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京都歴史研究会代表 mail
9月19日(土)13時〜16時半
ひと・まち交流館京都
(京都市下京区河原町五条下ル)3階第5会議室にて
◇梅田雲濱五代目子孫
梅田昌彦氏(元大阪芸術大学教授)の記念講演と、
雲濱生誕200年を顕彰するフォーラムを、
杉さんぼく氏の司会進行で行います。
*主催/京都歴史研究会
*協賛/杉さんぼく六十路会
*参加予定パネラー
◇大高忠兵衛の子孫
◇維新クラブ会長:赤禰武人研究者
◇古高俊太郎研究者
◇鳥取藩:水戸学研究者
◇京都の天皇陵研究者
◇京都歴史研究会代表
*定員:90名、参加費無料。
*先着40名には雲濱取調書
資料付を配付、抽選で16名に
維新関係本の無料お持ち帰り。
2015/07/01 Wed 16:32 [No.3]
京都歴史研究会代表
再送します。
2015/07/17 Fri 20:22 [No.19]
杉さんぼく
古高さんにも案内を送りました。
参加いただければ良いのですが、昨年だったかどなたかが亡くなられた事やら、忙しいお彼岸なので無理かも知れません。
三縁寺さんでの6月4日池田屋殉難法要には、三縁寺さんに参列出来ないと連絡があったそうです。
雲濱墓碑建立13人衆の中のお一人だけに、残念な限りです。
予定では、大高さんは来られるようですが…。
2015/07/23 Thu 00:17 [No.48]
杉さんぼく
京都に近い大津に大練寺と云うのがあり、そこに漢学者上原甚太郎立齋(1794〜1854)の墓があるのを皆さん方はご存知でしょうか?(その門前の石碑は、奈良梅田昌彦氏によって建立された)
上原甚太郎立斎は寛政6年(1794)高島郡新儀村北畑(高島市)上原丹三郎の長男に生まれ、若くから大津に出て若林強斎の学統を学び、崎門学者(儒学者、山崎闇斎の門下)として京都にも名を知られた学者でした。
その名声を聞いたのが小浜藩士、梅田源次郎雲濱で、京都遊学中に立斎の弟子となることを申し出て、その非凡さを見抜かれて学友となし親交を深めました。
その後、梅田雲濱は大津の北保町荒神堂近くの坂本町にある米穀商、鍵屋中村五兵衛の別宅を借りて私塾、湖南塾を開塾、その時に立斎は娘信(しん)を雲濱に嫁がせました。(鍵屋縁戚の土山年男氏が2015年2月に逝去された。合掌)
信は、書画にも優れた若い才女で、尊王攘夷運動に奔走する雲濱を支えてよく尽くし、貧困生活にもめげずにいましたが、辛労が祟ってか29歳の若さで病死しました。
そして、立斎は嘉永7年(1854)1月8日、61歳で没しています。
「梅田雲濱先生湖南塾址」が、長等小学校の校門前に梅田雲濱顕彰碑(ここは二度目の塾で、最初の開塾地は、現在の浜大津5丁目辺りとかです)としてありますが、師の上原立斎と娘のとの交情話には、激動の幕末期を足早に駆け抜けた若き学徒のドラマとして、尾花川(日本婦道記-山本周五郎)のような小説にはならないものでしょうか?
2015/07/28 Tue 10:51 [No.71]
京都歴史研究会・代表
早、来月のフォーラムとなりました。
ハガキや メール連絡は
新聞社以外は済ませました。
台風が来なければ良いですね。
2015/08/06 Thu 08:31 [No.88]
杉さんぼく
そう、台風が心配です。
何しろ、配付資料が90部(1部14〜5枚)創刊号会報100部に加え、無料提供単行本が20冊以上あるのですからね。
さて〜。
結婚式の司会はこれまで幾度となくこなしてきましたけども、話の成り行きの分からない今回は、いやはや、いやはや…。
まさに、太宰治の口にするヴェルレーヌの「恍惚と不安の二つ我れにあり」です。
詩吟の先生、以前はH見の消防署長さんだったんですって。
今は、京都の消防局関連で何かあれば会見の場に出られてコメントをされる由のお偉いさんの由。(それは浅見刑事局長のようなのでありませんか!?)
2015/08/11 Tue 00:16 [No.89]
京都歴史研究会代表
フォーラム終了後の
打ち上げ会場予約しました!
河原町五条『さと』
午後5時半より、
梅田雲浜の墓を幕府に憚って建立した門人たち…13人にあやかって、
13人を予約しました!
会費3000円
飲み放題が付くと4000円
9月19日(土)の3日前までに
飲み放題は連絡との事
これから、各人に参加をお聴きしてまいます。
宜しくお願い致します。
梅田昌彦さんを囲んで、現代の13人が集いましょう
2015/08/19 Wed 07:51 [No.96]
木曽
木曽 武こと・・・・です
13人目に参加 よろしくです。
2015/08/19 Wed 11:21 [No.97]
京都歴史研究会代表
京都新聞のまちかど欄に
来週、フォーラムの案内が掲載されます。
本日9月8日(火)
朝日新聞・京都欄に
フォーラム開催をメールでお伝えしました。
掲載されるかは、分かりません。
尚、新聞紙上の問い合わせ電話番号は奥津希多代ママの携帯にしましたから、よろしくお願い致します。
2015/09/08 Tue 18:27 [No.118]
奥津希多世ママ
はい、はい、
見ました。
京都新聞まちかど欄の案内に
掲載されてましたよ\(^_^)/
あたくしも行きますからよろしくね
2015/09/16 Wed 04:30 [No.131]
京都歴史研究会代表
9月19日(土)13時〜16時半
ひと・まち交流館京都
(京都市下京区河原町五条下ル)3階第5会議室にて
◇梅田雲濱五代目子孫
梅田昌彦氏(元大阪芸術大学教授)の記念講演は素晴らしかったです。。
◇詩吟も良かったです♪
◇朗読お疲れ様♪
◇雲濱生誕200年を顕彰するフォーラムを、
*パネラー
◇大高忠兵衛の子孫
◇維新クラブ会長:赤禰武人研究者
◇古高俊太郎研究者
◇鳥取藩:水戸学研究者
◇京都の天皇陵研究者
◇京都歴史研究会代表
*参加者約70名
ちょっとアンケートや記帳が上手く出来ませんでした。これからの課題ですね。
しかし、参加の皆さんから良かったと喜びの声をたくさん頂戴し、
大成功のフォーラムになりました。
約半年前からの準備でしたから、会員さん初め、応援下さった皆々様ご苦労様でした。
フォーラムを聴いて下さった皆々様
有り難う御座いました!
2015/09/20 Sun 22:47 [No.137]
杉さんぼく
良かったですね、あっと言う間の時間でした。
嬉しかったのは、80歳前後の防府出身Uさんと、20代か30代かのMさんをそれぞれに紹介したら、奇遇にも同じ女学校の先輩後輩だった事で、喜んでいただいた事です。
こうした集まり、会合での交流が供養と顕彰の一助なれば良いですね。
中岡慎太郎が言った、邑あるものは邑をなげうち、力あるものは力をなげうちのごとく、それぞれのそれぞれが支えたイベントでした。
お疲れさま。
2015/09/21 Mon 16:38 [No.138]
杉さんぼく
鳥取黒木龍馬会さんが、ブログ紹介してくれました。
ありがとうございました。
以下参照
↓
http://www.yamagunitaro.cocolog-nifty.com/
2015/09/23 Wed 20:32 [No.140]
杉さんぼく
「…幕末つてさういふものだなあと思つてね、あらためて面白くなるけど、いろいろなイデオロギーがごつちやになつちやふ。勤皇(注-正しくは勤王)、佐幕、開國、攘夷と四つあつて、それが順列組合せになる。佐幕勤皇、佐幕攘夷、佐幕開國、勤皇開國、勤皇攘夷…とあつて、まるでダービーだ。ただひとつなかつたのは、開國攘夷。今の日本の状況はだんだんかうなつていく。沖縄の事件ひとつみてもさうだね…。」
今から43年前に、三島由紀夫氏が語った一文ですが、幕末維新以上に昭和維新に関心を抱いた三島氏ですら、尊王=勤王ではなく昭和維新の青年将校の唱えた尊皇=勤皇が記憶にあった、と思わざるを得ません。
70年安保に危機感を感じた三島氏は、自衛隊決起せよ、とその翌年の1970年、市ヶ谷の自衛隊占拠で割腹自刃した事件から42年の歳月…。
数年前の龍馬伝に明け暮れた中で、余り騒がれる事なく、その三島由紀夫が考えもしなかった昨今の様相、流れに棹差しながら開國攘夷はまさに政治混迷時代に入りました。
相手の話を聞かず一方通行にまくしたてた自分に酔い、多分、三島由紀夫すら読んでないし、憲法論議で砂川事件すら知らなかったのではないかと言う、知性のない安倍首相によって、この先どう流されて行くのでしょうか。
結局、自民党安倍首相を選んだ国民にも責任はあるだろうし、支持率上がらずの、対抗する野党に魅力ない原因も否めません。
まさに、外圧危機に直面した現代の幕末維新の何ものでもありますまい。
2015/07/21 Tue 11:36 [No.40]
杉さんぼく
我等団塊世代の時代的ヒーローだった俳優に高倉健さんがいます。
その健さんが、山本周五郎作品に触れているので紹介しましょう。
…人に薦められて山周さんの「晩秋」をあわてて読んだら、骨太のしっかりした、もの凄く力強い作品だ、と思った。
自分の父親を切腹に追い込んだ相手に、心を通じさせてしまう娘の話で、何もかも人のせいにして押し付ける今の時代を見抜いて書いているその筆は凄い、黒澤明監督も行き詰まると、山周作品を読んでいたとか。
現代人が失ってしまった何か大切なものを追い求めて止まない……
そしてこの「晩秋」を読んでいただきたい、と憂いをこめて結んでいます。
健さんがまた、かくも言います。
…冬の松を表す「寒青」と言う言葉が好きだ。
枯れ果てて凍てつく風雪に、松だけが青々生きている、人生どんな厳しくあっても、自分もこの松の様に青々と、活き活きと人を愛し、信じ、触れ合い、楽しませるようにありたい……、そんなふうに生きていけたら……。
とても好きな言葉だ。
たまには、歴史に関係なくもこうした読書に親しみましょう。
それこそ、歴史に触れて、そんな風に生きて行けたら…です。
恵光院周嶽文窓居士 合掌。
2015/07/27 Mon 00:54 [No.64]
杉さんぼく
三島由紀夫の母方の縁戚は旧幕老中、永井尚志だが、この読みをなおむねとか、なおひさと読んだ小説や資料が多い。
だが、この読み方は間違いだ。
正しくは「なおゆき」と読む 。
と言うのも、以下の様に孫の久富志子さんが言われている。
「父が、曾祖父の永井尚志の名前である[ナオユキ]からの[志]の一字をもらって、志子[ゆきこ]と名付けた。だから、尚志は、なおむねではなく、なおゆきが正しいのです。」
ちなみに、旧幕15代将軍徳川慶喜は、外交上はけいき・一般的にはよしのぶと普通は呼称される。
むろん間違いではないが、本来は「のりよし」という読み方が正当である。(徳川資料古文書)
2015/07/27 Mon 22:42 [No.65]
杉さんぼく
幕末維新の再来かと例えられた昭和維新の時代を象徴するかの2.26事件、これらの青年将校たち(或いは陸軍仕官学校、陸軍大学学校出身)は、「大正デモクラシーを自由謳歌して後」(萩のゴジラお宅歴史研究のI氏)彼らは松陰や西郷、乃木希典に心酔したのでしょうか。
いや、そうではない、それは短期間ながらの大正デモクラシー、デモクラットな考えが浸透しつつあった明治維新後の、近代化反動の始まりなのではないだろうか、と思ったします。
折しも、昭和3年(1928)は一巡りした戊辰の年、早や60年でした。
この前後に幕末維新ブームが起こり、勤王佐幕を問わない中で、子母澤寛氏の新選組3部作、幕末奇談等の名著が生まれ、歴史家の平尾道雄は「新撰組史録」を世に出しました。
と同時に昭和に入った1925年・治安維持法が、政治デモクラシーの自由を脅やかすために発動されました。
ただ単なる歌舞音曲的な自由謳歌時代だったなら弾圧されないにも関わらずで、昭和維新の歌を聴いたなら、こうした事情が判ろうかと言うものです。
この辺りの流れは、出版人作家の半藤一利氏の「幕末史」(新潮社)「昭和史」(平凡社)がお薦めで、中途半端な歴史家を振りかざす本よりはましではないかと思われます。
幕末維新ブームにのっての名を売る、明日の糧を得る品位のない姿勢は、やはり歴史顕彰とはほど遠いと言わざるを得ないし、疑問視せざる得ません。
明治国家樹立から57年を経た昭和時代の始まりは、ある意味では陸軍が主役であれ、悪役であれ担ったのは間違いがありません。
それは大正11年(1922)、日本陸軍重鎮の山県有朋死亡によって、長州閥横行から陸軍仕官・陸軍大学学校出身の軍刀組と云うに成績至上主義になり、昭和軍閥の台頭を出現させました。
かたや、この頃の流行語「大学は出たけれど…」の構図が巷を席巻していました。
「成金」流行語の生まれた大正期の好景気は短く、日本経済安定化まで行かないままの不況〜関東大震災、そして追い討ちは昭和4年のアメリカの株式崩壊に金融恐慌でした。
2015/09/11 Fri 10:27 [No.130]
杉さんぼく
安政5年(1858)、いわゆる戊午(ボゴ)が水戸藩に朝廷(梅田雲濱建白書には朝庭)から下ります。
この解説、解読が維新夢クラブのK君が活字起こししましたから、秋の雲濱生誕200年で配付します。
乞うご期待!
2015/07/15 Wed 06:13 [No.8]
京都歴史研究会代表
戊午の密勅(ぼごのみっちょく)
幕府の将軍継嗣問題の決定や、安政五か国条約の違勅調印を快く思わなかった第121代孝明天皇(1831〜1867)は、幕府および水戸藩へ
安政5年(1858)8月8日付け勅諚(ちょくじょう)を下した。
戊午は安政5年の干支で、
前例を破って朝廷から水戸藩に内密に下されたので「戊午の密勅」という。
水戸藩へは8月7日深夜…左大臣近衛忠煕(ただひろ)から水戸藩京都留守居:鵜飼吉左衛門(うがいきちざえもん)に手交され、諸藩へ伝達せよという添書が付けられていた。
この異例の勅諚には、条約調印をめぐる幕府の対処の仕方を批判し、水戸藩の攘夷推進を促していたが、これを知った幕府は
、水戸藩に諸藩伝達を禁じた。
水戸藩ではこの勅諚伝達の
可否を廻り意見が分かれ、
翌年、朝廷が幕府の求めに応じて勅書返納を沙汰するに及んで政治問題化した。
天皇の幕府・諸藩に対する政治的所信初の公的な表明と取れる[戊午の密勅]は、朝廷が積極的に政治関与を示したもの位置付けられ!
大老:井伊直弼に[安政の大獄]の弾圧を決意させる発端となった
…2015年9月4日(金)、
私は京都アスニーセミナーの講座を受けてきた。
『井伊直弼と安政の大獄』
京都女子大学文学部教授
母利 美和(もり みわ!ではなく男性の教授:もり よしかず)
彦根城博物館学芸員をされていたので、井伊直弼には詳しく著書も多いらしい。但し、水戸の人には、よく思われていないとか?(笑)
安政の大獄で、梅田雲浜を最も重要(幕府にとっては危険)人物として(安政6年9月7日)、一番に捕まえた井伊直弼を 私は良くは思っていない
しかし歴史は、敵味方の両方の立場から見なくてはならないから、
先月、彦根に行き、井伊直弼展も観て来たし、今回の講座も聴講して来た。
口の堅かった梅田雲浜、論ずれば歯が立たなかった為、江戸送りにしたという。
(安政6年9月13日(1859/10/9)獄死)
吉田松陰は連座しただけで、
戊午の密勅とは、何ら関係ない人物であり、たまたま、捕らえみたら、言わなくても良い
老中首座である[間部詮勝(まなべあきかつ/1802〜1884)の暗殺]を企てていた事を自白しての死罪だった(安政6年10月27日)。
2015/09/11 Fri 07:21 [No.123]
京都歴史研究会代表
さて、この講座のレジェメで、彦根城博物館所蔵
戊午の密勅の写しのコピーを戴いた。
また、安政の大獄での処分リストも初めて見た。
これには、評定所(老中1名.寺社奉行.勘定奉行.町奉行.大目付.目付)が諮問決定した処分リストに、それより重い[死罪]の言葉などを付箋紙で貼り付けられたものだった。
例えば、吉田松陰は、初めは
「流罪」判決が「死罪」となっている。
井伊直弼が貼ったと伝わる、
罪を一段以上重くした書き換えだったが、母利美和教授が言うには、井伊直弼ではなく、井伊直弼と皆で決定した罪状という。。
因みに安政の大獄/主な処分者…
◆安政6年4月22日:前関白/鷹司政通、鷹司輔煕、前左大臣/近衛忠煕、前内大臣/三条実万⇒落飾(出家)。前武家伝奏/東坊城聡長⇒永蟄居。
青蓮院宮(久邇宮朝彦親王)⇒隠居永蟄居。
◆安政6年8月27日:
徳川斉昭⇒国許永蟄居。
水戸藩主/徳川慶篤⇒差控。
徳川慶喜⇒隠居・慎。
◆安政6年8月27日:第一次断罪水戸藩家老/安島帯刀⇒切腹。
京都留守居役/鵜飼吉左衛門⇒死罪.鵜飼幸吉⇒獄門。
藩士茅根伊予之介⇒死罪。
鮎沢伊大夫・小林良典⇒遠島。池内大学⇒中追放。
勘定奉行/川路聖謨(かわじとしあきら)⇒罷免.隠居差控。
◆安政6年9月6日
前老中/堀田正睦(ほったまさよし/佐倉藩主)⇒隠居。
◆安政6年9月10日
前老中/松平忠固⇒隠居。
◆安政6年10月7日:第二次断罪橋本左内・頼三樹三郎・飯泉喜内⇒死罪。
大覚院門跡家臣/六物空万⇒遠島。
◆安政6年10月27日:第三次断罪
吉田松陰⇒死罪。
◆安政6年12月16日
茅根伊予之介の息子/熊太郎⇒遠島。
※これにて処分終了。
だが、その翌年、安政7年3月3日、
井伊直弼(1815〜1860年3月24日)は、安政の大獄の報復を受けるような形で、
桜田門外において暗殺された
2015/09/11 Fri 07:23 [No.124]
藤原改新
「竜」が常用漢字(新字)で「龍」がその旧字に当たるという関係になりますが、坂本龍馬が生きた時代に常用漢字はなかったのだから、「龍」が正しいという考え方があります。新聞や国語辞典等では歴史上の人物でも新字を使うのが一般的です。但し「竜馬がゆく」などは「竜」を使っているので、作品名だからといって必ずしも「龍馬」となるわけではない。しかし「竜馬」はヒーロー的な要素が強い様な気がする
2015/09/06 Sun 20:12 [No.112]
杉さんぼく
司馬遼さんが、「龍馬」ではなく「竜馬」の文字にしたのは、明確に、小説としてのメッセージ、フィクションであるのを意識しています。
一方の「龍馬」。
この字体の重みは事実、ノンフィクションとして表現があります。司馬遼さんが歴史事実にある龍馬をリスペクトしたのが、土佐の歴史家平尾道雄氏の龍馬史観でした。
その著「龍馬のすべて」や「海援隊始末記」は、事実としての龍馬資料原点です。
平尾道雄氏はまた、昭和初期「新撰組史」「(新撰組史録)」も著していて、同じ頃に子母澤寛氏が新選組三部作(新選組始末記'新選組物語'新選組異聞)を出しています。
歴史家平尾氏の「新撰組史」の「撰」、新聞記者作家の子母澤氏の「新選組始末記」「選」の例に似ているわけです。
従って当然、司馬遼さんは知っていただけに、龍馬を尊敬して竜馬を描いたのです。
龍馬の名はここから命名された?。
「龍馬河水之端者乎、而有若斯之象兆…」(龍馬負図香炉記)
2015/09/08 Tue 10:02 [No.117]
京都歴史研究会代表
古来より地名は、
地形・特産物・生息動植物・
幕府や藩の行政機関・神社や城・住人の職業身分・出来事等・・・・
その土地の地理歴史から命名されている。
土砂災害に見舞われた
広島県広島市安佐南区八木地区(八木3丁目)は、かつて
『蛇落地悪谷
(じゃらくじあしだに)』
「竜の首が落ちた場所」と呼ばれていた
災害に警鐘を鳴らした地名だった。
新興住宅地は、古(いにしえ)の人々の付けた名前を伏せて
○○台や○○の丘等と、お洒落な名前を付け宣伝し、購買意欲を駆り立てる。
なので、古地図を確認したり、古老の話を聞いたり、古い登記簿(閉鎖謄本)を入手する等、危険情報を集めるのが、土地や家屋を購入する時に必要だろう。。
例えば、古(いにしえ)の名前を挙げてみよう・・
@小野小町の棲む随心院に
九十九夜通った後、満願の百日目に凍死した深草少将(良岑宗貞816〜890後の僧正遍昭:小野小町と同じ六歌仙の一人の説有り)は有名だ。
その少将の住まいが京都伏見の深草の地なので、深草少将と呼ばれた。
深は、深田、泥田を意味し、
草は、伏見区の伏フサ・フシ・フセと同様に水辺の底湿地を意味している。
よって深草の地盤は強くない場所なのだ。
A柴又(しばまた)は、
[嶋俣(しままた)]が変化したもの。嶋は、デルタ状の土地。
俣は、河川の合流地点を意味する。
岐阜県大垣市の秀吉の一夜城で知られる「墨俣城」も俣が付く。。
長良川とその支流が入り混じる地に建てられた城(砦か)で、城全体が河川に面している。
現在の城跡とされている場所は、河川の氾濫や開発で地形が変わっている為、推定された場所で、遺構が残っていたのではない。
他に、危険地帯として、
B小豆(あずき)は土砂災害のあった場所
「あず」は「あぞ」の転化、谷筋が崩れて岩などが堆積している場所。
香川県小豆島は古事記では、
「あずきしま」と呼ばれている。
C芋・伊毛・妹・神・今生などの「いも」は、うも(うめ)となまり、埋まるの意味だ。
新潟県の中越地震で被害をうけた、旧山古志村の
「芋川」も、「埋もれる川」そとしている。
D宇佐・牛は、まさしく古語の「憂し」からで、不安定な土地を云う。
Eに続く
2015/09/08 Tue 07:52 [No.115]
京都歴史研究会代表
E梅も、「埋め、埋まった」から来ている。
沢山のビルが建ち並ぶ大阪の中心[梅田]は、湿地帯を埋め立てた場所だ。
F落合は、川の合流部を意味する。
G柿のつく地名は、土地が「欠けて」いる所。。
H釜は、津波でえぐられた地形。
鴨も「カマ」が転じて、えぐり取られた地形や低湿地の浸水地名。
京都の下鴨は、そのままの場所だ。
I倉・蔵は、「崖や谷」などに付けられた。
神奈川県の鎌倉、岡山県倉敷市が挙げられる。
土砂崩れがおきやすい地区かも知れない。
J白は、「更(さら)地」になるという意味。洪水の土砂で埋まった土地。
K曽根は、川の水が運んできた堆積物を「そね」と呼び、突出した岬や、城下・市場などの端を表わす。
L新田(にった)は、「煮た」で「じとじとしている湿地や沢」を表す。
M貫(ぬく)は、鉄砲水での山崩れや土砂崩れの場所。
N除(のぞく)は、洪水時に、税を「免除」されたや、土地が「のぞかれた」の意味。
O萩(はぎ)は、「剥き」に由来し、山間部では崩れやすい崖地、土地が「剥がれ」地滑りする場所。
P平は、急傾斜地や崖地で滑りやすい土地。
Q吹(ふく)は、火山の噴火例えば、雲仙普賢岳は、ふく→ふける→ふけぬ→ふけん→ふげんだけ。
番外編で、美女は、何故だか「ぬかるみ」を表している
まだまだ、数多くの警戒を促す名前が存在している
本『あぶない地名』
災害地名ハンドブック
小川豊著…等々発行されているので、参考にされると良いだろう。
2015/09/08 Tue 07:56 [No.116]
藤原改新
江戸時代に「藩」という呼称は、公的な制度名ではなかった為、これを用いる者は一部に限られ、元禄年間以降に散見される程度だった(新井白石の『藩翰譜』、『徳川実紀』等)。明治時代に初めて公称となり、一般に広く使用されるようになった。
元々「藩」という語は、古代中国で天子である周の王によってある国に封建された諸侯の支配領域を指し、江戸時代の儒学者がこれに擬えて、徳川将軍家に服属し将軍によって領地を与えられた大名を「諸侯」、その領国を「藩」と呼んだことに由来する。あくまで江戸時代には「藩」の語は儒学文献上の別称であって、公式の制度上は藩と称されたことは無い。
当時の江戸幕府は、大名領は領分、大名に仕える者や大名領の支配組織は家中などの呼称が用いられていた。いずれも、その前に大名の苗字もしくは拠点(城・陣屋所在地)とする地域名を冠して呼んだ。
今日の歴史学上では、大名領およびその領地の支配組織を藩、藩の領主である大名のことを藩主、大名の家臣のことを藩士という事が多い。同じく現代歴史用語として、藩に対して幕府の直轄領のことを天領と呼ぶ事も多い。
しかし、この藩について、当時の人々が実際に何と呼称していたかは詳しくはわかっていない。幕府からの命令は藩主個人名 例えば長州藩の場合は「松平大膳大夫殿」に宛てて出されており、各藩側も自藩と他藩の区別さえできれば良かったので「当家」「他家」などの呼称で十分だったと考えられている。藩士についても「○○藩士」とは呼ばれず、例えば「長州藩士」であれば公的には「松平大膳大夫家来」と称された。また「藩主」より、封地名に「候」をつけて呼び現されることが多かった。例えば「尾張侯」、「姫路侯」といった具合である。
明治元年(1868年)に明治新政府が旧幕府領を天皇直轄領(天領)として府・県に編成した際に、大名領は天子たる天皇の「藩」であると観念されたこともあり、「藩」は新たに大名領の公称として採用され、藩主の居所(城持ち大名の場合は居城)の所在地の地名をもって「○○藩」という名前が初めて正式の行政区分名となった(府藩県三治制)。翌 明治2年(1869年)までに版籍奉還が行われて藩主は知藩事に改められ、明治4年(1871年)の廃藩置県によりさらに藩が県に置き換えられた。これによって江戸時代以来の藩制は廃止され、藩領は整理された。
なお琉球は、その実質的な支配者である薩摩藩が廃藩置県によって県となったことを受け、翌 明治5年(1872年)、独立王国から日本国に帰属する琉球藩へと改められた。以後 明治12年(1879年)の琉球処分まで、琉球は廃藩置県後の日本国内において唯一藩制が行われていた地域である。
2015/08/22 Sat 18:14 [No.100]
京都歴史研究会代表
知りませんでした。
藩邸は ○○屋敷。
では、脱藩は、何と呼んだんでしょうね。
国抜けかな?
2015/08/25 Tue 15:24 [No.103]
貴美ちゃん
伊三さんに聞いた話しでは、国抜けとか、亡命とか、脱国と言ったそうです。
高杉晋作も日記にもそうあるようです。
彼らにとって国とは、州(くに)、長門なら長州となり、薩摩なら薩州になるわけです。
また、国抜け脱国の罪(百姓農民なら跳散-逃散)は各法によって違いもありました。
2015/08/29 Sat 17:20 [No.106]
木曽 武
若いころから、数十年気に成ってました。
PCも無く、ネットなども無く・・・
映画を見てはブツブツ
TVを見てはブツブツ
よく書いてくれました。早く大勢の人達が理解してほしいと思います。
2015/08/26 Wed 08:18 [No.104]
京都歴史研究会代表
以前、杉さんぼく氏から
聴いたのですが、
龍馬書簡には、「二本松薩邸」「二本松邸」「屋敷」(望月清平宛て-慶応3年10月18日)とあ るそうですよ。
はてさて如何に?
2015/08/31 Mon 17:43 [No.108]
京都歴史研究会代表
慶応三年十月十八日付け、
龍馬の望月清平宛て書簡。
「(…略)昨夜薩邸吉井耕輔より、こと伝之れ在り候ニ、未だ屋鋪(今で云う@河原町土佐藩邸)二入事あたハざるよし。四条ポント町(近江屋)位二居てハ、用心あしく候。其故ハ此三十日計後ト、幕吏ら龍馬の京二入りしと謬伝して邸(@邸)江もたずね来りし。
されバ【二本松薩邸】に早々入候よふとの事なり。
小弟思ふニ、御国表の不都合の上、又、小弟さへ屋鋪ニ入ルあたハず。
又、【二本松邸】ニ身をひそめ候ハ、実ニいやミで候得バ、萬一の時も之れ在り候時ハ、主従共ニ(龍馬&藤吉)此所(近江屋)ニ一戦の上、
【屋鋪(@邸】ニ引取申べしと決心仕り居り申し候。又、思ふニ、大兄ハ昨日も小弟宿の事、御聞合下され候彼【屋鋪(@邸)の辺の寺、松山下陳(下陣)を、樋口慎吉ニ周旋致させ候よふ御セ話下され得バ、実に大幸の事ニ候……略」
2015/09/01 Tue 08:09 [No.109]
奥津喜多世ママ
妻は
病床に臥し…で有名な梅田雲濱はんは、なんや、若林強齊先生の孫弟子になるんどすな。
雲濱はんは若州(若狭)のお人で、強齊先生のお墓近くにある北条定齊という先生も若州人、墓石裏面に、宝暦12年2月19日生、文化12年9月6日歿(死ぬ意味、没でない)とありますえ。
強齊先生は延寶7年7月8日の生、享保17年正月20日、50有余4歿…と、門人西依周行はんの寛政8年2月の墓碑面は語ります。
父親正印の側に埋めよの遺言で、父長軒と眠ってはるんどすな。
寛永15年12月29日生、寶永7年正月9日終(なぜか、歿でも没でもない
あらら〜
)
2015/08/04 Tue 14:23 [No.82]
杉さんぼく
京都に近い大津に大練寺と云うのがあり、そこに漢学者上原甚太郎立斎(1794〜1854)の墓があるのを皆さん方はご存知でしょうか?
上原甚太郎立斎は寛政6年(1794)高島郡新儀村北畑(高島市)上原丹三郎の長男に生まれ、若くから大津に出て若林強斎の学統を学び、崎門学者(儒学者、山崎闇斎の門下)として京都にも名を知られた学者でした。
その名声を聞いたのが小浜藩士、梅田源次郎雲濱で、京都遊学中に立斎の弟子となることを申し出て、その非凡さを見抜かれて学友となし親交を深めました。
その後、梅田雲濱は大津の北保町荒神堂近くの坂本町にある米穀商、中村五兵衛の別宅を借りて私塾、湖南塾を開塾、その時に立斎は娘信(しん)を雲濱に嫁がせました。
信は、書画にも優れた若い才女で、尊王攘夷運動に奔走する雲濱を支えてよく尽くし、貧困生活にもめげずにいましたが、辛労が祟ってか29歳の若さで病死しました。
そして、立斎は嘉永7年(1854)1月8日、61歳で没しています。
「梅田雲濱先生湖南塾址」が、長等小学校の校門前に梅田雲濱顕彰碑(ここは二度目の塾で、最初の開塾地は、現在の浜大津5丁目辺りとかです)としてありますが、師の上原立斎と娘のとの交情話には、激動の幕末期を足早に駆け抜けた若き学徒のドラマとして、尾花川(日本婦道記-山本周五郎)のような小説にはならないものでしょうか?
2015/08/04 Tue 14:39 [No.83]
奥津希多世ママ
雲濱先生をよほど気にいれられたんですね、上原立斉先生は。
生活よりもその学識や人柄が、先生をして二人娘のうちの長女「信」さんを娶わす事になるんですよねえ。
それが現代までの、五代目玄孫まで続くんですからすごい歴史です。
2015/08/04 Tue 17:55 [No.84]
京都歴史研究会代表
希多代になったり、
喜多代になったり、
貴多代?
2015/08/28 Fri 07:58 [No.105]
奥津希多世ママ
打ち間違えたんです、ごめんね
2015/08/29 Sat 18:37 [No.107]
杉さんぼく
高橋泥舟遺稿の話です。
泥舟の言うには、江戸で清河八郎結成・虎尾の会に龍馬も名を連ねて面識あったその八郎が後年、佐々木只三郎に暗殺された遠因は、清河が佐々木を軽んじ論破して馬鹿にした尊大な態度だった事にある、佐々木は快くおもわなかったので清河は殺される羽目になった、と…。
泥舟はそう確信していたようです。
虎尾の会には義弟山岡鉄太郎鉄舟が幹部に名をなし、江戸にあっての龍馬にとっては同門ネットワークでした。
小太刀では太刀打ち出来ない清河に、打ち負かされていた佐々木なら遣りかねない、と思っていたのは義弟山岡(小野)の考えもあったのかも知れません。
高橋泥舟伊勢守政晃(山岡精一)は、勝海舟・山岡鉄舟の幕末三舟の一人です。
その遺墨は高値で、子母澤寛氏の名著「逃げ水」ではその主人公として、同氏三部作「おとこ鷹・おやこ鷹・勝海舟」とはまた違った重みで、見事に幕末維新が描かれています。
中公文庫にありましたが、現在、書店から消えているのは残念な限りです。
ともあれ、清河八郎暗殺に佐々木の私怨があるなら、江戸の頃に清河繋がりの龍馬にも佐々木の私怨があるなら、見廻組説も信憑性があるかもわかりません。
が、この絡みを利用された、としたならどうでしょう。
幕末三舟は何も語りませんでした。
参考までに、佐々木只三郎については、龍馬とも面識あった幕府目付の杉浦梅譚正一郎日記に記載がありますが、松浦玲氏はさすがにご存知でした。
宮地佐一郎氏編纂の龍馬全集批判をしたあの松岡司氏は、残念ながら未見だったとかで、知らずして梅譚日記を紹介した松浦氏に反論するのもまた異なものです。
虎尾の会で、清河や山岡に近い池田徳太郎が龍馬惨殺を家伝に残している、と何かの資料にありましたが、まだ行き当たらずで、方や龍馬と松平主税助、松平大隅守との繋がりも気になります。
浪人龍馬ネットワークに繋がる勝海舟・松平春嶽・清河八郎・大久保一翁・高橋泥舟・佐久間象山等にもっと焦点が当たればいいのではないでしょうか?。
とりわけ、海舟は師でありライバルだったようで、海舟が幕閣の中枢に抜擢されると手ごわくやりにくい、とこぼす位ですから、海舟も意識したのか、あれだけ多くを語る中でも、龍馬には以後あまり触れないのは、その性格が災いしていると言わざるを得ません。
それに比して、「逃げ水」描く泥舟伊勢守政晃、人格者の良識人で泥舟遺稿、お薦めです。
2015/07/21 Tue 19:44 [No.43]
藤原改新
私にとって、高橋泥舟と云えば、文藝春秋文庫 南條範夫の山岡鉄舟ですね。山岡鉄太郎が叶わなかった槍の名手である義兄。謹慎中の徳川慶喜の上野寛永寺守備隊隊長ですかね。
2015/07/21 Tue 21:19 [No.44]
京都歴史研究会代表
杉さん
大阪天王寺
一心寺に高橋泥舟の碑が
ありましたね。
それから、
杉浦梅譚のたんは、サンズイ辺で杉浦 梅潭 ですね。
2015/07/21 Tue 21:47 [No.45]
杉さんぼく
大阪天王寺は一心寺の見上げる程の戊辰東軍碑は、確かに高橋泥舟の筆でしたね、確かに。
幕末三舟の中でも、一番高値の泥舟です。
ちなみに、次が鐵舟で、数の多い海舟が一番安い訳です。
さすがに代表、よく気付いてくれました。
杉浦正一郎梅譚は正しくは杉浦梅潭(サンズイ編)でした。
今のところ、国文学資料館へ寄贈されたこの梅潭資料に気付いて、資料館学芸員以外、小生が知る限りで紹介するのは松浦玲先生と菊池明氏くらいでしょうか。
そう言えば、京都でしきりに、この付近碑建立に熱心な地理学者氏が最近、この梅潭資料から池田屋事件絡みの新発見があった、としてものの本に書いてましたっけ。(伊藤宗祐先生は認めてくれない、布引敏雄先生からは批判された、と書いてボヤいてもいますが)
二冊になった梅潭全集は、確かに歴史的な知られざる価値がありますね。
高木俊輔先生にこの件を期待しているのですが。
2015/07/28 Tue 23:25 [No.76]