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Re: のんた樸斎氏と天狗党の悲劇

京都歴史研究会・代表

それでも、遥か京都を目指して天狗党は、当時京都にいた一橋慶喜(斉昭の七男。後の15代将軍)の援助で、朝廷に尊王攘夷を訴える為、元:家老の[武田耕雲斎]を総大将とし(11月1日)、1000名余りの大部隊で出発した。

だが、天狗党の後を、幕府の追討軍が追いかけていた

やがて追討軍に包囲されて、
耕雲斎ら823人が加賀藩に投降した(12月20日)。

慶応元年(1865)1月、敦賀(つるが)の鯡倉に監禁され、
2月、大量処刑が行われた。
■斬罪352人
・武田耕雲斎、元治2年2月4日(1865年3月1日))没
・藤田小四郎、元治2年2月23日(1865年3月20日)※4月7日に慶応と改元)敦賀の海岸で刑死。享年24歳

■遠島137人。
■水戸藩渡し130人。

安政の大獄でも、死罪となったのは8人だけだったが、この大量処刑により、死体は山となった

当時の様子を薩摩藩の大久保利通は日記に「このむごい行為は、幕府が近く滅亡することを自ら示したものである」と記している。

2015/11/01 Sun 05:49 [No.183]