藤原改新
大阪阿部野にある阿部野神社の御祭神は、北畠顕家と『神皇正統記』を著した父の准三后北畠親房である。北畠顕家は建武の新政下において、義良親王を奉じて陸奥国に下向した。足利尊氏が叛したため西上し、新田義貞や楠木正成らと協力してこれを京で破り、九州に追いやった。やがて任地に戻るも、尊氏が再挙して南北朝が分立するに及び、再びこれを討とうとして西上し、鎌倉を陥落させ、上洛しようと進撃した。その後、伊勢、大和などを中心に北朝軍相手に互角に戦い一進一退を繰り返したが、遂に和泉国堺浦 石津に追い詰められ、奮戦の末に討ち取られて戦死した。延元3年5月22日、21歳。
北畠顕家は若年ながらも文武両道に優れた人物である。何よりも現実を見つめ、後醍醐帝を諌めた諫奏文『顕家諫奏文』は名文書として有名である。建武の親政における天皇の政治の矛盾、一部側近らの横暴を厳しく批判していた。
又、「北畠鎮守府将軍起つ」の知らせに奥州の土豪、武士が続々参軍、白河の関を越える時には総勢10万余騎の大軍となり、疾風枯葉まく進撃を続けた。顕家軍の先頭には北畠氏の定紋「割菱」と親房が孫子の兵法を学んで作り、京都から送った「風林火山」の旌旗が風にはためいていた。
疾如風徐如林侵
掠如火不動如山
兵法書『孫子』にある「疾きこと風の如く 徐かなること林の如し 侵掠すること火の如く 動かざること山の如し」この軍旗と菱の定紋は戦国の名将、武田信玄率いる甲州軍団の専売特許ではない。約260年も前に顕家の率いる、北畠軍団が掲げていたのである。
2015/10/16 Fri 07:35 [No.166]