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杉さんぼく
京都に近い大津に大練寺と云うのがあり、そこに漢学者上原甚太郎立齋(1794〜1854)の墓があるのを皆さん方はご存知でしょうか?(その門前の石碑は、奈良梅田昌彦氏によって建立された)
上原甚太郎立斎は寛政6年(1794)高島郡新儀村北畑(高島市)上原丹三郎の長男に生まれ、若くから大津に出て若林強斎の学統を学び、崎門学者(儒学者、山崎闇斎の門下)として京都にも名を知られた学者でした。
その名声を聞いたのが小浜藩士、梅田源次郎雲濱で、京都遊学中に立斎の弟子となることを申し出て、その非凡さを見抜かれて学友となし親交を深めました。
その後、梅田雲濱は大津の北保町荒神堂近くの坂本町にある米穀商、鍵屋中村五兵衛の別宅を借りて私塾、湖南塾を開塾、その時に立斎は娘信(しん)を雲濱に嫁がせました。(鍵屋縁戚の土山年男氏が2015年2月に逝去された。合掌)
信は、書画にも優れた若い才女で、尊王攘夷運動に奔走する雲濱を支えてよく尽くし、貧困生活にもめげずにいましたが、辛労が祟ってか29歳の若さで病死しました。
そして、立斎は嘉永7年(1854)1月8日、61歳で没しています。
「梅田雲濱先生湖南塾址」が、長等小学校の校門前に梅田雲濱顕彰碑(ここは二度目の塾で、最初の開塾地は、現在の浜大津5丁目辺りとかです)としてありますが、師の上原立斎と娘のとの交情話には、激動の幕末期を足早に駆け抜けた若き学徒のドラマとして、尾花川(日本婦道記-山本周五郎)のような小説にはならないものでしょうか?
2015/07/28 Tue 10:51 [No.71]