姫路藩 初の帆船
ロシアのプチャーチンが3度目の来航で大坂湾に入った安政元年(1854年)、4人の漂流民が長崎奉行所から姫路藩へ引き渡された。嘉永3年(1850年)、栄力丸に乗り込み、浦賀から大坂に向かう途中、熊野沖で暴風雨に遭い、アメリカ商船に救助された17人の乗組員のうち姫路領 加古郡内に住む4人で、サンフランシスコで留め置かれた後、香港などを経由して日本に送還された。この栄力丸には、同じ加古郡古宮村の彦太郎(後の彦蔵、ジョセフ・ヒコ)も乗っていた。姫路藩では送還された4人が西洋帆船の構造に詳しいと見て、建造を目的に積極的にその情報収集に当たった。家士の秋元安民が聞き正し帆船建造を計画。安政4年(1858年)、室津で造船に着手、翌年6月進水した。新造船は「速鳥丸」と名付けられ室津から飾磨へ曳航し、湛保に浮かべ完成を祝った。続いて姉妹船「神護丸」も完成し、姫路藩は快速艇を2隻も持った。木綿、米の江戸向け輸送は、大幅に時間が短縮され、経済効果は著しく上げた。海外技術情報を的確に伝えた播磨漂流民の功績は大きかった。
題名 姫路城 永遠の天守閣
著者 中元孝迪
発行所 神戸新聞総合出版センター
2015/08/02 Sun 12:23 [No.81]