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杉さんぼく
京都の観光地のひとつに、平安京を思わせる平安神宮があります。
しかし、平安神宮の大極殿等6棟が重要文化財指定されたのは、まだ新しく平成22年(2010)12月の事です。
それはその創建が古来からの神宮ではないからであり、明治28年(1896)3月15日、平安遷都1100年を記念した、内国勧業博覧会のメインとして内裏を復元されて建てられたからです。
平安遷都の桓武天皇を祭神とし、金鵄輝く日本の栄えある光身に受けて〜(紀元2600年)と歌われた皇紀年2600年に当たる昭和15年(1940)に、平安京の都で最後の天皇だった孝明天皇を祭神に加えた神社です。
そして、平安遷都1100年の時代を現す行列祭りとして、遷都の10月22日に時代祭りとして行われ始めました。
余談ながら、戦時歌謡史を調べてると、この紀奉祝国民歌「紀元2600年」がなかなかいいメロディーです。金鵄(きんし)輝く日本の
栄えある光 身に受けて
今こそ祝え この朝(あした)
紀元2600年
あゝ 一億の胸はなる〜(紀元二千六百年)
ご年配の方ならご存じでしょうね。
ところが、庶民はこれを替え歌にして歌っていたよう、こちらの方が有名だとか。
「金鵄」上がって15銭
栄えある「光」30銭
今こそ来たぜ この値上げ
紀元は2600年あゝ 一億の民は泣く
「金鵄」上がって15銭
栄えある「光」30銭
それより高い「鵬翼」は
苦くて辛くては50銭
あゝ 一億の金がいる〜
金鵄10本とは最も安いタバコのゴールデンバットの衣替え、光10本、鵬翼20本とはタバコ銘柄です。
なんでも、平均61%も値上がりしたそうです。
この替え歌を歌っていたが為に、私服警察が小学校に来て、歌の上手い小学6年生に尋問したという話が伝わります。
戦後七十年、国民の平和を守ると題目を唱え、憲法違反だされるのにも関わらず、都合合わせで憲法を守ると云う今の長州政府答弁に、金鵄は輝かないでしょう。
2015/07/31 Fri 06:44 [No.78]
木曽 武
自分は、紀元二千六百年十二月生まれであります。
もう少しで逝きます、有難うございました。
2015/08/05 Wed 10:17 [No.85]
杉さんぼく
紀元二千六百年十二月、まだまだの燃えよ我が命ですよ。
人間、感動がなくなるとあきませんなあ。
まだまだの感動を下さい。
2015/08/14 Fri 05:25 [No.91]
京都歴史研究会代表
お酒のキンシ政宗の
キンシの漢字が、
金鵄だったのを、昨日、初めて知りました
京都御所の南側
堀野記念館(洛中・旧堀野家本宅)は、
蛤御門の変でも燃えなかった〈文庫蔵〉が残り、歴史的資料と共に拝観可能(入館300円)です。。
お薦めです
2015/08/16 Sun 14:13 [No.95]
杉さんぼく
天皇、天皇制、天皇制ideologyと言うことの思想史上の相違かも知れません。
天皇存在価値、天皇存在制度、左翼言語から生まれた天皇制ideologyのあり方が、最も顕著に問われたのが徳川幕府末期でしたから、それは桂書簡にいう「玉」の認識観念でもあきらかです。
そんな天皇「玉」取り騒ぎの戊辰戦争、波及の東北は会津、庄内にとって不幸だった奥羽列藩同盟(明確にはどうか判りませんが)での、米沢の離反でした。
米沢藩の、義理と人情を量りにかけねばならない義には、「玉」の価値より、制度への読みがあり、会津の不幸は「玉」孝明天皇辰翰にあった、と言っても過言ではないのではないでしょうか。
九重・菊と荊冠旗は、やはり現代までも続くタブーかも知れまい。
知れば迷ひ、知らねば迷ふ恋の道(豊玉)
と言うところでありましょう。
2015/08/05 Wed 15:36 [No.86]
姫路藩 初の帆船
ロシアのプチャーチンが3度目の来航で大坂湾に入った安政元年(1854年)、4人の漂流民が長崎奉行所から姫路藩へ引き渡された。嘉永3年(1850年)、栄力丸に乗り込み、浦賀から大坂に向かう途中、熊野沖で暴風雨に遭い、アメリカ商船に救助された17人の乗組員のうち姫路領 加古郡内に住む4人で、サンフランシスコで留め置かれた後、香港などを経由して日本に送還された。この栄力丸には、同じ加古郡古宮村の彦太郎(後の彦蔵、ジョセフ・ヒコ)も乗っていた。姫路藩では送還された4人が西洋帆船の構造に詳しいと見て、建造を目的に積極的にその情報収集に当たった。家士の秋元安民が聞き正し帆船建造を計画。安政4年(1858年)、室津で造船に着手、翌年6月進水した。新造船は「速鳥丸」と名付けられ室津から飾磨へ曳航し、湛保に浮かべ完成を祝った。続いて姉妹船「神護丸」も完成し、姫路藩は快速艇を2隻も持った。木綿、米の江戸向け輸送は、大幅に時間が短縮され、経済効果は著しく上げた。海外技術情報を的確に伝えた播磨漂流民の功績は大きかった。
題名 姫路城 永遠の天守閣
著者 中元孝迪
発行所 神戸新聞総合出版センター
2015/08/02 Sun 12:23 [No.81]
杉さんぼく
司馬遼さんの小説「竜馬がゆく」からこれが司馬史観、歴史だ、思わされた人は多いでしょうね。
反面、司馬嫌いの人の少なくないのも事実ですが。
最近出た「攘夷と皇国」(批評社)に、面白い話が記されていました。
自由民権や赤報隊や庶民史にも論ある歴史家の色川大吉氏が、司馬史観に異議ありとして書き、また問い詰めましたが、そこで司馬遼先生は言いました「色川さんの言うのは歴史でしょう。小説は歴史とは違う、愉しみの娯楽を与え、読んだら絶望するのではだめだ…」
と、逃げをうちました。
が、全く別のところで、あの有名な弁を残します、「竜馬がゆくは歴史として書いた」と。
さらには、竜馬がゆくの取材で、千葉さな子の墓がある清運寺には、司馬遼先生ではなく資料助手の様な女性だった、と。
つまりは、お金と人を使っての取材のなにものでもありません。
こうした手法で、新聞記者だった妻の福田みどりさんと共同作業で、小説にしたてた訳です。
これは何も司馬遼先生だけに限らず、作家にはつきもので、多かれ少なかれあり、否定はし得ません。
小説はあくまでも小説という文学であり、文の学問としての小さな説論入門なのですから、そこに愉しみの娯楽を与えられるために、事実と嘘と虚構に創造があってもいいのです。
しかし、その小説のどこに事実があるのか、どこに小説家の嘘、虚構があるのか、メッセージが込められているのか、そこらあたりに小説を読む面白さと闘いがあるのではないでしょうか。
いみじくも、海音寺潮五郎氏が言いました、うまい小説家は嘘が上手い、と。
やはり司馬遼先生は嘘の上手い小説家、と言っていいのではないでしょうか。
2015/07/28 Tue 10:32 [No.70]
奥津希多世ママ mail
長崎のキリシタン殉教資料本を引っ張り出すのに、長崎通詞の本が出てきたので改めて見直すと、堀達之助と松陰の話があったので紹介しましょう。
堀達之助、安政6年に蕃書調所の翻訳方となる通詞で、ご子孫の堀豊彦氏が詳細をまとめておられます。
達之助はその4年前、下田詰めでオランダ語通詞として翻訳に従事していました。
ところが、誤訳をしたとかで、安政2年、突然投獄されました。
この投獄は誤訳を名目にした通詞間確執、国家間問題か、単なる失敗の個人冤罪かは未だに不明で判りません。
松陰も同じ頃投獄されていて、達之助を知ります。
安政6年8月13日松陰書簡で堀達之助について、「小子(私)下田之厄之節も出役仕居通詞中之才物ナリ」と書いています。
(久保清太郎・久坂玄瑞宛て)
投獄理由罪科に触れ、達之助が日独交易申請があったのを拒否して、独断で反古にした罪と書き、後、脇より露見セシ故投獄是も5年ナリ…と何らの内部告発を付け足しています。
また、死期を悟った松陰は安政6年10月17日付け書簡で、達之助に「死後之事共御頼申上る積りに御座候…」と、弟子、同志との連絡等、その働きかけを依頼していますから、才物の達之助をかなり評価し、頼みにしていたのが窺えます。
かくて、達之助はその年の12月に、蕃書調所頭取等の働きかけで、幕府要路に語学力が買われ出獄しました。
以上、詳細は「長崎通詞ものがたり」(杉本つとむ1990)にあります。
2015/07/19 Sun 11:09 [No.31]
杉さんぼく
なるほど、なるほど、案外知られてない事で、松陰先生の堀さんへの信頼度がうかがえる逸話ですね。
オランダ通詞仲間でも、いろいろあったようです。
2015/07/21 Tue 11:44 [No.41]
杉さんぼく
幕末維新は、松陰寅次郎によって幕が明き、自然堂龍馬によって幕が閉じたのかも知れません。
龍虎相撃ちながらの、龍は雲を呼び、虎は風を呼ぶ、龍雲虎風の観があります。
寅、虎と言えば、佐久間象山門下に両寅・虎がいました。
一人は松陰寅次郎、今一人が越後長岡の小林虎三郎虎です。
そして、若き龍馬もその佐久間象山に入門しています。
象山に繋がる幕末維新の、龍雲虎風による幕開けと幕引き、雨龍君主牧野越後長岡の虎、小林虎三郎は、蒼龍窟河井継之助によって幕引きが行われました。
やがて、象山の弟子に松陰、その弟子に高杉晋作、同じく海舟書屋・象山交友の義兄勝隣太郎の弟子龍馬、晋作と龍馬が風雲を巻き起こしました。
龍得雲則霊、虎風則威……。
龍雲を得るとき霊ありて、虎風を得るとき威りき。
松陰が好んで読んだ李卓吾の童心説に云う「夫童心は真心なり」を信じて、現在の松陰研究第一人者の海原徹氏云う、まっすぐ見つめ生きた全身全霊の松陰と、同じ様に前のめりに生きて死んだ自然堂龍馬あればこその、幕が開き閉じた幕末維新の歴史かも判りません。
龍擧而景雲屬、龍馬逝く。
2015/07/28 Tue 10:28 [No.69]
京都歴史研究会代表
のんた撲斎氏の投稿にエラーが出ましたので、代理で投稿致します。
以下↓、
7月21日に出版社へメール
貴社の刊行城○○彦氏著
吉田松陰『留魂録』
P233
安政の大獄では、以下の七名が安政六年に処刑された。
鵜飼幸吉八月二十七日獄門
鵜飼吉左衛門八月二十七日斬首
茅根伊予之介八月二十七日斬首
飯泉喜内十月七日斬首
橋本左内十月七日斬首
頼三樹三郎十月七日斬首
吉田松陰十月二十七日斬首
記載されてますが、八名の間違いです。
水戸藩家老の安島帯刀が幕命で切腹というかたちで処刑されてます。
処刑とは刑に服するという意味です。
『水戸藩末史料』
〇水戸藩安島帯刀處置の件
(中略)
水藩安島帯刀始各藩の有志處置せられる件
未八月廿七日有志者御處置
安政の大獄の處置なり
水戸藩
水戸家老 切腹 安島帯刀
死罪 茅根伊豫介
死罪 鵜飼吉左衛門
獄門 鵜飼幸吉
以下は省略します。
P263
○一八六○(万延一)年二月
松陰没後百ヶ日法要
P264
三月
桜田門外の変
↑
記載されてますが、これも誤りです。
一八六○年の三月十七日までは、正確には安政七年です。
翌日、三月十八日に万延と改元します。
私が虚言を発しているわけではありません。
まず、元号については貴社でも発行書籍としてあるかも知れませんが
私の所持本として
所功著
『年号の歴史』〈増補版〉雄山閣出版(平成8年3月20日発行)
米田雄介編
『歴代天皇年号事典』吉川弘文館
(平成25年4月20日、第9刷発行)
両氏が共に安政七年三月十八日に改元と記載があります。
指摘した元号(万延)への移り変わりは歴史研究家でさえも、多少なりとも誤記する方もおるようです。
元号の概念を理解した上で安政七年と表記している歴史研究家も勿論、おります。○○○○氏、○○○○○氏等
また、安島帯刀の切腹という史実については幕末に長けている方なら周知のことです。
水戸史学会
のんた樸斎
2015/07/23 Thu 16:10 [No.49]
のんた樸斎
出版社からの返信メール
本日、7月23日
水戸史学会
のんた樸斎様
おはようございます。
致○出版社編集部の○○○○でございます。
昨日、『吉田松陰「留魂録」』の著者・城○○彦先生に
のんた樸斉様からのご質問内容を転送し、今朝、下記のご返信が届きました。
城○先生から直接、のんた樸斎様宛てに感謝の意も込めて
別途、ご返信させていただきたい、アドレスを教えてほしい、とのことでしたので、
のんた樸斎様のアドレスをお伝えしてあります。
また、取り急ぎ、今回は下記のメールを送っていただきたいとのことでしたので、
転送させていただきます。
ご査収を賜りますよう、なにとぞよろしくお願い申し上げます。
致○出版社 書籍編集部 ○○○○
水戸史学会
のんた樸斎様
◇ご質問の件
このたびは、拙著をご精読賜り、御礼申し上げます。
版元を経由してご質問いただき、ありがとうございました。
以下に、執筆時のことなどをお伝えする次第です。
◆元号については、昭和と平成が変わった時代を知っている
人間として、決して軽く考えて書いてはおりませんが、
ご指摘のような誤解を読んでいただいた方に与えてしまった
とすれば、お詫びするしかありません。
今回、知り合いの編集者の依頼で、他社から出版される
天皇家の本の執筆にかかわりました(ただし、
名前はだしておりません)が、改元については、
古代天皇から今日に至るまで、そのつど悩みました。
できれば、何月何日改元ときちんと書くべきですが、
昭和のように年明け早々に年号が変わる年もあれば、
12月になって変わった年もあり、ややこしいことこの上なく、
紙面の制約上、そうできないこともしばしばです。
改元があった年の年号は文献によってまちまちなので、
松陰本でも、そのつどチェックはしたつもりですが、
紙面の都合上、割愛されるケースが多く見られます。
そういう問題もあるにしろ、今回のご指摘を受け、
今後は重々、気を配りたいと思います、
◇私は「斬首=首を切られた=処刑」として表現したのが、
誤解を招くことになったようです。
しばり首(絞首刑)も含めて「処刑」と現代風に表現したのですが、
改めて考えてみると、現代では「処刑=死刑」ですが、
日本語とみると「刑に処す」と読め、
入牢、遠島も含まれかねない広範な刑のニュアンスが感じられ、
曖昧な日本語ではあります。
のんた樸斎さんが引用している『水戸藩末史料』にもあるように、
「死罪」という罪名もあり、執筆時は、
「斬首」とするか「処刑」とするか「死刑」とするかなど、
ずいぶん悩んだ末に「処刑」としたのですが、
当時は、「処刑」を「刑に処す」と読まれるかもしれない
というところまで深く考えることはなく、
現代語的な意味の処刑として使ってしまいました。
「斬首」とすべきだったかもしれません。
そうしておけば、誤解を生じることもなかったわけで、
以後はそのようにしたいと思います。
「切腹」には処刑によるものと自害によるものがあるので、
これも難しい表現になります。
「斬首」は自分の手ではやらず、司直の手による処刑であり、
切腹には自害もあるので、これもずいぶん迷いました。
きちんと分けて書いた方が明確で、親切かもしれません。
処刑関連では、
「獄門」については、処刑の後、さらし首となるので、
斬首とする書き方も間違いではないと考えたことも、
しばしばです。
いずれにしろ、ご指摘を真摯に受け止め、
今後の執筆の糧としたいと思います。
城○○彦
以上、城○先生からのメールでございます。
なにとぞよろしくお願い申し上げます。
〜 「人間学」を探究して36年 〜
===================================================
株式会社 致○出版社
書籍編集部 ○○○○
===================================================
2015/07/23 Thu 19:27 [No.50]
のんた樸斎
著者からの返信メール
本日、7月23日
のんた樸斎 さま
拙著をお読みいただき、ありがたく御礼申し上げます。
「吉田松陰『留魂録』」の内容に関し、
丁重なご指摘・ご意見を賜り、ありがとうございました。
編集担当者が不在だったこともあり、
版元が不適切な対応をした由、本日、
編集担当者から連絡を受けたので、
苦情を呈しておきておきました。
私は前々から、読者の方々から手紙や
メールがあったときは、私が直接やりとりする
ので、知らせてほしいとといってあるのですが、
なかなか、そうしない版元や編集プロダクションが
増えています。
今回は、これまでの経緯から、私の見解を
のんた樸斉さんに転送してもらうよう依頼しました。
ご質問・ご指摘の件については、そこに
記させていただきましたので、お目通しください。
私は、ある月刊誌に「危機管理」をテーマに
2年以上も連載しており、いずれ、
単行本化する予定でいますが、本件に関しては、
メールのやりとりから察するに、
のんた樸斎さんからの指摘に関する応対姿勢に問題が
あった節も感じられます。
つまり、版元の対応は危機管理に失敗したわけで、
紺屋の白袴のたぐいであり、恐縮至極です。
今般は、いろいろ貴重なご教示を賜り、
今後の執筆に活かしていく所存です。
暑さ厳しい折から、ご自愛くださいますように。
城○○彦
〒○○○−○○○○横浜市○○○○○○○○○○○
2015/07/23 Thu 19:35 [No.51]
奥津希多世ママ mail
珍しい対応ですね。
やはり肩書きが効いたのでしょうか。
最近、やっと萬延元年が安政7年とされる表記がなされました。
知識を対価に替えて知らしめる側が、きちんとしなければなりません。
罪科については、解釈が幕法と各藩法典例に若干の違いもあります。
普通、500石以上なら斬罪(成敗)となるところ、名誉を重んじて切腹を命ぜられたのです。(たまたま備前典例/法例集をしらべていたら、そうありました)
だから、松陰や左内が石高の高い武士なら切腹となった筈でしょうが、直弼の各式重用により斬罪刑となった訳です。
2015/07/24 Fri 07:21 [No.53]
京都歴史研究会代表
のんた撲斎氏の
返信にエラーが出ましたので、代わりにコピーで返信します。↓
↓
奥津希多世ママ様
肩書きは一応ありますが
史学会に在籍する前も不具合等を発見したら出版社、著者ともやりとりしてました。
自分は出版社へメールの他に必ず電話をします。電話相手の編集担当者が不相応と感じたら、上司に替わって貰い、主任、編集長等とコンコンと話した上で、不適当なまま未回答だと、ネット上で叩くぞ!と、半ば恫喝ですが。
それを恐れてか、おおよそは回答を貰えてます。
いつも、こんな感じで出版社とやりとりしてます。
余談でしたが…
2015/07/24 Fri 17:49 [No.56]
伊三
そうですね、士分の家老に斬罪は御定法違背ですから、500石以上扱いの切腹でしょう。
ものの本には、安島帯刀は自刃した、ともありますが。
刑罰を決めるのに、御仕置例類集という江戸時代立法史料があり、その中に民法・刑法罰「御定書百箇条」(公事方御定書)をも参考にすべきとの一文が記されています。
その御定書百箇条にある刑罰には、士分閏刑として逼塞、閉門、蟄居、改易、預(あずけ)、切腹、斬罪があります。
そして、死刑には下手人、死罪、火罪、獄門、磔、鋸挽の種類があり、下手人は死罪同様の絞首刑であるにもせよ、埋葬が許され、斬首後は死骸を片づけてよい恩典がついていました。
松陰の遺骸もこの恩典があってか、松下村塾生によって引き取られています。
前述の中で言えば、切腹より斬罪の方が重罪に価し、国事犯は概ね斬罪に処せられ、その罪に条理あるとか、武士としての本分を保たれれば、切腹とされました。
武士犯罪の性格上、その区別があったのではないでしょうか。
斬罪は小塚原執行が主でしたが、幕末維新期には牢屋鋪で処刑、小伝馬町では桜田門外事件の水戸浪士たちが処されています。
切腹は即日、斬罪は翌日執行でした。
それにしても、安政の大獄とは言え、刑死、斬罪、獄門死8人(死価にはない罪科、自殺、病死も含め計79人、他大名、公家処罰は計21人)しかいない点からすれば、天狗党事件353人斬殺の方がもっと酷いかも知れませんね。
2015/07/24 Fri 13:18 [No.55]
京都歴史研究会代表
のんた撲斎サンの返信にエラーが出ましたので、以下、
代わりに貼り付けます。
↓
↓
幕末政治論集 ・日本思想大系岩波書店(1976年4月30日 第1刷発行)
塩谷世弘意見書(万延元年閏三月)
(中略)
一、権現様は、上杉浪人車丹波上仰を窺坐候ても、露顕の一命御助候巳に無之、迄食頭被仰付格別の大量、凡慮の及処に非ずと候得ば、火付盗賊の類いの極悪人と違ひ、其主人に忠義有之者に候得ば、法外の意にて御仁心可有之御義と奉存候。
扨水戸様御家来安島帯刀、茅根伊予之助、越前様家来橋本左内は、世上に称し候程の者にて、主人には忠義に相違無之候間、大法にて御処置被仰付候様にも御仁心被為在度義と奉存候。
然る処、帯刀切腹被仰付候とは乍申、"牢屋にて"非人首を打候由に御座候得ば、打首同様の御刑戮に相成候由。元来御仕置付は三奉行様より御伺に相成、御老中様より二三等も軽く御指図御座候由承及申候。
然る処、帯刀等御仕置に限り、御奉行様より御奉行様より御伺に相成候処、二三等も罪重く御指図御座候由。右様私意を以て御法を御枉被成候ては、服筈に御坐候。
依之、帯刀御処置一件に付、
遠島・追放・押込に相成候者共、二三等も御処置御宥免に相成候様有之度存候。
脚注
※"牢屋にて"…小伝馬町牢内での切腹には牢屋同心が介錯を勤めた。非人が首を打つとあるのは誤り。死罪も同様。
【水戸藩史料・上坤】からの引用
2015/07/25 Sat 20:49 [No.57]
杉さんぼく
なかなか盛り上がりますね。
そこで、では、と…。
介錯人并出役姓名を記します。
石谷因幡守組同心-介錯人
瀧田五十五郎 未三十一歳
介添錯
松原新吾 未廿四歳
池田播磨守組同心-同
後藤徳次郎 未四十二歳
石谷因幡守組与力-検使出役
磯貝鋭次郎
同組同心
弐人
池田播磨守組同心-同
安嶋初太郎
同同組同心
弐人
御徒目付
山本新次郎
御小人目付
壱人
御使之もの
壱人
首討役并出役姓名
石谷因幡守組同心-首討役
篠崎孝助
未廿四歳
村田喜三郎
未三十歳
池田播磨守組同心-同
日向野兵市
未三十歳
諸岡初五郎
未廿八歳
石谷因幡守組与力-検使出役
中村為五郎
同組同心
三人
池田播磨守組与力-同
中田潤之助
同組同心
三人
御小人目付
弐人
(公用秘録-井伊家本2007)
2015/07/25 Sat 23:46 [No.58]
杉さんぼく
維新と言えば、明治維新を想定してしまいますが、慶応4年(1868)9月7日の夜、いくつかの候補に挙がった元号の中から、天皇が引いたくじから「明治」が選ばれたと伝わります。
まあ、そんな事はないにもせよ、その選ばれた明治。
「聖人南面して、天下を聴き、明に嚮いて治む」(易経)
これは「周雖旧邦其命維新」(詩経・大雅文王)という中国の天命思想に繋がります。
「維レ新タナリ」
「維ヨリ新タニス」
明治維新は皇統化した皇国維新概念です。
維新、「君之視民如赤子、民之視君如父母」(神祗志)、「義乃君臣、情兼父子」(雄略天皇遺詔)という、皇室と国民との関係樹立するための、公議朝廷政権題目に過ぎません。
皇室天皇に帰一する家族国家理念での維新とは、大教宣布の明治3年(1870)の詔で、「百度維新、宜しく冶教を明らかにし、以て惟神の道を宣揚すべし」と、[維新][冶教][明らか]と明治維新の語源を説明しました。
でもです、当時の民衆は(明治)維新とは何ぞや、「ご一新」じゃあないのかと、「維レ新タナリ」の意味が判らなかったようです。
まさに、島崎籐村の小説「夜明け前」に言う、青山半蔵の「ご一新とは何だったのか」の何ものでもありません。
下々では、朝廷を「天朝」、徳川将軍を「公方」や「旧幕時代」と言っていたのですから。
果たして、「君、民を視る赤子の如し」「民、君を視る父母の如し」を強いて、維新、維新の題目で、「天子南面す」のごとく、魑魅魍魎が世の中に怪しく南面しようとしているのでありましょうや?の現代の歴史。
そして面白くもなんともない視聴率が下がるばかりの維新ドラマ、それが維新のありようとは、笑止千万の何ものでもありますまいて。
2015/07/28 Tue 10:16 [No.68]
杉さんぼく
国持ちの土佐藩は、明治3年全国に同じて論告を出しました。人間平等論、いわゆる平均四民論です。
各藩独自性もあったようで、土佐藩は
「階級によらず人間人々自由なる貴重の産物を知らしめる、古来からの武士(もののふ)の士は言葉の間違いだった」
と、他藩以上に過度な論告を行いました。
やはり、山内氏、長宗我部氏(チョースガメ)間における反目思想により、土佐風土を疎かにし、領民敵視政策が形成される様になり、農民が下士を敵視した場面は多分にありました。
わずか5万石の山内氏が、24万石にまでなって、土佐を収める話は数年前のNHk大河ドラマで明らかになりましたが、この山内氏により郷士制度を新設する事で差別構造を造り上げてしまいました。
これに伴う中で、斬り捨てごめん権すら与えられた訳です。
当時の上士盛組の歌に
「士の命は君にあり、いつも試せよ我が刀、にえと匂いの銘文と…」
とあり、豪気さがありました。
その象徴的な事件が、井口村門前事件に遡る60年ほど前の、寛政年間(1790年代)に起こる高村退吾事件です。
酒席の場に上士井上某が、郷士高村退吾を呼び、刀剣の目利きをさせたが酷評されたので、武士のあり方の間違った行き過ぎで斬殺してしまい、井上某は御咎めなしの処分に終わった事件でした。
これに郷士は激怒、国中の騒ぎになり、翌年藩はやむなく井上某を追放処分にする事で収束、これらの因縁が、郷士任命の天保庄屋同盟(天子を持ち上げた万民思想)から土佐勤王党に結びつきます。
やがて、こうした素因が土佐自由民権運動にまで発展したのではないか、と思われてなりません。
2015/07/15 Wed 22:27 [No.13]
京都歴史研究会代表
恥ずかしながら、全く知らない人物でした。
紹介有り難う御座います。
2015/07/20 Mon 10:50 [No.34]
京都歴史研究会代表
> 恥ずかしながら、全く知らない人物でした。
>
> 紹介有り難う御座います。
2015/07/20 Mon 10:51 [No.35]
杉さんぼく
阿保親王廟と長州藩についてですが、近代天皇制陵墓として、毛利家が阿保親王を長州毛利家の祖に作り上げて行くのは、以外と知られていませんので、少し触れます。
長州藩は、大江家、毛利家につながる系図に阿保親王を認識してか、寛政諸家系図伝(1789)には、
「…阿保親王-本主宿禰-音人(大江)-(略)-広元-(毛利)-季光…
と記しました。
これを受けて文政年間、長州藩の村田清風が阿保親王墓所探索に当たります。
その最終的対象には、奈良(不退寺・超昇寺・平城天皇陵・在原寺)、大坂(大塚山)、芦屋(親王寺)が候補にあげられました。
この他には、伏見深草阿保親王塚、東福寺塔頭願成寺があります。
「阿保親王御廟詮議」(山口文書館・村田清風全集所載)には、無住で危機にあった中の東福寺塔頭願成寺から長州藩に当てた願書があり、それは「長州藩主が参勤交代時に参詣して欲しい」という、婉曲な経済援助願書でした。
この中で願成寺側はかく言います。
「旧跡之内ニ親王御旧跡と申処、凡そ三拾間四方ニ而、三方は堀を構へ、一方は谷川ニ而、四方土堤を築キ有之、其内ニ親王御廟所と申伝へ、御石塔御座候…」
これは寺側の売り込み文句でしょうか?
いずれにもせよ、明治8年(1875)来の阿保親王墓は、現在の宮内省諸陵寮では、芦屋の親王塚(親王寺)を墓所として所管しています。
かくして、この親王墓所創出により、西宮上陸泊時の参勤交代には墓所参詣、代参をさせたりと、維新前の士気高揚に阿保親王墓が政治的に重要視されたのは否めません。
「…標識も何もなく、鳥羽街道団地の南方に小さく玉垣に囲まれてこの小円墳の塚はある…古来、平城天皇の皇子・阿保親王の墳墓であると伝えられ、この付近を安保(阿保)町と称していた時期もある。阿保親王は藤原薬子の変に座して大宰府左遷、後に許され帰京、願いが成就したとして、『願成就寺』を建立した。その寺の在ったといわれる場所が深草願成町である。」(深草を語る-深草記念会編・2013)
2015/07/26 Sun 15:15 [No.61]