藤原改新
姫路の紅粉屋襲撃に呼応して、姫路の志士が京都で公武合体派の公家 千種有文の家臣 賀川肇を暗殺するという事件を起こした。文久3年1月28日である。実行者は姫路から上洛して、桂小五郎、久坂玄瑞、真木和泉らと交流し、尊王攘夷運動に没頭していた萩原正興、江坂行厚らである。攘夷の実行を求める動きは姫路の他の志士にも急速に広がり行動も過激化する。賀川暗殺の半月後、萩原正興らは河合宗元と謀り、攘夷実行に逡巡する幕府の態度を改めさせる為、死をもって建言することを決意する。尊攘派の公家 姉小路公知邸へ、その旨を告げに訪れた。姉小路卿は志を了としたが、自害を諌めた。(この姉小路卿も同年5月20日、京都御所の朔平門外にて襲撃された。)
同年8月17日に大和で、10月12日には生野で、尊攘派による義挙が相次いで起こったが、義挙は失敗に終わった。又、大和義挙の翌日、8月18日宮中において、会津、薩摩の密謀による尊攘派一掃を図るクーデターが起きた。この義挙とクーデターに姫路の志士も多数関係する。
大和義挙では、紅粉屋暗殺を謀った河合宗貞、武井守正らが資金調達に奔走した他、元小川村の住人の北村義貞は直接襲撃に参加した。北村義貞は生野義挙でも武器運搬などで加勢したが、他の志士らは鎮圧側に回っている。ただ、平野國臣らは飾磨から船場川を遡り生野を目指しており、その途中、姫路城下で志士らと何らかの接触があったのではないかと見られる節もある。一方、クーデターでは、江坂行厚、伊舟城致美、萩原正興ら在京の志士が、長州に落ちる三条実美らの馬側に従い警護に当たった。
2016/01/11 Mon 19:57 [No.236]