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京都歴史研究会代表
戊午の密勅(ぼごのみっちょく)
幕府の将軍継嗣問題の決定や、安政五か国条約の違勅調印を快く思わなかった第121代孝明天皇(1831〜1867)は、幕府および水戸藩へ
安政5年(1858)8月8日付け勅諚(ちょくじょう)を下した。
戊午は安政5年の干支で、
前例を破って朝廷から水戸藩に内密に下されたので「戊午の密勅」という。
水戸藩へは8月7日深夜…左大臣近衛忠煕(ただひろ)から水戸藩京都留守居:鵜飼吉左衛門(うがいきちざえもん)に手交され、諸藩へ伝達せよという添書が付けられていた。
この異例の勅諚には、条約調印をめぐる幕府の対処の仕方を批判し、水戸藩の攘夷推進を促していたが、これを知った幕府は
、水戸藩に諸藩伝達を禁じた。
水戸藩ではこの勅諚伝達の
可否を廻り意見が分かれ、
翌年、朝廷が幕府の求めに応じて勅書返納を沙汰するに及んで政治問題化した。
天皇の幕府・諸藩に対する政治的所信初の公的な表明と取れる[戊午の密勅]は、朝廷が積極的に政治関与を示したもの位置付けられ!
大老:井伊直弼に[安政の大獄]の弾圧を決意させる発端となった
…2015年9月4日(金)、
私は京都アスニーセミナーの講座を受けてきた。
『井伊直弼と安政の大獄』
京都女子大学文学部教授
母利 美和(もり みわ!ではなく男性の教授:もり よしかず)
彦根城博物館学芸員をされていたので、井伊直弼には詳しく著書も多いらしい。但し、水戸の人には、よく思われていないとか?(笑)
安政の大獄で、梅田雲浜を最も重要(幕府にとっては危険)人物として(安政6年9月7日)、一番に捕まえた井伊直弼を 私は良くは思っていない
しかし歴史は、敵味方の両方の立場から見なくてはならないから、
先月、彦根に行き、井伊直弼展も観て来たし、今回の講座も聴講して来た。
口の堅かった梅田雲浜、論ずれば歯が立たなかった為、江戸送りにしたという。
(安政6年9月13日(1859/10/9)獄死)
吉田松陰は連座しただけで、
戊午の密勅とは、何ら関係ない人物であり、たまたま、捕らえみたら、言わなくても良い
老中首座である[間部詮勝(まなべあきかつ/1802〜1884)の暗殺]を企てていた事を自白しての死罪だった(安政6年10月27日)。
2015/09/11 Fri 07:21 [No.123]