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京都歴史研究会・代表
西国街道は早くより交通が盛んな街道で、織田信長も度々通っている。
天正6年(1578)荒木村重が叛いた時や、それ以前にも石山本願寺合戦などの関係で通った。
浅野内匠頭は4回、茨木城主中川清秀の子孫の中川修理大夫も墓参りなどに利用していた。
江戸時代、中国、四国、九州方面の殿様(大名)が、郡山宿本陣を元禄9年(1696)から明治3年(1870)の175年間に、休憩1360回、参勤交代等の宿泊に2040回利用したと宿帳に記録されている。
ちょっと面白い話で、風呂を本陣ではなく、自分専用の風呂を持参する殿様がいたと云う。
殿様が使った箸や、便所の
上草履などは、出発されたら直ぐに折ったり、鼻緒を切って庶民が使わないようにした。
殿様が使われた物を庶民が使うと、勿体なくて手や足が腫れると云われた。
宿泊が殿様の奥方や姫
の場合は、女子で警護され、男子は一切近付け無かった。
但し、60歳以上は男性とは認め無かったようで(笑)、夜は彼ら
が警護した。
姫らは道中が退屈なので、ペットの犬や猫
を連れて来たと云う。
それらは非常に良く躾られていたらしい。
さて、他に宿帳からわかるエピソードとして…
・公道を避けお忍びで来た大名・親の死を知り明石から18里
(約72km)の道を1日で歩いた人・見舞いの途中で国元へ引き返 したワガママな大名など…様 々な事が起っている。
文久3年(1863)4月13日、芸州御家中、丹羽隆次郎良次の切腹事件もあった。
原因は奥方と奥女中の諍い(いさかい)の詰め腹を斬らされとか。
但し、宿帳には切腹と記載されたが、墓地借用証文には、急病吐血により相果てたとなり、武士の温情ある処置が成されている。
何故なら、当時、切腹となれば少なくとも減禄
悪くすれば、家名断絶となるからであった
昭和になり、郡山宿集落の共同墓地と接する郡山団地を造成中、偶々、地中から自然石の墓石が発見された。
その時、立会人の前田建設の○氏が、
「これは切腹した人の墓だ」と叫んだと伝わっている。
その後、自然石の墓石は茨木市の朝日寺(ちょうにち寺)で丁寧に供養され、毎年彼岸と盆には花が手向けられている。
参考文献:椿の本陣/17代本陣当主,梶 洸(かじ たけし)著/光陽書房発行
2015/11/01 Sun 20:05 [No.185]
のんた樸斎
自分は福島在住で京都の史跡めぐり等が
中々、出来ません。
杉さんぼくさんの尽力により
自分は梅田昌彦氏と電話で3、4回ぐらい
会話したことがあります。
開催予定の『梅田雲浜生誕200年mini見に記念フォーラム』へも
参加してみたいとは思いますが願い叶わず
当地にて、フォーラムが無事に遂行し得る事を応援してます。
京都歴史研究会の活動内容等を参考にしたいので
誠に勝手ながら拝読させて頂きます♪
末尾なれど
京都歴史研究会の今後益々の御活躍を心から応援します♪
(水戸史学会&東京龍馬会)所属
磐城住人・のんた樸斎
2015/07/04 Sat 08:50 [No.4]
京都歴史研究会代表 mail
(水戸史学会&東京龍馬会)所属
のんた樸斎 さん!
お祝いメッセージ有り難う御座います
頑張って、フォーラムを遂行したいと思います。
2015/07/04 Sat 18:48 [No.5]
京都歴史研究会代表
京都歴史研究会を応援下さり、代表とも交流があった
(水戸史学会&東京龍馬会)所属
のんた樸斎さんが
一週間前9月24日(木)に急逝されました。
多分、脳梗塞が原因かと思われます。詳細は不明です。
天狗党の一人の
御子孫でもありました。
奇しくも、9月24日は
1877年(明治10年)
西郷隆盛、 満49歳没
桐野利秋、 満38歳没
村田新八、 満40歳没
西南戦争では、西郷の自決を見届けた後も、最後まで抗戦。戦死した日と、同じでした。
合掌
2015/10/01 Thu 23:28 [No.143]
京都歴史研究会・代表
◆安政7年3月3日(1860)
桜田門外の変
大老:井伊直弼を襲撃殺害した事件。
◆文久2年1月15日(1862)
坂下門外の変
老中:安藤信正を襲撃した事件。安藤は負傷
↑上記いずれの事件も、水戸浪士が中心に引き起こした事件だ。
全国で尊王攘夷運動が激しくなる中、藤田小四郎(東湖の4男)を中心とする水戸藩の尊王攘夷の若手急進派が決起
元治元年(1864年)3月27日、水戸藩の尊王攘夷派による筑波山挙兵とそれを契機に争乱が起こって行く。 攘夷の実行を幕府に迫り、筑波山(茨城県)で兵を挙げたのだ。
この水戸藩の尊王攘夷派は
『天狗党』と呼ばれた。
水戸藩こそが、尊王攘夷思想の発信地。
2代藩主:徳川光圀が始めた歴史書「大日本史」の編纂を通じて形成されたのが尊王攘夷思想で、1829年に藩主となった9代藩主:徳川斉昭の時代だった。
斉昭は学者:藤田東湖(とうこ/1806〜安政2年10月2日(1855.11.11)午後10時頃に発生した安政の大地震没)他、下級の武士を登用し、質素倹約・海防と軍備の充実・藩校弘道館の設置等々、積極的な藩政の改革を行った。
やがて、ペリー黒船来航から斉昭は幕府の政治にも関わるようになり、斉昭と東湖は、全国の尊王攘夷派に影響を与えていった
。
そののち、東湖亡き後を継いだ息子の藤田小四郎(1842年-元治2年2月23日(1865年3月20日))ら天狗党が起こした筑波山挙兵は失敗に終わった
この天狗党の行動は、皆から無謀と思われた。
何故なら、倒すべき江戸幕府は地理的に近く、逆に、頼るべき京都は遠過ぎたからだ。
2015/11/01 Sun 05:48 [No.182]
京都歴史研究会・代表
それでも、遥か京都を目指して天狗党は、当時京都にいた一橋慶喜(斉昭の七男。後の15代将軍)の援助で、朝廷に尊王攘夷を訴える為、元:家老の[武田耕雲斎]を総大将とし(11月1日)、1000名余りの大部隊で出発した。
だが、天狗党の後を、幕府の追討軍が追いかけていた。
やがて追討軍に包囲されて、
耕雲斎ら823人が加賀藩に投降した(12月20日)。
慶応元年(1865)1月、敦賀(つるが)の鯡倉に監禁され、
2月、大量処刑が行われた。
■斬罪352人。
・武田耕雲斎、元治2年2月4日(1865年3月1日))没
・藤田小四郎、元治2年2月23日(1865年3月20日)※4月7日に慶応と改元)敦賀の海岸で刑死。享年24歳
■遠島137人。
■水戸藩渡し130人。
安政の大獄でも、死罪となったのは8人だけだったが、この大量処刑により、死体は山となった
当時の様子を薩摩藩の大久保利通は日記に「このむごい行為は、幕府が近く滅亡することを自ら示したものである」と記している。
2015/11/01 Sun 05:49 [No.183]
京都歴史研究会・代表
のんた樸斎氏の資料より
◆天狗党の乱、幕府へ投降組
元和甲子之変 天狗諸生之乱参加者氏名事蹟抄より
天狗派
堀田相模守殿佐原陣屋ヨリ水野肥後守御預替
『打越貞助』
↑回天忠魂塔碑に名前がないので、刑罰として、閉門か追放か送り寄せ。
◆尊王攘夷思想の大日本史編纂『打越直正(樸斎)』
貞享3年(1686)、那珂湊船手方[米川秀勝]の子として誕生。14歳の時、光圀の抜擢で格留付列史館見習となり、三宅観瀾に師事。
正徳5年(1715)、[打越家]の養子となって家督を継ぎ、享保12年(1727)には小納役に進み、
彰考館総裁を兼ねた。
世に出回ってる7割ぐらいは、安積澹泊(水戸を代表する儒学者/水戸黄門の格さんモデル)の死を持って「大日本史編纂が低迷する」と記載されてるが、
水戸史学会では樸斎の死を持って低迷するとある。
この偉大な打越直正(樸斎)と、天狗党の一人:打越貞助が、
2015年9月25日に急逝された
「のんた樸斎氏」のご先祖に
あたる。
ゆえに、のんた樸斎氏は、幕末史に詳しく、水戸史学会会員となり、歴史を大日本史編纂のようにリアルな活動で記して行ったのだと思う。
2015/11/01 Sun 05:54 [No.184]
杉さんぼく
田中河内介先妻-増榮(田中近江介の長女/出生は文政7年=1824)
(正面)
英朗院懿淑安貞大姉
(裏面)
嘉永三年庚戊七月五日卒
田中河内介藤原朝臣綏猷妻
俗名増榮
年廿有九
(左側面)
哀児 佐磨介猷建
……………………………………
田中河内介後妻-松の井=をり江墓(厳=いわ-戒名'松巌院勁操貞順大姉)
(正面)
貞順大孺人之墓
(裏面)
安政六年八月五日卒
田中河内介後配
山岸良午之女
年四十二
……………………………………
田中河内介次男の力太郎(田中玄靜)養父母になる、田中玄良(杉原英二郎=杉原時行)、妻美壽榮(田中近江介次女)夫妻の墓
(正面)
積善院専阿浄念居士
霊
徳麟院信弌妙教大姉
(右側面)
明治十六未年八月二日
田中玄良妻 俗稱 美壽栄
明治元年戊辰年九月十日卒
行年四十有五
(左側面)
(○の中に縦算木[V]がある偽装家紋)
哀子
田中玄靜源實弌建立
……………………………………
2015/10/19 Mon 08:13 [No.168]
杉さんぼく
以下、田中近江介=北村氏関連墓
↓
田中近江介夫妻
(正面)
松岳院殿仙阿樹開大居士
松壽院妙弌貞閑大姉
(右側面)
万延元庚申年四月二日卒
従六位下近江介藤原朝臣綏長
(左側面)
北村栄三郎藤原朝臣綏之定
……………………………………
亀岡から京都に出て来た医師田中近江介の祖(本姓は北村姓)
(正面)
北村綏之
墓
妻千登瀬
(右側面)
明治八年三月十卒
享年四十有二
(左側面)
〇の中に〓引き家紋 北村氏
……………………………………
(正面)
貞岳妙薫大姉
(右側面)
嘉永五子十二月二日
(左側面)
〇の中に〓引き家紋 田中氏
……………………………………
(正面)
壽光院薫譽妙香禅定尼
壽松院香弌貞薫大姉
先祖代々諸精霊 玉夢恵光童女
壽岳院殿香阿凉薫大姉
智玉恵薫童女
(右側面)
天保六年五月建立
(左側面)
〇の中に〓引き家紋 北村氏
2015/10/19 Mon 08:18 [No.169]
杉さんぼく
田中河内介父子に対し、科人‐とがにんと云う烙印を押された―、との認識で言われる方がいます。
しかしながら、これは正しくなく、ましてや科人(咎人)ではないのではありません。
柿本人麻呂のいろは歌ではありませんが、やはりは罪科=とがなくて死すと思われます。
同じ例に、長州人による中山忠光卿惨殺事件があります。
中山忠光卿は、田中河内介の影響を強く受けて、闘う尊攘公家として暗殺されたとは言え、遠い長州の地で死しましたからね。
確かに、薩摩の罪刑はきつい法制がありました。
しかし、身ぐるみ剥いで、足枷手枷をして重しをつけ、海に沈めて投棄するのは、裁きも何もあったものではありません。
子孫にまで、追求するのも咎人以上です。
地元で祀られ建てられた小豆島の墳墓撤去にまで、薩摩人は干渉、疵跡抹消を求めて、明治12年の森遷郡長はこれを拒否した、と伝わります。(これについては、河内介が長州から資金を受けていたから、これをして薩摩人は背信行為だ、としたとも言われている)
偽装家紋まで墓に彫らねばならなかったのは、辛い限りです。
明治24年の贈位まで、これまた辛い限りです。
遺族への薩摩のしつこさ、陰謀の有り様、幽霊話しにまで仕立てるのは、やはり維新史上の汚点でしょうね。
これは赤報隊にまで続きます。
こうした薩摩の非情さは河内介父子に止まらず、もう一艘に乗せた筑前秋月の海賀宮門、河内介の甥千葉郁太郎、河内介の義兄弟を結ぶ中村主計をも、上陸後に出発前から密命を帯びた薩摩の数人によって浜辺を血に染めています。
惨殺資料には、八〜九箇所の刺殺傷が記録にあります。
(物語秋月史 幕末維新編-三浦末雄/昭和56年福岡秋月町)
自藩士ではなく、他国人をもこうして惨殺した薩摩人の方こそ、咎人かも知れません。
その海賀宮門等三人の惨殺には、西郷従道や大山巌などの名前が挙がります。
藩命に従うか従わないかを、藩密命に従った薩摩人たちが、他国人志士たちを惨殺したのは、どう考えても維新史上は汚点のなにものでもなく、禁門の変で御所守護をした会津が靖国神社に祀られてなく、その御所禁裏を襲い、禁を犯した久坂玄瑞たち長州人が祀られるのおかしい、と会津が異論を説な得る(となうる)のもまたしかりです。
これも間違いでないのかも分かりません。
2015/10/21 Wed 05:40 [No.171]
藤原改新
神戸にある湊川神社(楠公さん)の御祭神は楠木正成、子正行及び、弟正季以下一族十六柱並びに菊池武吉である。楠木正成は元弘元年(1331年)9月に後醍醐天皇の命を受け、鎌倉倒幕の兵を挙げ、執権北条氏の大軍と戦った。奇策智謀に優れ、鎌倉幕府を崩壊に導き、「建武中興」に大きな功績を立てた。しかし、まもなく足利尊氏が背き、一度は九州へ敗走したが、再び勢力を盛り返して京都に攻め上がってきた。正成は子正行に後事を託して桜井の駅で別れ、湊川で迎撃した。敵は数万に対して、味方は七百余騎、激戦の末、衆寡敵せず。延元元年(1336年)5月25日、「七生滅賊」を誓って、弟正季以下一族の人々と共に、殉節を遂げた。元禄5年(1692年)徳川光圀(水戸黄門)は、家臣の佐々宗淳(助さん)を遣わして碑石を建て、光圀みずから表面の「嗚呼忠臣楠子之墓」の文字を書き、裏面には明の遺臣朱舜水の作った賛文を刻ませた。この墓碑建立によって、幕末から維新にかけて、頼山陽・吉田松陰・真木和泉・三条実美・坂本龍馬・高杉晋作・西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允・伊藤博文などは、皆この墓前にぬかづいて報国の至誠を誓い、国事に奔走したのである。
2015/08/14 Fri 21:15 [No.94]
杉さんぼく
近藤勇、号東州の知られざる和歌。
殷箕子
かくれても臣てふ道を
つくしたる
ことはしらべの名にのこりけり勇
「勇は平素の対談には声の低い人で笑窪があって、なつかしい人であったといふ。誰に学んだか知らぬが、うたも作り詩も作った。字を得候、号を東州と云うたやうである。京都にあって…夜は遅くまで書を読み、字を習ったといふ。…京都に上がる前には拙く且稜があったが、上手くなり且圓くなった。…」(医師で国文学者・井上通泰解説)
ついでながら、意外な教養人だった近藤勇の和歌、親族宮川隆司氏鑑定済みの和歌を二首紹介しておきます。
夢
ぬばたまのゆめにてみれば
もろこしも
枕のやまのあたりなりけり
勇
小楠公
よしの山花と匂はむあづさ弓
引かへさじのきみがことの葉
勇(宮川照司所蔵)
湊川神社まで詣でた龍馬といい、小楠公を詠う尊王だった近藤勇といい、やはりあの時代には南朝の微臣楠氏は想われていたのですなあ。
2015/09/07 Mon 08:20 [No.113]
京都歴史研究会代表
昔の教科書では
建武の中興でしたが
現在は…
建武の新政と教えてますね。
中興の意味が判りにくいのかも知れません。
2015/09/08 Tue 07:35 [No.114]
杉さんぼく
今や国文化財となった京博の有名な、「世の人はわれをなにとも…」の詠草ですが、共に載る「湊川にて 月と日のむかしをしのぶ みなと川 流れて清き菊の下水」の和歌は、龍馬がまだ湊川神社(明治5年創建)ではなかった頃の湊川に詣で、菊水紋を見てこの歌を大楠公墓碑の墓前に捧げました。
菊の下水とは、後醍醐天皇から下賜された菊水の家紋を持つ楠正成に関連するのは間違いありません。
湊川の水、即ち、楠正成が菊の御紋の下に働いた故事に倣い、幕末維新の時代までその志が清く流れている、自分にももちろんそんな菊水が流れている、我がなす志ざしもまたそうだ…祖母は五代目直澄の妻で、父直足は万葉学者鹿持雅澄門下でもあってか、土佐南学和歌学が、この龍馬の和歌に吐露されています。
確かに龍馬は、湊川の「嗚呼楠子之碑」の前に立っていたのです。
ちなみに、その前史たる真木保臣は嘉永5年(1852)5月25日の楠公祭に際し、「かかる身になりてさこそと思ふ哉 たぐへて見んは畏かれども」
と歌を残しています。
萬延元年(1860)5月25日のその日その時には、「平保臣清酌庶羞の奠を以て謹みて楠公の神霊を祭る…」と墓前に酒と美味を供えて楠正成公の神霊を祀り、祭文を捧げてもいます。
残念ながら、安政5年(1858)土佐来訪の水戸藩士住谷寅之助をして龍馬を、「撃剣家、事情迂闊、何モ不知トゾ…」と記しています。
この時期の龍馬は江戸修行時代を終えて帰高していました。
龍馬24歳、真木保臣46歳、まだ思想的には若く幼い。
むべなるかな。
2015/10/06 Tue 06:31 [No.144]
藤原改新
大阪阿部野にある阿部野神社の御祭神は、北畠顕家と『神皇正統記』を著した父の准三后北畠親房である。北畠顕家は建武の新政下において、義良親王を奉じて陸奥国に下向した。足利尊氏が叛したため西上し、新田義貞や楠木正成らと協力してこれを京で破り、九州に追いやった。やがて任地に戻るも、尊氏が再挙して南北朝が分立するに及び、再びこれを討とうとして西上し、鎌倉を陥落させ、上洛しようと進撃した。その後、伊勢、大和などを中心に北朝軍相手に互角に戦い一進一退を繰り返したが、遂に和泉国堺浦 石津に追い詰められ、奮戦の末に討ち取られて戦死した。延元3年5月22日、21歳。
北畠顕家は若年ながらも文武両道に優れた人物である。何よりも現実を見つめ、後醍醐帝を諌めた諫奏文『顕家諫奏文』は名文書として有名である。建武の親政における天皇の政治の矛盾、一部側近らの横暴を厳しく批判していた。
又、「北畠鎮守府将軍起つ」の知らせに奥州の土豪、武士が続々参軍、白河の関を越える時には総勢10万余騎の大軍となり、疾風枯葉まく進撃を続けた。顕家軍の先頭には北畠氏の定紋「割菱」と親房が孫子の兵法を学んで作り、京都から送った「風林火山」の旌旗が風にはためいていた。
疾如風徐如林侵
掠如火不動如山
兵法書『孫子』にある「疾きこと風の如く 徐かなること林の如し 侵掠すること火の如く 動かざること山の如し」この軍旗と菱の定紋は戦国の名将、武田信玄率いる甲州軍団の専売特許ではない。約260年も前に顕家の率いる、北畠軍団が掲げていたのである。
2015/10/16 Fri 07:35 [No.166]
杉さんぼく
弥生から古墳文化の発達と共に畿内を軸とした各地を結ぶ幹線を山道、海道という交通概念を生みました。
江戸時代になって、いわゆる、東海道や中山道等の五街道が整備され、その一つに奥州道中(白河までで、以北は仙台道、松前道に通ずる)があります。
奥州道中の道の奥(みちのく)、奥(道奥)としての「奥大道」の確定は古く、官道東山道、東海道が律令政府下で設定された事を嚆矢とします。
この官道を通じ、移住、文化交流が展開し、言語社会のコミュニケーションが図られ道の奥、奥州陸奥(みちのく)文化が築かれて行きました。
では古代統一国家が誕生する以前はどうだったのでしょう。
道が出来るのは、未知なる所に通ずる事からであり、地域形成の「ムラ社会」群落地域間の争いが繰り返されていた頃は、物資や人の交流はあるもにもせよ、その間を結ぶ未知なる道の整備が行き届く交通路(道)の概念はまだありませんでした。
やがて、古代黎明の中央政府が飛鳥時代から平安時代前期にかけて、大宰府へと通ずる山陽道を始めとした、計画的に整備・建設した道路または道路網を造ります。これを古代道(古代ハイウェイ)と言いました。
6〜12mの地方道、都の近辺は24〜42mの幅員がありました。
その路は、遣随使、遣唐使交流から得た、当時の隋・唐の道路制度に影響がなくもない直線であるのが特徴でした。
直線道路、つまり大路(横大路の名が今にとどむ)は、大和盆地にまず7世紀初頭から設造が始まり、やがて全国的な整備が進んで行ったようで、各地では今も発掘調査が行われていますが、遅々として歩まずとかです。しかし、8世紀末〜9世紀の平安時代初頭の行政改革により次第に衰退し、11世紀には廃絶したようで、今も昔も道路問題はあるんですね。
かくして古代から、やがて大化の改新を経て以降、日本全土統一の基準に律令制が制定されます。
この頃から、各地の統治や租税の徴収を円滑に行うために各地を結ぶ交通路が整備されて行ったのでしょう。
駅逓・伝馬などの駅制の発達による、宿場整備がなされて、奈良時代になると、多くの街道も整備されて行きました。
ちなみに、街道とは江戸時代の謂いです。
2015/07/31 Fri 20:07 [No.80]
杉さんぼく
伊勢本街道と伊勢詣りについて〜
★「伊勢に行きたい、伊勢路が見たい、せめて一生に一度でも」、と伊勢音頭でも唄われたように、神宮の鎮まる伊勢を目指す旅は、江戸時代の庶民が夢にまで見た憧れの旅だった。
その伊勢参宮の歴史は古く、鎌倉時代中期以降、神宮信仰の担い手であった御師の布教の力が大きい。
これにより全国的な広まりと共に、道の整備なども進み、旅のし易い環境が整っていった。
戦国末期には、織田信長の政策などによって各地の関所が廃され、参宮者の数も増加。更に、江戸時代になると、幕府主体の宿駅制度の制定や交通事情の改善に加え、経済的・時間的余裕を持つまでになった庶民層も大いに旅を楽しむことが出来、賑わいを増した。
そうした安定期の江戸時代にあっては、旅そのものがいわば娯楽であったから、伊勢詣りは最も人気の高い旅の目的地として確立するに到った。
村などの共同体で講を作り、積立金を元手に代表者が伊勢まで旅して参拝(代参)するというケースも全国的に見られた。
これが伊勢講である。
2015/10/13 Tue 14:49 [No.150]
杉さんぼく
また、約60年に一度、「参宮ブーム」現象が起こり、年間何百万人もの参宮者が伊勢参りをした。
これを「おかげ参り」と呼び、慶安3年(1650)、宝永2年(1705)、明和8年(1771)等があり、とりわけ文政13年(1830)に起こった「おかげ参り」はつとに有名である。
こういった人々を伊勢へと駆り立てる原動力には、神宮信仰はもとより、旅そのものへの憧れや、日常からの逃避が大いにあったのは否めない。
無論、十返舎一九の東海道中膝栗毛や、北斎に歌川広重の東海道五十三次等の影響もなくはない。
実際、講に属さない個人の参宮者も多く、関東、東海方面からの東海道を上り、四日市の日永追分で東海道と別れて、伊勢を目指すルートが挙げられる。
これは、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』などでも紹介されているルートで、「伊勢街道」「参宮街道」の別称もある。
これに対し、西国、関西方面からの参宮者が辿った道筋のほとんどが、大和(奈良)を経由するものだ。
大阪を経て、奈良から伊勢に至る道は複数あるが、最短コースが「伊勢本街道」と呼ばれる道である。
大阪の玉造稲荷神社を起点として、大和との県境にある暗峠を越え、奈良(猿沢池)から三輪、初瀬(ここまでは初瀬街道とも)、榛原、山粕、菅野、奥津、多気、津留、相可、田丸などを経て、宮川を渡って山田(伊勢)に到る約170kmの行程だ。
そもそも「伊勢本街道」は、神宮を伊勢に祀った倭姫命が、大和から伊勢へ向かった際に通った道といわれ、松本清張氏の小説「Dの複合」ではないが、北緯34度31分を貫くいわゆる「太陽の道」とも関連付けられることから、「神意に叶う道」として、西からの参宮者が多く利用した道であった。
2015/10/13 Tue 15:02 [No.151]
杉さんぼく
しかし、伊勢本街道は距離的に短い分、険しい山道が多く、これより北を走る北街道(青越え)の方が平坦であった為、参勤交代に使われたりして、次第に伊勢本街道の整備は怠られるようになり、利用者も減っていった。
明治時代に入り、一時は復興的に整備がなされるものの時既に遅く、鉄道の普及に伴い伊勢本街道は時代に取り残されてしまった。
かつては参宮者で賑わった旅籠も廃業に追い込まれ、今では沿道の人口も減って、過疎の一途を辿るばかりだ。
しかし、開発が進まなかった分、常夜灯や道標、旧旅籠の遺構、細くうねる様に続く道など、旧道の面影を随所に見ることが出来、旅人たちが目にした事の、往時の街道風情の名残りを今に留めている。
お伊勢七度、熊野へ三度、愛宕詣での月参り、朝熊詣らねば片詣り、お伊勢お多賀の子でござる…とやら、こんな里謡が今に生きる庶民旅、それが伊勢参り街道である。
2015/10/13 Tue 23:10 [No.152]
藤原改新
中世までの京都では道路を通とは言わず『大路(おおじ)』『小路(こうじ)』と呼んでいた。平安京の条坊制という都市計画では大路が幅8丈(約24メートル)、小路が同4丈(約12メートル)ときっちり区画されていた。その後、自然発生的に人々が通と呼ぶようになり、江戸時代までに定着したようだ。東西と南北でなく幅で区別していたからである。古来、縦横の呼び方を分けていなかったから、通に統一されたのだろうか。
大阪は南北に広がる上町台地から西へと発展したのが要因だとみる。上町台地の北端には石山本願寺があったが焼失し、豊臣秀吉が大坂城を築いた。大坂城から西へ開発が進み、中央大通など東西に伸びる道と町並みが同時につくられた。長堀通や千日前通も、町と一緒に西へ伸びていったという。通とは町そのもの。一方、筋はあくまである場所へ向かう道のりであり、通とは別物だった。堺筋、心斎橋筋などは堺や心斎橋へ行く道ということだ。御堂筋はもともと北御堂と南御堂へ向かう短く細い道だった。御堂筋の北側はかつて淀屋橋へ続く道ということで淀屋橋筋と呼ばれていた。
京都へ戻り、古い史料では現在の新町通は町尻小路、町小路、町尻通などの呼び方が混在。市場が立ち並び、人が集まる栄えた町だった。
徐々に発展し、新しい道路ができた大阪と違い、すでに区画整備された平安京が1200年間に姿を変えながら、自然発生的に既存の道路の呼び名が定まっていったのが京都といえそうだ。
2015/09/04 Fri 20:33 [No.110]
木曽 武
そうでしたね!
平安京の道路は、大路と小路が有りましたね。
自分が使った資料では、大路10丈・小路4丈だったので、
会報の投稿「鴻臚館」では、大路・小路の分け目なく、
[道は10丈] と書いてしまってます。
失敗してますが、宜しくです。
2015/09/06 Sun 10:33 [No.111]
杉さんぼく
日本紀略は、平安時代に編纂された歴史書で、六国史の抜粋と、六国史以後後一条天皇までの歴史を記す。範囲は神代から長元9年(1036年)まで。
『続日本紀』は、平安時代初期に編纂された勅撰史書。『日本書紀』に続く六国史の第二にあたる。菅野真道らが延暦16年(797年)に完成した。文武天皇元年(697年)から桓武天皇の延暦10年(791年)まで95年間の歴史を扱い、全40巻から成る。奈良時代の基本史料である。
この史書に記載あるアテルイ(?〜延暦21年8月13日[802年9月17日])の時代より以前、中央国家は、辺郡(近夷郡)と蝦夷支配の拠点として、城柵造営するが、その際に奥大道を整備した、とされています。
従って、奥大道官道は城柵や官衙(かんが)を結ぶ征夷の道であったのかも知れません。
733年、出羽柵が秋田に遷置され雄勝郡が築かれ、737年には多賀城と出羽柵の直通路を開くために大野東人が遠征しています。
この目的が26年後達成され、出羽柵に通じる陸路、6つの駅が置かれ、796年に伊治城と玉造塞間に1駅、804年に志波城と胆沢郡間に1駅が置かれて、アテルイ征夷に伴う官道整備の一環がなされて行きます。
奥大道が、道路として奥州道中となるには幾多の海道諸駅の廃止再編などがありながら、未知の奥から、北方の交易に鉄などの物資の流入で、蝦夷集団の政治的成長をも促す結果をもたらして行きました。
北海道を含む日本海沿岸の夷地は本来出羽国の管轄地で、秋田城、雄勝城は辺郡(近夷郡)に組み込まれた蝦夷を含め、多数の蝦夷の支配拠点であった訳です。
アルテイから少し時代を上る、越国国守の阿倍比羅夫による北征(658年-660年)は、蝦夷に対する貢納支配を目的に、三年間に三度行われて、秋田市以北の齶田(秋田)・渟代(能代)・津刈・渡島(北海道)の蝦夷相手でした。
とはいえ、アルテイのような戦闘があったのではなく、早くからこの地域各地の蝦夷は、古代国家と個々の話し合い接触があったとされています。
となれば、奥大道の果たす道の役割もあながち、戦いの道でもなかったのかも判りません。
で、道路の「道」「路」の違い、使い分けが分かりますか?
2015/10/06 Tue 06:32 [No.145]
京都歴史研究会代表
その理由を遡るならば、
鳥取城主池田氏が、切支丹信者であったことから…
その博愛の精神が生まれていることが分かる。
信仰は自由であると保証していたのだ。
※池田家は、池田信輝に始まった切支丹の流れを組む家柄である。
(※寛永9年(1632)から明治2年(1869)の廃藩置県までの約240年間、鳥取城主につき、因幡.伯耆32万石を治めた池田光仲とその子孫12代を鳥取(因州)池田家と呼び、鳥取藩(因州藩)の藩祖としている。
尚、光仲は徳川家康の曾孫にあたり、徳川幕府と深い関係から、藩主の名前は時の徳川将軍の名前から一字を貰い付けられている。(例/3代将軍:徳川家光→初代藩主:池田光仲))
池田家歴代の入信†は西洋の優れた物資.精神文化をいち早く取り入れ、一国の文化を高め、富国強兵を図った名君による思慮で、
結果、西国の将軍と勝せられるまでになっていた。
そんな、鳥取池田藩だからこそ、殉教者皆無、ゼロの
全国的に稀有の素晴らしい事実を生み出したのであった。
参考文献切支丹灯籠の研究/松田重雄著/(株)同信社発行
2015/09/27 Sun 19:33 [No.142]
京都歴史研究会代表
殺伐とした下克上の戦国時代、日本に伝えられたキリスト教は、精神文化面と物質文化の上に大きな影響を与えた。
その後、慶長17年(1612)春、
本多正純の与力:岡本大八と肥前(長崎県)の大名:有馬晴信の贈収賄事件が発覚し、両者が切支丹(キリシタン)であり、また徳川家康の旗本などにも信者がいることが判明岡本大八は火刑
。
この[岡本大八事件]を契機に、幕府は同年8月6日、
「伴天連(バテレン)門徒御制禁也。若有違背之族者忽不可遁其罪科事」と
全国的にキリスト教†信仰禁止を布告した。
継いで、慶長18年(1613)12月23日、僧:崇伝により伴天連追放文が起草され、神道.仏教.儒教の三教一致思想からなる「神国思想」によるキリスト教†排撃が宣言された。
慶長19年(1614)、切支丹大名:高山右近ら148名は長崎からマカオ、さらにマニラへ追放され、また各地で切支丹弾圧が始まった。
元和5年(1619)には、京都で52人、長崎で58人が火刑斬首
に処せられた(>_<)
元和8年(1622)露顕者は死刑、隠した者は同罪とした。
寛永3年(1626)から5年間、長崎奉行は切支丹を温泉岳の湯壺に投じ↓、その後も火刑
、穴吊しの刑等々、徹底的に禁教政策を行った!
寛永14年(1637)島原一揆がおこったが、翌年には訴人に対して褒美が渡され、以後、値上げをし、水も漏らさぬ体制を固めた。
このように禁教政策の両法令は、世界に類い希な残酷な取締りを続けていった!
さてこの時代、各藩では毎年次々に切支丹受刑者を出したが、何故か、鳥取藩だけは明治維新まで、一人の斬首者、磔刑者を出さなかった!
表向きは、取り調べ投獄はしたが、いずれも釈放して、入獄中も家族に扶助米.銀子を与え援助している。
これらは見逃せない事実である!
2015/09/27 Sun 19:29 [No.141]