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平成墳墓録 田中河内介余話

杉さんぼく

田中河内介父子に対し、科人‐とがにんと云う烙印を押された―、との認識で言われる方がいます。

しかしながら、これは正しくなく、ましてや科人(咎人)ではないのではありません。

柿本人麻呂のいろは歌ではありませんが、やはりは罪科=とがなくて死すと思われます。

同じ例に、長州人による中山忠光卿惨殺事件があります。

中山忠光卿は、田中河内介の影響を強く受けて、闘う尊攘公家として暗殺されたとは言え、遠い長州の地で死しましたからね。
確かに、薩摩の罪刑はきつい法制がありました。

しかし、身ぐるみ剥いで、足枷手枷をして重しをつけ、海に沈めて投棄するのは、裁きも何もあったものではありません。
子孫にまで、追求するのも咎人以上です。

地元で祀られ建てられた小豆島の墳墓撤去にまで、薩摩人は干渉、疵跡抹消を求めて、明治12年の森遷郡長はこれを拒否した、と伝わります。(これについては、河内介が長州から資金を受けていたから、これをして薩摩人は背信行為だ、としたとも言われている)

偽装家紋まで墓に彫らねばならなかったのは、辛い限りです。
明治24年の贈位まで、これまた辛い限りです。

遺族への薩摩のしつこさ、陰謀の有り様、幽霊話しにまで仕立てるのは、やはり維新史上の汚点でしょうね。

これは赤報隊にまで続きます。
こうした薩摩の非情さは河内介父子に止まらず、もう一艘に乗せた筑前秋月の海賀宮門、河内介の甥千葉郁太郎、河内介の義兄弟を結ぶ中村主計をも、上陸後に出発前から密命を帯びた薩摩の数人によって浜辺を血に染めています。
惨殺資料には、八〜九箇所の刺殺傷が記録にあります。
(物語秋月史 幕末維新編-三浦末雄/昭和56年福岡秋月町)

自藩士ではなく、他国人をもこうして惨殺した薩摩人の方こそ、咎人かも知れません。

その海賀宮門等三人の惨殺には、西郷従道や大山巌などの名前が挙がります。

藩命に従うか従わないかを、藩密命に従った薩摩人たちが、他国人志士たちを惨殺したのは、どう考えても維新史上は汚点のなにものでもなく、禁門の変で御所守護をした会津が靖国神社に祀られてなく、その御所禁裏を襲い、禁を犯した久坂玄瑞たち長州人が祀られるのおかしい、と会津が異論を説な得る(となうる)のもまたしかりです。

これも間違いでないのかも分かりません。

2015/10/21 Wed 05:40 [No.171]