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藤原改新
光秀は謀反を決行するにあたり、機密保持を重視し、家老衆にも 出陣直前まで心中を明かさなかったことが『信長公記』で確認できる。だから、配下の与力大名に対しても事前に通告すらしていない。では、光秀の与力大名である丹後の細川藤孝•忠興父子と大和の筒井順慶の動向はどの様なものだったのか?
『信長公記』巻十五によれば、5月17日、信長に家康饗応の役目を解かれた光秀が中国出陣を命じられた。細川忠興や池田恒興らの摂津衆も同様である。ただ、その中には忠興の父 藤孝と筒井順慶の名前がない。
細川家については忠興が出陣し、藤孝は留守居という分担だったのだろう。忠興が丹後宮津から出陣したのは6月3日。舅である光秀の軍勢と合流する予定だったのだろう。松井康之•有吉立行を先手として半里ほど進み、犬の堂まで来たとき、愛宕下坊の幸朝僧正からの急使で本能寺の変を知らされ、忠興は急ぎ宮津に引き返した。そして父子共々髻を払って信長への弔意を示したのである。(『綿考輯録』巻九)。
順慶については、『多聞院日記』五月十八日条に「筒井順慶は昨夕(17日)帰る。来る二十日、西国へ出陣の用意である」とあり、安土から大和へ戻り、二十日に中国に向けて出陣する予定だったことがわかる。だが、順慶が実際に出陣したのは6月2日の朝だったようで、同日記には「順慶が今朝上京したところ、上様(信長)が急に西国へ御出馬とのことで、すでに安土へ帰られたか。その為(順慶は奈良へ)帰られた」とある。日記の記主 多聞院英俊は、本能寺の変当日の混乱した状況をよく把握できていなかったのだろう。順慶は上京したものの、途中で光秀の謀反を知り、とりあえず帰国したものと思われる。その後、光秀から参陣を強く期待された順慶が迷走するのはよく知られているとおりである。
2016/04/25 Mon 22:25 [No.263]