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藤原改新
水戸学を分析してみると光圀時代の前期水戸学(水戸史学)と斉昭時代の後期水戸学(水戸政教学)の二つに分類することが出来る。前期水戸学とは大日本史修史方針である大義名分論及び、尊王斥覇論から生じた尊王論である。後期水戸学とは幕末の内憂外患の非常時に対処する為、永年藩内に於いて育成された尊王論と新たに外敵に備える為の攘夷論とを結びつけて主唱した尊王攘夷論である。
徳川幕府の官学は朱子学である。水戸学派は特に朱子の著作『通鑑鋼目』の中の大義名分と尊王斥覇の思想に啓発された。「大義名分」の思想とは世の中の秩序、平和、調和を保つ為の必要条件であり、大義とは尊王の大義であり、名分とは君臣の別である。「尊王斥覇」とは王道を尊んで覇府を排するという事である。水戸学派は特にこの書を精読して、新しい日本史の解釈に応用したのである。
当時の天皇は北朝系統であり、朝廷よりの官位も総て北朝から授与されている関係上、南北朝問題については北朝正位説をとる事が正統視されていた。幕府の本朝通鑑にしても前半は南朝、後半は北朝の勢力が増大するにつれ北朝正位説をとっており、特に明確な解釈は下していなかった。光圀はこれを遺憾として「皇統の正閏の解決の道は、三種の神器の所在を以て定める以外に方法は無い」旨を主張して南朝正位説をとった。南朝設立当時は神器は南朝方にあった。南朝正位の問題は当初、水戸史官全部の合意ではなかった。光圀死去後も再三論議されている。その度、安積澹泊(水戸黄門の格さんのモデル)が異論を抑えて、水戸藩としては最後まで南朝正位説を堅持したのである。南朝正位説については、水戸学派独自の説ではない。北畠親房は光圀誕生300年前既に『神皇正統記』を著して南朝正位説を主張している。光圀は親房に非常に感化を受けた。当時としては全く埋れていた『神皇正統記』の歴史事実を裏付ける為、『神皇正統記』は勿論、『太平記』、『源平盛衰記』、『平治物語』、『保元物語』等を調べ、歴史上重要な事項は写本又は修正して南朝正位説を裏付けた。そして、北朝を擁立した北条、足利氏等の策謀に筆誅を加えると共に、400年以上埋れていた楠木正成以下の南朝の忠臣を掘り起して顕彰、皇統の正閏と人臣の是非を公にした。
2015/07/26 Sun 10:15 [No.60]