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杉さんぼく
日本紀略は、平安時代に編纂された歴史書で、六国史の抜粋と、六国史以後後一条天皇までの歴史を記す。範囲は神代から長元9年(1036年)まで。
『続日本紀』は、平安時代初期に編纂された勅撰史書。『日本書紀』に続く六国史の第二にあたる。菅野真道らが延暦16年(797年)に完成した。文武天皇元年(697年)から桓武天皇の延暦10年(791年)まで95年間の歴史を扱い、全40巻から成る。奈良時代の基本史料である。
この史書に記載あるアテルイ(?〜延暦21年8月13日[802年9月17日])の時代より以前、中央国家は、辺郡(近夷郡)と蝦夷支配の拠点として、城柵造営するが、その際に奥大道を整備した、とされています。
従って、奥大道官道は城柵や官衙(かんが)を結ぶ征夷の道であったのかも知れません。
733年、出羽柵が秋田に遷置され雄勝郡が築かれ、737年には多賀城と出羽柵の直通路を開くために大野東人が遠征しています。
この目的が26年後達成され、出羽柵に通じる陸路、6つの駅が置かれ、796年に伊治城と玉造塞間に1駅、804年に志波城と胆沢郡間に1駅が置かれて、アテルイ征夷に伴う官道整備の一環がなされて行きます。
奥大道が、道路として奥州道中となるには幾多の海道諸駅の廃止再編などがありながら、未知の奥から、北方の交易に鉄などの物資の流入で、蝦夷集団の政治的成長をも促す結果をもたらして行きました。
北海道を含む日本海沿岸の夷地は本来出羽国の管轄地で、秋田城、雄勝城は辺郡(近夷郡)に組み込まれた蝦夷を含め、多数の蝦夷の支配拠点であった訳です。
アルテイから少し時代を上る、越国国守の阿倍比羅夫による北征(658年-660年)は、蝦夷に対する貢納支配を目的に、三年間に三度行われて、秋田市以北の齶田(秋田)・渟代(能代)・津刈・渡島(北海道)の蝦夷相手でした。
とはいえ、アルテイのような戦闘があったのではなく、早くからこの地域各地の蝦夷は、古代国家と個々の話し合い接触があったとされています。
となれば、奥大道の果たす道の役割もあながち、戦いの道でもなかったのかも判りません。
で、道路の「道」「路」の違い、使い分けが分かりますか?
2015/10/06 Tue 06:32 [No.145]