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藤原改新
光秀の謀反が実は家康を討つ為だったという説が有る。光秀が軍勢を洛中の本能寺へと向かわせるにあたって、「家康を討つ為だ」と喧伝したことは、イエズス会資料や明智軍の兵士の回想『本城惣右衛門覚書』にも見えられるので、ほぼ事実だろう。しかし、これは中国へ出陣するはずなのに、反対方向の京都に向かって進軍することを兵士達に怪しまれないようにする為の偽装だったことは明らかである。又、京都に自邸や家臣の屋敷を持っている光秀なら、家康がすでに堺に下向していたことは知っていただろう。
では、光秀はいつの時点で謀反を決意したのだろうか?
普通、それに対する答えは、5月28日に愛宕山で興行された百韻連歌の発句「ときは今あめが下知る五月哉」に光秀の思いが込められていたとされる。しかし、この「百韻連歌」の解釈は多義的であり、謀反の決意表明と見なすのは結果から見た後付けの解釈ではないだろうか。例えば、『信長公記』にも愛宕百韻のことが記されているが、その様な解釈は見られない。
又、「愛宕百韻」と同日付で、光秀が山陰の伯耆国内で反毛利の抵抗を続けている豪族、福屋隆兼に宛てた書状が興味深い(「福屋文吾旧記文書」)。その書状には、「山陽道に毛利、吉川、小早川が出陣し、羽柴藤吉郎が対陣しているので、今度の出陣では先ず彼の表(備中)で働くように、という上意である。そこへ着陣したうえで、様子を見てから伯耆へ発向するつもりである」とある。光秀は備中に出陣し、秀吉を支援した後、伯耆に向かい、福屋と合流しようとしていた。つまり、光秀は謀反の3日前に至っても、中国攻めの先陣として出陣するつもりだったのである。とすれば、光秀の決意は28日以降ということになる。
その決定的な契機は27日、信忠が堺に下向せずに信長の上洛を迎える為に滞京を決めたのを程なく知っただろう。イエズス会資料には、次の様に書かれている。「彼(光秀)は信長並びにその世子(信忠)が共に都にあって、さほど多くの兵を伴っていなかったから、両者を殺害する絶好の機会と考え、己が企てを実行することに意を決した」
この様に、光秀は出陣直前に至り、信長、信忠父子が共に少ない供廻で在京しているのを確認してから、ようやく謀反の決断を下したものと考えられる。
2016/04/07 Thu 12:22 [No.258]