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藤原改新
なぜ、赤穂浪士の討ち入り後、吉良家はお家断絶となり、養子義周は信州諏訪に流されてしまったのか?
室鳩巣の「赤穂義士纂書」から一部抜粋
「・・・旧臘十四夜浅野内匠頭家来共押入り候節、不埒なる仕業、不届に思召され候。領地を召されし上、・・・」
評定所の見解
「吉良左兵衛儀、申しわけ相立ちがたき仕方にて御座候間、そのみぎり、せめて自滅仕るべきところにその儀なく、始終の様子、其分にては差しおきがたきやに御座候間、切腹仰せつけられるべき哉に御座候」
赤穂浪士が討ち入ったとき、義周は小長刀を持って立ち向かい、左の額に四寸、腕に少々、右肩から大疵を受けるものの、命は助かっていました。死力を尽くして浪士たちと交戦したのが、「不埒なる仕業」、「申しわけ相立ちがたき仕方」とはおかしな話ですが、幕府は義周が父・義央を救えなかったことに加えて、おめおめと生き残っていたこと(せめて自滅仕るべきところとあるので)が問題だとして処罰したようです。
浅野内匠頭が吉良上野介に対して刃傷に及んだ事件は片手落ちの裁定であったことから、世論は幕府の処置に対して非難の声が上がり、それに敏感に反応した幕府は、吉良をスケープゴードにすることによって、世間の不満を幕府から吉良に向けようとしたものです。幕府の代わりに吉良を悪者に仕立て上げて、この赤穂事件の幕引きを図ろうとする意図があったので、浪士たちには寛大で、吉良には苛酷な判断をしたもので、世論に迎合したといっていいだろう。
浪士たちと死力を尽くして刃を交わして負傷した義周に落ち度などなく、むしろ被害者であるのにもかかわらず、幕府の都合でスケープゴードにされてしまい、配流先にて幽閉3年の後、21歳の若さで死去し、遺体は塩漬けにされて検視のあと取り捨てを命じられた、まったく気の毒な限りです。
2015/12/14 Mon 21:53 [No.217]