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姫路勤王党 甲子の獄

藤原改新

元治元年春、思いを遂げられない苛立ちの中で、河合宗貞、江坂行正(行厚の弟)が、ついに国抜けをする。幕府も国許(姫路)も因循姑息で新しい時代認識がないという怒りからであった。こうした志士の動静に対し、極端な警戒心を持っていたのが、家老の高須広正である。

高須は2人の国抜けを奇貨として、志士の一掃を謀った。徹底捜査を命じるとともに、親族、縁者への追及を強めたのである。先ず、宗貞の養父で、尊王派の一方のリーダー 河合宗元の追及が始まった。宗元の身を案じた長州、鳥取の志士が逃走を促したが、宗元は従わず獄に下った。又、宗貞の実父である境野意英にも追及が及んだ。意英は高須の姉婿でもあった。高須の追及は、時に姉にも迫り苛烈を極めた。意英は京都にあった時、宗元ら志士に共感し、情報交換や会合場所として彼らに自邸を提供していた。城主の忠積が志士の活動を快く思わず、大っぴらな集会を阻止しているのを見て、密会所として京都の自邸を密かに提供していたのだった。高須はこの事を知っており、意英の家士を陥れ、その秘密会合の関係書類を入手した。これによって、姫路志士の動静と、その背後の動きや人脈が一気に解明されてしまったのである。この密謀は高須によって、こと細かに忠積に報告された。その結果、同年4月、志士のリーダーで2年前の文久2年家老に復帰したばかりの河合良翰を、江戸 染井村に幽閉した。それと前後して厳しい取り調べを受けていた境野意英が自ら命を絶って抵抗した。その直後から志士らの一斉検挙が始まった。
国抜けした河合宗貞、江坂行正は長州入りを図っていたが、捕らえられ、姫路の獄につながれた。
紅粉屋殺害に呼応して、京都で千種有文の家士 賀川肇を暗殺した萩原正興、江坂行厚、伊舟城致美、松下綱光、市川久明をはじめ、武井守正らも次々と逮捕された。

その年の暮れ、彼らに厳しい断罪が下された。
紅粉屋殺害の上、国抜けした2人に斬首、賀川肇暗殺容疑者の5人と河合宗元に自刃の命。彼らと行動を共にした6人には終身刑の永牢、さらに河合宗元、宗貞につながる縁戚の河合良翰をはじめ、各関係者、親族一門にも家禄没収、蟄居謹慎、差控等、総計70人に及ぶ厳しい処罰が言い渡された。元治元年12月26日、処分発表と同時に即日、刑の執行も行われた。甲子の年に当たることから、後に『甲子の獄』と呼ばれる。

2016/01/13 Wed 00:28 [No.237]