がに記すように「当時、僕等十津川農兵調練凡二千人、意在護鳳輦、憂国之志如…」として、調練した事があるのは多分に間違いありません。

それ以前には、天保14年に藤本鐵石も来ていますし、安政5年には松本奎堂も入郷しています。

その後、陸援隊・土佐濱田辰弥(田中光顕)なども、十津川郷士を頼って逃れ、鳥羽伏見前後の鷲尾侍従内勅の高野山義挙隊長として、十津川郷士650余名の働きを見ています。

従って、勤王運動にはやはりゆかりある土地柄と言えなくはありません。
「十津川ハ、山岳重畳の間二散布スル僻邑ニシテ、戸数一千有余、闔郷ノ人ハ、皆南朝ノ遺臣ニシテ、古来郷士ト称ス…」(明治維新発祥記-建標会編大正8年)

前述の田中光顕日記や中岡慎太郎日記には、しきりと十津川郷士の名前が出て来るのが見受けられます。

2015/07/18 Sat 08:39 [No.21]