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[ 編集 ][ 返信 ]続・お伊勢参り道中咄

杉さんぼく

また、約60年に一度、「参宮ブーム」現象が起こり、年間何百万人もの参宮者が伊勢参りをした。

これを「おかげ参り」と呼び、慶安3年(1650)、宝永2年(1705)、明和8年(1771)等があり、とりわけ文政13年(1830)に起こった「おかげ参り」はつとに有名である。

こういった人々を伊勢へと駆り立てる原動力には、神宮信仰はもとより、旅そのものへの憧れや、日常からの逃避が大いにあったのは否めない。

無論、十返舎一九の東海道中膝栗毛や、北斎に歌川広重の東海道五十三次等の影響もなくはない。

実際、講に属さない個人の参宮者も多く、関東、東海方面からの東海道を上り、四日市の日永追分で東海道と別れて、伊勢を目指すルートが挙げられる。

これは、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』などでも紹介されているルートで、「伊勢街道」「参宮街道」の別称もある。

これに対し、西国、関西方面からの参宮者が辿った道筋のほとんどが、大和(奈良)を経由するものだ。

大阪を経て、奈良から伊勢に至る道は複数あるが、最短コースが「伊勢本街道」と呼ばれる道である。

大阪の玉造稲荷神社を起点として、大和との県境にある暗峠を越え、奈良(猿沢池)から三輪、初瀬(ここまでは初瀬街道とも)、榛原、山粕、菅野、奥津、多気、津留、相可、田丸などを経て、宮川を渡って山田(伊勢)に到る約170kmの行程だ。

そもそも「伊勢本街道」は、神宮を伊勢に祀った倭姫命が、大和から伊勢へ向かった際に通った道といわれ、松本清張氏の小説「Dの複合」ではないが、北緯34度31分を貫くいわゆる「太陽の道」とも関連付けられることから、「神意に叶う道」として、西からの参宮者が多く利用した道であった。

2015/10/13 Tue 15:02 [No.151]


残り1件

  1. [80] 弥生から古墳文化の発達と共に畿内を軸とした各地を結ぶ幹線を山道、海道という交通概念を生みました。

    江戸時代になって、いわゆる、東海道や中山道等の五街道が整備され、その一つに奥州道中(白河までで、以北は仙台道、松前道に通ずる)があります。

    奥州道中の道の奥(みちのく)、奥(道奥)としての「奥大道」の確定は古く、官道東山道、東海道が律令政府下で設定された事を  ・・・・ >> 続き
    道と路の道中咄
    杉さんぼく 2015/07/31 20:07
    1. [150] 伊勢本街道と伊勢詣りについて〜
      ★「伊勢に行きたい、伊勢路が見たい、せめて一生に一度でも」、と伊勢音頭でも唄われたように、神宮の鎮まる伊勢を目指す旅は、江戸時代の庶民が夢にまで見た憧れの旅だった。

      その伊勢参宮の歴史は古く、鎌倉時代中期以降、神宮信仰の担い手であった御師の布教の力が大きい。
      これにより全国的な広まりと共に、道の整備なども進み、旅のし易い環境  ・・・・ >> 続き
      お伊勢参り道中咄
      杉さんぼく 2015/10/13 14:49
      1. [151] また、約60年に一度、「参宮ブーム」現象が起こり、年間何百万人もの参宮者が伊勢参りをした。

        これを「おかげ参り」と呼び、慶安3年(1650)、宝永2年(1705)、明和8年(1771)等があり、とりわけ文政13年(1830)に起こった「おかげ参り」はつとに有名である。

        こういった人々を伊勢へと駆り立てる原動力には、神宮信仰はもとより、旅そのものへの憧れや  ・・・・ >> 続き
        続・お伊勢参り道中咄
        杉さんぼく 2015/10/13 15:02
        1. [152] しかし、伊勢本街道は距離的に短い分、険しい山道が多く、これより北を走る北街道(青越え)の方が平坦であった為、参勤交代に使われたりして、次第に伊勢本街道の整備は怠られるようになり、利用者も減っていった。

          明治時代に入り、一時は復興的に整備がなされるものの時既に遅く、鉄道の普及に伴い伊勢本街道は時代に取り残されてしまった。

          かつては参宮者で賑わった旅籠も廃業  ・・・・ >> 続き
          続々・お伊勢参り道中咄
          杉さんぼく 2015/10/13 23:10