杉さんぼく
武田耕雲齋辞世
討つもはた
討たるるもはた 哀れなり
同じ日本の 乱れと思へば
咲く梅の
花ははかなく 散るとても
馨りは君が 袖にうつらん
という武田耕雲齋の和歌にちなんだのか、水戸から運ばれた水戸紅梅が多数植樹されています。
武田耕雲齋の孫に当たる武田金次郎、まだ年少だったため小浜藩に幽囚の身となり、明治元年の朝令で恩赦、京都に行き水戸に戻りました。
それにしても悔しいのは、武田家一族、その他天狗党勤王の士を無残に斬首惨殺した市川三左衛門らの諸生派だ、この仕返しをして怨みを晴らす、と同志を集め虐殺隊を組織し、諸生派を襲い斬り殺したり銃殺の挙に出ました。
ここに横山と云う諸生派に属した屋敷があります。
当然虐殺隊は狙いますから、危機を感じたその家の女性は水戸を離れようと、山を越えた辺りで産気づき、竹薮で一人の男の子を出産しました。
明治元年9月18日の事でした。
これが後の日本画壇最高峰となる横山大観でした。
もし、母子ともに武田金次郎虐殺隊に襲われて殺されていたら、日本画壇の進歩も横山大観その人もいなかったわけになりますから、歴史の歯車って不思議です。
ちなみに、よい意味で言えば天狗党の天狗とは、常に乱世に姿を現わして、邪を正し、賞罰が厳重である…という意味合いがあるのです。(石井良一/幕末動乱異聞1969/〜改題天狗党悲史‐1983)
2015/10/28 Wed 03:52 [No.181]