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藤原改新
江戸時代に「藩」という呼称は、公的な制度名ではなかった為、これを用いる者は一部に限られ、元禄年間以降に散見される程度だった(新井白石の『藩翰譜』、『徳川実紀』等)。明治時代に初めて公称となり、一般に広く使用されるようになった。
元々「藩」という語は、古代中国で天子である周の王によってある国に封建された諸侯の支配領域を指し、江戸時代の儒学者がこれに擬えて、徳川将軍家に服属し将軍によって領地を与えられた大名を「諸侯」、その領国を「藩」と呼んだことに由来する。あくまで江戸時代には「藩」の語は儒学文献上の別称であって、公式の制度上は藩と称されたことは無い。
当時の江戸幕府は、大名領は領分、大名に仕える者や大名領の支配組織は家中などの呼称が用いられていた。いずれも、その前に大名の苗字もしくは拠点(城・陣屋所在地)とする地域名を冠して呼んだ。
今日の歴史学上では、大名領およびその領地の支配組織を藩、藩の領主である大名のことを藩主、大名の家臣のことを藩士という事が多い。同じく現代歴史用語として、藩に対して幕府の直轄領のことを天領と呼ぶ事も多い。
しかし、この藩について、当時の人々が実際に何と呼称していたかは詳しくはわかっていない。幕府からの命令は藩主個人名 例えば長州藩の場合は「松平大膳大夫殿」に宛てて出されており、各藩側も自藩と他藩の区別さえできれば良かったので「当家」「他家」などの呼称で十分だったと考えられている。藩士についても「○○藩士」とは呼ばれず、例えば「長州藩士」であれば公的には「松平大膳大夫家来」と称された。また「藩主」より、封地名に「候」をつけて呼び現されることが多かった。例えば「尾張侯」、「姫路侯」といった具合である。
明治元年(1868年)に明治新政府が旧幕府領を天皇直轄領(天領)として府・県に編成した際に、大名領は天子たる天皇の「藩」であると観念されたこともあり、「藩」は新たに大名領の公称として採用され、藩主の居所(城持ち大名の場合は居城)の所在地の地名をもって「○○藩」という名前が初めて正式の行政区分名となった(府藩県三治制)。翌 明治2年(1869年)までに版籍奉還が行われて藩主は知藩事に改められ、明治4年(1871年)の廃藩置県によりさらに藩が県に置き換えられた。これによって江戸時代以来の藩制は廃止され、藩領は整理された。
なお琉球は、その実質的な支配者である薩摩藩が廃藩置県によって県となったことを受け、翌 明治5年(1872年)、独立王国から日本国に帰属する琉球藩へと改められた。以後 明治12年(1879年)の琉球処分まで、琉球は廃藩置県後の日本国内において唯一藩制が行われていた地域である。
2015/08/22 Sat 18:14 [No.100]