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松陰先生余話

奥津希多世ママ mail

長崎のキリシタン殉教資料本を引っ張り出すのに、長崎通詞の本が出てきたので改めて見直すと、堀達之助と松陰の話があったので紹介しましょう。
堀達之助、安政6年に蕃書調所の翻訳方となる通詞で、ご子孫の堀豊彦氏が詳細をまとめておられます。

達之助はその4年前、下田詰めでオランダ語通詞として翻訳に従事していました。
ところが、誤訳をしたとかで、安政2年、突然投獄されました。
この投獄は誤訳を名目にした通詞間確執、国家間問題か、単なる失敗の個人冤罪かは未だに不明で判りません。

松陰も同じ頃投獄されていて、達之助を知ります。
安政6年8月13日松陰書簡で堀達之助について、「小子(私)下田之厄之節も出役仕居通詞中之才物ナリ」と書いています。
(久保清太郎・久坂玄瑞宛て)

投獄理由罪科に触れ、達之助が日独交易申請があったのを拒否して、独断で反古にした罪と書き、後、脇より露見セシ故投獄是も5年ナリ…と何らの内部告発を付け足しています。

また、死期を悟った松陰は安政6年10月17日付け書簡で、達之助に「死後之事共御頼申上る積りに御座候…」と、弟子、同志との連絡等、その働きかけを依頼していますから、才物の達之助をかなり評価し、頼みにしていたのが窺えます。

かくて、達之助はその年の12月に、蕃書調所頭取等の働きかけで、幕府要路に語学力が買われ出獄しました。

以上、詳細は「長崎通詞ものがたり」(杉本つとむ1990)にあります。

2015/07/19 Sun 11:09 [No.31]