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奥津希多世ママ
古い俳優さんの話です。
嵐寛さんってご存知ですか。
嵐寛こと葉村屋-嵐寛寿郎は、明治35年12月8日に京都木屋町三条下ルで生まれました。
本名高橋照一、祖父の名は桐竹紋十郎、叔父に嵐徳三郎、叔母に三味線名人と言われた祇園の芸妓がいて、この娘が森光子です。(ネットでの明治36年とあるのは間違い)
祖父紋十郎の連れ合いで、祇園縄手は祖母の葉村屋(行友李風の名作-月形半平太は、この宿で生まれた)に嵐寛は預けられて育ちました。
だらしない父親は、男勝りのきつい母親に追い出されて、その頃大阪浜寺の紡績会社のボンにひかされ、木屋町二条で旅館をしていた妹(森光子の母親)の家に転がり込みます。
そこで、60歳を越すというのに女中さんに子供を産ませたりしている父親でした。
森光子のデビュー作は、昭和10年のマキノ正博監督作品嵐プロ「なりひら小僧・春霞八百八町」で、これが3月封切りされ、7月の行友李風作「月形半平太」にも、当時府立高女に通っていた森光子が出演しています。
この頃の後、森光子の母親は亡くなり学校をやめて、再婚して森端となっていた嵐寛母親の所に来ました。
「…学校やめて従兄のうっとこへ来たんダ、妙な関係になった…」(嵐寛談)
森端の森から本名美津をつけて、森光子としましたが、もっと良い芸名を、と利発な光子は生意気をいい、これが嵐寛の母親のカンに触らない訳がありません。
「…挨拶忘れたと、モノサシで打つんダ。女のいくさにまきこまれたらかなわん。かなりの修羅場で…その時、たしかに光子は数えで15やった。押入の中に不浄のモノを突っ込んでいたと、それを見つけた母親が叱りつけた。こら可哀相や、男の弟子もいますがな。光子はきっとワテのことも、こころよく思っておりませんかったやろな。あれも苦労したんダ。…肉親とか家庭ゆうもんは、地獄や…『女を好きになるな、×××なら何ボでも好きになれ』とマキノ省三先生のいわれた意味がやっと身にしみました。…」(嵐寛談)
多感な時に母親を亡くし、恋し恋しの母親と眠る、森光子の気丈さはこうして育まれたんでしょうね。
参考
名著としてあたくしのお薦めの本です。
【聞書アラカン一代-鞍馬天狗のおじさんは】(竹中労1976)
2015/07/17 Fri 15:20 [No.15]