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[ 編集 ][ 返信 ]のんた樸斎氏と天狗党の悲劇

京都歴史研究会・代表

◆安政7年3月3日(1860)
桜田門外の変
大老:井伊直弼を襲撃殺害した事件。

◆文久2年1月15日(1862)
坂下門外の変
老中:安藤信正を襲撃した事件。安藤は負傷

↑上記いずれの事件も、水戸浪士が中心に引き起こした事件だ。

全国で尊王攘夷運動が激しくなる中、藤田小四郎(東湖の4男)を中心とする水戸藩の尊王攘夷の若手急進派が決起

元治元年(1864年)3月27日、水戸藩の尊王攘夷派による筑波山挙兵とそれを契機に争乱が起こって行く。 攘夷の実行を幕府に迫り、筑波山(茨城県)で兵を挙げたのだ

この水戸藩の尊王攘夷派は
『天狗党』と呼ばれた。

水戸藩こそが、尊王攘夷思想の発信地。
2代藩主:徳川光圀が始めた歴史書「大日本史」の編纂を通じて形成されたのが尊王攘夷思想で、1829年に藩主となった9代藩主:徳川斉昭の時代だった。

斉昭は学者:藤田東湖(とうこ/1806〜安政2年10月2日(1855.11.11)午後10時頃に発生した安政の大地震没)他、下級の武士を登用し、質素倹約・海防と軍備の充実・藩校弘道館の設置等々、積極的な藩政の改革を行った。

やがて、ペリー黒船来航から斉昭は幕府の政治にも関わるようになり、斉昭と東湖は、全国の尊王攘夷派に影響を与えていった

そののち、東湖亡き後を継いだ息子の藤田小四郎(1842年-元治2年2月23日(1865年3月20日))ら天狗党が起こした筑波山挙兵は失敗に終わった

この天狗党の行動は、皆から無謀と思われた。
何故なら、倒すべき江戸幕府は地理的に近く、逆に、頼るべき京都は遠過ぎたからだ。

2015/11/01 Sun 05:48 [No.182]


残り2件

  1. [4] 自分は福島在住で京都の史跡めぐり等が

    中々、出来ません。

    杉さんぼくさんの尽力により

    自分は梅田昌彦氏と電話で3、4回ぐらい

    会話したことがあります。

    開催予定の『梅田雲浜生誕200年mini見に記念フォーラム』へも

    参加してみたいとは思いますが願い叶わず
      ・・・・ >> 続き
    会の発足おめでとうございます♪
    のんた樸斎 2015/07/04 08:50
    1. [5] (水戸史学会&東京龍馬会)所属
      のんた樸斎 さん!

      お祝いメッセージ有り難う御座います

      頑張って、フォーラムを遂行したいと思います。
      Re: 会の発足おめでとうございます♪
      京都歴史研究会代表 2015/07/04 18:48
    2. [143] 京都歴史研究会を応援下さり、代表とも交流があった

      (水戸史学会&東京龍馬会)所属
      のんた樸斎さんが

      一週間前9月24日(木)に急逝されました。

      多分、脳梗塞が原因かと思われます。詳細は不明です。

      天狗党の一人の
      御子孫でもありました。

      奇しくも、9月24日は  ・・・・ >> 続き
      のんた樸斎さん急逝
      京都歴史研究会代表 2015/10/01 23:28
    3. [182] ◆安政7年3月3日(1860)
      桜田門外の変
      大老:井伊直弼を襲撃殺害した事件。

      ◆文久2年1月15日(1862)
      坂下門外の変
      老中:安藤信正を襲撃した事件。安藤は負傷

      ↑上記いずれの事件も、水戸浪士が中心に引き起こした事件だ。

      全国で尊王攘夷運動が激しくなる中、藤田  ・・・・ >> 続き
      のんた樸斎氏と天狗党の悲劇
      京都歴史研究会・代表 2015/11/01 05:48
      1. [183] それでも、遥か京都を目指して天狗党は、当時京都にいた一橋慶喜(斉昭の七男。後の15代将軍)の援助で、朝廷に尊王攘夷を訴える為、元:家老の[武田耕雲斎]を総大将とし(11月1日)、1000名余りの大部隊で出発した。

        だが、天狗党の後を、幕府の追討軍が追いかけていた

        やがて追討軍[e2  ・・・・ >> 続き
        Re: のんた樸斎氏と天狗党の悲劇
        京都歴史研究会・代表 2015/11/01 05:49
        1. [184] のんた樸斎氏の資料より
          ◆天狗党の乱、幕府へ投降組
          元和甲子之変 天狗諸生之乱参加者氏名事蹟抄より
          天狗派
          堀田相模守殿佐原陣屋ヨリ水野肥後守御預替
          『打越貞助』
          ↑回天忠魂塔碑に名前がないので、刑罰として、閉門か追放か送り寄せ。

          ◆尊王攘夷思想の大日本史編纂『打越直正(樸斎)』
          貞享3年(1686)、那珂  ・・・・ >> 続き
          のんた樸斎氏の資料より
          京都歴史研究会・代表 2015/11/01 05:54