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藤原改新
姫路で本格的な尊王攘夷の動きが始まるのは、尊攘派が旗頭に据えようとしていた島津久光が薩摩兵1000人を率いて上洛の途中、室津に上陸した文久2年のことである。この時、室津には平野國臣ら諸国の志士が参集し、尊攘運動について意見交換をした。姫路からは秋元安民らが参加した。尊攘派の秋元はこの室津会合の様子と政情について、重臣らを前に私見も交えて報告した。仁寿山、梅ヶ岡に隠居中の河合良翰の関心の持ちようは尋常ではなく、更に詳細な情報分析を進める為、秋元らを京都、大坂に派遣した。「尊王の流れは止まらない」という報告をめぐり、議論は真っ二つに割れた。良翰は明確に尊王攘夷を打ち出し、物頭 河合宗元は率先してこれを支持した。これに対し、筆頭家老の高須広正は徳川譜代の立場から強く反対し、幕府第一を主張した。しかし、譜代といえども時代の潮流は受け止めねばならないと、尊攘派が次第に勢力を強めるのである。やがて、良翰は梅ヶ岡の山荘を出て自説に真っ先に賛意を表した宗元を指揮して、時局に積極関与するようになる。
文久2年5月、酒井忠積が京都警護を命じられる。家老 河合良臣らと江戸から京都へ向かう。やがて京都所司代代理の任に就くのだが、これを機に姫路からも警護の兵を京都に呼んだ。京都では攘夷派の行動が次第にエスカレートし、反対派の暗殺を謀るようになっていた。前の関白九条尚忠の側近で、安政の大獄で攘夷派の徹底弾圧を指揮した島田左近が3人の刺客に殺害され、四条河原に首が晒された。この九条家には前の城主 酒井忠学の息女 銉姫が、尚忠の子 幸経の室として嫁いでいた。当時は妙寿院となっていたが、左近暗殺後、警戒の為に姫路から家士3人派遣し、夜間警護に当たった。
そうした混乱の中、京都で麻疹が流行し、家老 河合良臣も侵され客死した。更に秋元安民も病に罹り死去。騒然とした京都にあって姫路から上洛した河合宗元らは、諸国の志士と盛んに交流を繰り返した。尊王攘夷の言動が次第に過激になり、ついに宗元は忠積の怒りに触れ、国許の姫路へ送り返されてしまうほどであった。
その姫路で初のテロ 『天誅』が行われた。文久3年1月12日、鍵町の御用商人 紅粉屋児玉又左衛門政光に天誅が加えられた。紅粉屋は町の六人衆の一人として権勢をふるっていた。筆頭家老 高須広正の庇護を受け、米の買い占めなどで町人の反発を買っていた。この紅粉屋を暗殺をすることで、姫路に尊王派の旗を揚げようとの政治的意図もあったのだろう。
1月12日深夜。河合宗元の養子 宗貞、江坂行正、武井守正らが謀り、網干、今在家方面の田地の見回りから帰る途中の紅粉屋を城下橋之町において襲撃、斬殺した。この首を風呂敷に包み、威徳寺町にいた紅粉屋の愛妾 おたきの元へ持ち込んだ。その後、大日河原で首級を晒し、『天誅』を加えた旨の捨文を掲げアピールした。
その頃流行った俗謡。「蛸に骨なし海鼠に目なし姫路紅屋に首がない」
どぎつい表現だが、当時の「反幕世情」を背景にした庶民の感情が現れている。
2016/01/10 Sun 16:30 [No.235]
藤原改新
姫路の紅粉屋襲撃に呼応して、姫路の志士が京都で公武合体派の公家 千種有文の家臣 賀川肇を暗殺するという事件を起こした。文久3年1月28日である。実行者は姫路から上洛して、桂小五郎、久坂玄瑞、真木和泉らと交流し、尊王攘夷運動に没頭していた萩原正興、江坂行厚らである。攘夷の実行を求める動きは姫路の他の志士にも急速に広がり行動も過激化する。賀川暗殺の半月後、萩原正興らは河合宗元と謀り、攘夷実行に逡巡する幕府の態度を改めさせる為、死をもって建言することを決意する。尊攘派の公家 姉小路公知邸へ、その旨を告げに訪れた。姉小路卿は志を了としたが、自害を諌めた。(この姉小路卿も同年5月20日、京都御所の朔平門外にて襲撃された。)
同年8月17日に大和で、10月12日には生野で、尊攘派による義挙が相次いで起こったが、義挙は失敗に終わった。又、大和義挙の翌日、8月18日宮中において、会津、薩摩の密謀による尊攘派一掃を図るクーデターが起きた。この義挙とクーデターに姫路の志士も多数関係する。
大和義挙では、紅粉屋暗殺を謀った河合宗貞、武井守正らが資金調達に奔走した他、元小川村の住人の北村義貞は直接襲撃に参加した。北村義貞は生野義挙でも武器運搬などで加勢したが、他の志士らは鎮圧側に回っている。ただ、平野國臣らは飾磨から船場川を遡り生野を目指しており、その途中、姫路城下で志士らと何らかの接触があったのではないかと見られる節もある。一方、クーデターでは、江坂行厚、伊舟城致美、萩原正興ら在京の志士が、長州に落ちる三条実美らの馬側に従い警護に当たった。
2016/01/11 Mon 19:57 [No.236]
藤原改新
元治元年春、思いを遂げられない苛立ちの中で、河合宗貞、江坂行正(行厚の弟)が、ついに国抜けをする。幕府も国許(姫路)も因循姑息で新しい時代認識がないという怒りからであった。こうした志士の動静に対し、極端な警戒心を持っていたのが、家老の高須広正である。
高須は2人の国抜けを奇貨として、志士の一掃を謀った。徹底捜査を命じるとともに、親族、縁者への追及を強めたのである。先ず、宗貞の養父で、尊王派の一方のリーダー 河合宗元の追及が始まった。宗元の身を案じた長州、鳥取の志士が逃走を促したが、宗元は従わず獄に下った。又、宗貞の実父である境野意英にも追及が及んだ。意英は高須の姉婿でもあった。高須の追及は、時に姉にも迫り苛烈を極めた。意英は京都にあった時、宗元ら志士に共感し、情報交換や会合場所として彼らに自邸を提供していた。城主の忠積が志士の活動を快く思わず、大っぴらな集会を阻止しているのを見て、密会所として京都の自邸を密かに提供していたのだった。高須はこの事を知っており、意英の家士を陥れ、その秘密会合の関係書類を入手した。これによって、姫路志士の動静と、その背後の動きや人脈が一気に解明されてしまったのである。この密謀は高須によって、こと細かに忠積に報告された。その結果、同年4月、志士のリーダーで2年前の文久2年家老に復帰したばかりの河合良翰を、江戸 染井村に幽閉した。それと前後して厳しい取り調べを受けていた境野意英が自ら命を絶って抵抗した。その直後から志士らの一斉検挙が始まった。
国抜けした河合宗貞、江坂行正は長州入りを図っていたが、捕らえられ、姫路の獄につながれた。
紅粉屋殺害に呼応して、京都で千種有文の家士 賀川肇を暗殺した萩原正興、江坂行厚、伊舟城致美、松下綱光、市川久明をはじめ、武井守正らも次々と逮捕された。
その年の暮れ、彼らに厳しい断罪が下された。
紅粉屋殺害の上、国抜けした2人に斬首、賀川肇暗殺容疑者の5人と河合宗元に自刃の命。彼らと行動を共にした6人には終身刑の永牢、さらに河合宗元、宗貞につながる縁戚の河合良翰をはじめ、各関係者、親族一門にも家禄没収、蟄居謹慎、差控等、総計70人に及ぶ厳しい処罰が言い渡された。元治元年12月26日、処分発表と同時に即日、刑の執行も行われた。甲子の年に当たることから、後に『甲子の獄』と呼ばれる。
2016/01/13 Wed 00:28 [No.237]
木曽 武
嘉永7年(1854)3月、吉田松陰は金子重輔とともに、海外渡航を企て、下田柿崎弁天島の祠に身を隠し、
夜 小船を漕いで米艦ポーハタン号に辿り着いたが、この時の日米の約束の前に、外遊三年の夢は挫折した。
世の人はよしあし事もいはばいへ
賊が誠は神ぞ知るらん
(松陰、下田平滑獄)
吉田松陰と金子重輔が、伊豆柿崎弁天島から密航しようとして失敗し投獄されたその翌年、安政2年(1855)西伊豆の戸田港から、幸運にも、ロシアへの密航成功した人物が居て、およそ20年もの間ロシアに滞在し、役人まで務めた。
「橘 耕斎」と言う・・・。不幸 挫折に終わった松陰と大違いだ。。。
2016/01/02 Sat 13:36 [No.228]
杉さんぼく
松陰さんたちも、確かに増田甲才こと橘耕齋(遠州掛川藩士)のように上手く外国に行けていたらまた、日本はどう変わったのでしょう。
伊藤博文や山縣有朋等はどう感じたでしょうね。
ロシアと言えば、エカテリーナ女帝に謁見した伊勢白子の漂流民大黒屋光太夫(ダイコクヤコウダユウ)が著名で、とりわけ北嵯聞略-大黒屋光太夫漂流記(桂川甫周)を元に書かれた井上靖氏の小説〈おろしあ国酔夢譚〉や、吉村昭氏の〈大黒屋光太夫〉がありますが、橘耕齋の小説としては、マイナーな白雲の彼方(山上籐吾著2009)しか思いつきません。
他に数冊まだあるにもせよ、専門書になります。
著名な作家が書かれたらまた、知られると思われなくもない、不思議に面白くもある橘耕齋ではないでしょうか。
2016/01/03 Sun 05:40 [No.232]
杉さんぼく
看板絵、よく書けてますね。
見れました。
旅先土産、ありがとうございました。
2016/01/03 Sun 05:03 [No.231]
京都歴史研究会・代表
12月歴史講演会のご案内
◆日時:平成27年12月26日(土)
13時〜16時30分
◆会場:河原町五条下ル
ひとまち交流館 京都 2階第1会議室
◆入場無料、予約無し先着30名
第T部:時代劇に始まる日本映画
*講師:宮崎 博(元東映専属俳優/元美空ひばり館専務)
第U部:坂本龍馬暗殺の謎と企み
*講師:杉さんぼく
※後半に質問時間を設けています。
※講演前に、時代劇短編映画の上映を予定中です。。
*主催:京都歴史研究会
2015/12/11 Fri 23:16 [No.216]
京都歴史研究会・代表
◆12月26日(土)予定時間お知らせします。。
13:00開場受付(記帳)・スライド準備ほか
13:10開会〜ビデオ30分(新日本紀行-太秦映画村1974)
13:40宮崎さん講演
15:00休憩
15:10ビデオ9分(今日は何の日-龍馬暗殺1989)
15:20杉さんぼく講演
16:10質疑応答
16:30閉会〜お知らせ案内〜カンパ本配付
17:00片付け後、鍵返却
2015/12/20 Sun 14:02 [No.221]
葉華間美瑠子
明治7年(1874)佐賀の乱で敗れた司法卿江藤新平(1834〜1874)は、大久保利通の思惑に斬罪処刑されたが、その執行直前に、辞世の如く三度叫んだのが次の言だと云われる。
「唯、皇天皇土の我が心を知るあるのみ」
多分に、「身は朽ちぬとも、留めおかまし大和魂」(吉田松陰)にも似た心情を、見事に訴えた言葉であると共に、無念なる
断罪に処せられた江藤新平の、維新政府に問う悔しい想いの
何ものでもない。
この江藤の言葉出典は、その死より15年前の[安政の大獄]で獄死した、梅田雲濱源次郎の七言絶句漢詩(鳩居堂蔵)に典拠していると言っていい。
妻臥病床兒叫飢
挺身直欲當戎夷
今朝死別與生別
唯有皇天后土知
妻は病床に伏し、子は飢えに叫ぶ(泣く)、身を挺して戎夷を払わんと欲す、今朝の死別と生別、ただ皇天后土の知る有り
雲濱のこの漢詩は、自分が国事に奔走することを理由に、妻や子供が困窮するのを正当化、或いは美化するとの評もあるが、幕末の若者には好んで吟じられ、今日伝わる。
確かに、梅田雲濱は商才があったのだろう、長州の物産と上方との交易を考えた。
いわば、龍馬の海援隊のような業で、大阪や大和周縁の豪農・商家にネットワークを持ち、長州の物産を京上方へ、逆に上方の呉服、小間物、薬種、そして十津川等の材木を長州へ送っている。
従って、金には恐らくは困ってはいなかったに違いない。
「妻が病床に伏し、子が飢えに叫ぶ(泣く)」というのは、
間違いなく詩のために創作された情景である可能性が高く、我々にはこうした家族の労苦をも超えた行動力がある、と訴えたかった強い決意の心情が汲み取れなくもない。
2015/12/20 Sun 13:45 [No.218]
京都歴史研究会・代表
そんな事はなく、葉山観音に暮らした頃は、貧乏だったのではないでしょうか?
雲濱妻の信子さんが、お金が無くて、着物を質屋に入れて、長襦袢一枚の姿で、琴を奏でる話を…
以前、この掲示板で読みましたしね〜
2015/12/20 Sun 13:52 [No.219]
木曽 武
梅田雲濱源次郎ではなく。
雲濱梅田源次郎です。
雲濱は、名ではなく、号ですから、大概は名前の上に冠します。
2015/12/28 Mon 21:47 [No.224]
緋牡丹お雪 mail
そう言えばそうですよね。
松陰吉田寅次郎っていいますねえ。
吉田寅次郎松陰とは言いません。
さすが、京歴研の大目付さんです。
2015/12/29 Tue 14:39 [No.226]
藤原改新
三好家は阿波出身で、三好長慶のときに台頭した一族である。長慶は父元長を謀殺した主君細川晴元や13代将軍足利義輝を京都より追放り
、し、近畿から四国にかけて十数カ国を勢力下に収めた人物である。
当時の「天下」という言葉には日本全国≠ニいう意味もあるが、より多用されていたのは京都及びその周辺≠ニいう意味であり、現在の首都圏という言葉の感覚に近い。当時多くの戦国大名が出兵の際に大義名分として足利一族を擁立して戦うのが常識だった。その中で足利一族を擁立することなく「天下」を支配した長慶は、まさしく天下人であった。
『信長公記』によると、松永久秀の弟 内藤宗勝の与力 赤沢加賀守が、関東で鷹を求め丹波へ帰る際、信長に一羽献上しようとしたとあるので、長慶は信長に興味を持ち、接触しようとしていたようである。しかし、長慶は信長の12歳年上で信長がまだ尾張時代の永禄7年に世を去っているので、信長を具体的にどう思っていたかまでは、解らない。逆に信長は長慶に対して高い関心を示していた。
永禄2年信長を含め諸大名が相次いで上洛している。2月に信長が、4月には斎藤義龍や長尾景虎が上洛した。この時期、諸大名の上洛が続いたのは前年の長慶と将軍義輝の争いに原因がある。その年の2月、「弘治」の元号が「永禄」に改まった。室町時代の慣習では、改元は天皇と将軍の合意によってなされる。ところが、時の正親町天皇は長慶によって5年間も京都を追放されていた義輝とではなく、長慶との間に改元を決めた。その為、将軍は改元に従わず、旧年号を使い続けるという異常事態になっていたのがこの時期である。
一方で、長慶は新たな武家の代表者として天皇に承認されることになった。半年後、ようやく義輝は改元に従い、長慶との講和が成立すると京都に戻っている。即ち、室町幕府が天皇に否定されるという緊急事態になったので、信長たちは上洛して自分の目で状況を確かめたかったのであろう。
義龍や景虎は義輝より様々な栄典を授与され、幕府の復活と判断したようだ。しかし、さしたる栄典も得ず、直ぐに京都を去った信長は逆に幕府の滅亡を予期したのではないだろうか。
その後、長慶は様々な要求を義輝に突きつけていく。正親町天皇の勅許も得て、南朝の遺臣であった松永久秀の家臣 楠正虎の名誉を回復させることで、北朝の守護を担ってきた室町幕府の正当性を失墜させた。又、足利尊氏が鎌倉倒幕の功により後醍醐天皇より拝領した桐御紋を長慶も拝領することで、三好家の家格を足利将軍並みに向上させようとした。さらに義輝の娘を人質に取り、上下関係を明らかにした。この様に、幕府を克服しようとする長慶をよく見ていた人物こそ信長である。
後に信長は足利義昭より、室町幕府の名門、一色家の名跡を継いだ斎藤義龍や、同じく上杉家の名跡を継いだ長尾景虎の様に、高い家格の家を継ぐようにと、名門斯波家の家督相続を許そうとした。しかし、信長はそれを断り、長慶の様に桐御紋のみを拝領した。又、義昭最初の挙兵を抑えた際には、義昭の息子の義尋を人質にすることで許している。長慶が義輝の娘を人質にすることで、上下関係を明らかにさせたことを彷彿させる行為である。
そして、再度挙兵した義昭を京都より追放した信長が最初したことは、正親町天皇に上申して決定した、「天正」への改元である。次いで、長慶や久秀がその名誉を回復させた楠正虎を自らの右筆に登用する。この様に信長が幕府を克服しようとした政策の原形は、長慶の政策であったのだ。
『信長公記』巻一の冒頭は、長慶による義輝殺害の場面から始まる。長慶は既に死去していたが秘匿されていたので、著者の太田牛一、つまり当時の織田家では長慶が義輝を殺害したと思っていた。この事件の原因について、『信長公記』は「天下執権」たる長慶に対し、義輝が「御謀反」したと記している。信長に対して暗君の義昭が背いたので追放したという主張の原形が垣間見える。
三好家と足利家の緊張が高まる中で、長慶は永禄7年に死去した。
2015/12/23 Wed 12:27 [No.222]
藤原改新
なぜ、赤穂浪士の討ち入り後、吉良家はお家断絶となり、養子義周は信州諏訪に流されてしまったのか?
室鳩巣の「赤穂義士纂書」から一部抜粋
「・・・旧臘十四夜浅野内匠頭家来共押入り候節、不埒なる仕業、不届に思召され候。領地を召されし上、・・・」
評定所の見解
「吉良左兵衛儀、申しわけ相立ちがたき仕方にて御座候間、そのみぎり、せめて自滅仕るべきところにその儀なく、始終の様子、其分にては差しおきがたきやに御座候間、切腹仰せつけられるべき哉に御座候」
赤穂浪士が討ち入ったとき、義周は小長刀を持って立ち向かい、左の額に四寸、腕に少々、右肩から大疵を受けるものの、命は助かっていました。死力を尽くして浪士たちと交戦したのが、「不埒なる仕業」、「申しわけ相立ちがたき仕方」とはおかしな話ですが、幕府は義周が父・義央を救えなかったことに加えて、おめおめと生き残っていたこと(せめて自滅仕るべきところとあるので)が問題だとして処罰したようです。
浅野内匠頭が吉良上野介に対して刃傷に及んだ事件は片手落ちの裁定であったことから、世論は幕府の処置に対して非難の声が上がり、それに敏感に反応した幕府は、吉良をスケープゴードにすることによって、世間の不満を幕府から吉良に向けようとしたものです。幕府の代わりに吉良を悪者に仕立て上げて、この赤穂事件の幕引きを図ろうとする意図があったので、浪士たちには寛大で、吉良には苛酷な判断をしたもので、世論に迎合したといっていいだろう。
浪士たちと死力を尽くして刃を交わして負傷した義周に落ち度などなく、むしろ被害者であるのにもかかわらず、幕府の都合でスケープゴードにされてしまい、配流先にて幽閉3年の後、21歳の若さで死去し、遺体は塩漬けにされて検視のあと取り捨てを命じられた、まったく気の毒な限りです。
2015/12/14 Mon 21:53 [No.217]
京都歴史研究会・代表
例年の風物詩だった
忠臣蔵の話題が、今年2015年はあまり聴いたり観たりしませんでした
ニュース映像で義士祭りを少し観ただけでしたね
年末のクリスマスムードも
飾り付けやイルミネーションも小規模になっています。
2015/12/20 Sun 13:58 [No.220]