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[ 編集 ][ 返信 ]本能寺の変直前の動向 3

藤原改新

信長が最後に上洛する8日前に嫡男の三位中将信忠も上洛している。信忠の上洛もこれが最後となった。
では、信忠の上洛にはどのような目的があったのか?

信忠は5月中旬、安土城での徳川家康と穴山梅雪の接待の場に同席した後、21日、家康、梅雪一行とともに京都に入った。二人は信長から京都、大坂、奈良、堺を遊覧するよう勧められており、信忠はその警固役も兼ねての同行だったと思われる。
信忠の上洛は天下人の後継者の登場として耳目を集めた。事実、信忠は7年前の天正3年(1575年)に信長から家督を譲られている。

在京中の信忠の動向については、公家の勧修寺晴豊の日記『晴豊記』でその一端が判明する。22日、上洛した信忠はまず禁裏御所に参内した。そして晒し35反、飛騨布15反、絹30反を献上している。翌23日、今度は朝廷(禁裏御所と誠仁親王の二条御所)から京都所司代の村井貞勝のもとに、貫(絹の横糸)1引、晒し1反、「越後つつき」、妙覚寺を宿所としていた信忠のもとには、小鷹、唐錦、勅作の貝香がそれぞれ届けられている。これらは前日の信忠の献上品に対する返礼として贈られたものだろう。26日には信忠は家康、梅雪を伴って清水寺に参詣し、能興行を見物している。その後3人は武家伝奏の甘露寺経元から饗応を受けている。翌27日には、朝廷から再び信忠に「十合十荷」(皮籠などの箱物10個と酒樽10荷)の贈り物があった。この様に、信忠と朝廷の交流には親密なものがあった。朝廷は信長の後継者に熱い眼差しを送ったことだろう。

京都見物を終えた家康、梅雪一行は29日、堺に向けて出立した。その案内人は信長の側近 長谷部秀一と信忠の側近と思われる「杉原殿」である。実は信忠も二人に同行して堺に下向する予定だった。しかし、直前になって信長が上洛してくるのを知り、急遽予定を変更して出迎えの為、在京することにしたのである。信忠が信長側近の森乱に宛てた書状(5月27日付)には、次の様に記されている。「(上様が)中国表に近々出馬されるとのことで、私は堺見物はいったん遠慮しました。一両日中に上洛されると聞いていますので、京都にてお待ち申し上げます」
結果として、この方針変更が信忠の命運を決したのである。

一方、信忠の下向を心待ちにしていたのは、堺の豪商達だった。信長の後継者をもてなして、織田権力との親密な関係を深めようと考えていたが、中止と聞いて落胆したのである。堺の会合衆の一人だった千宗易も女婿の少庵に宛てた書状(5月28日付)で、「殿様(信忠)が下向なされないことについて、我らをはじめ堺南北の者達は力を失い、茶湯の面目も失った。返す返すも残念である」と嘆いている。

この様に、朝廷や堺衆などの信忠への期待は大きかった。

2016/02/08 Mon 01:40 [No.245]


残り4件

  1. [203] 天正10年(1582年)5月29日、織田信長は1年3ヶ月ぶりに上洛する為、安土城を発した。供廻は僅かに小姓2,30人だった。この供廻の少なさが信長の致命的な失態だったといえる。信長の旗本馬廻はこの時どうしていたか?大半は安土城のある近江国内に在住していたと思われる(人数は不明)。『信長公記』には「上洛後すぐに中国筋へ発向なされるので、出陣の用意をととのえておき、お知らせが有り次第出陣するように、と  ・・・・ >> 続き本能寺の変直前の動向 藤原改新 2015/11/29 15:47
    1. [215] 中国出陣を目前に控えていたはずの信長が、在京中に大規模な茶会を開く予定だったのではないかと言われている。上洛に合わせて、安土から大量の茶道具を本能寺に搬送させていた。右筆である楠長諳が書いた「御茶道具目録」には、38種の茶道具が記載されている。いずれも信長愛蔵の品々で、九十九茄子、珠光小茄子、万歳大海、珠光茶碗、牧谿絵、千鳥香炉など、名物逸品がそろっていた。そしてこの目録は博多商人の島井宗室に宛て  ・・・・ >> 続き本能寺の変直前の動向 2 藤原改新 2015/12/05 18:49
      1. [245] 信長が最後に上洛する8日前に嫡男の三位中将信忠も上洛している。信忠の上洛もこれが最後となった。
        では、信忠の上洛にはどのような目的があったのか?

        信忠は5月中旬、安土城での徳川家康と穴山梅雪の接待の場に同席した後、21日、家康、梅雪一行とともに京都に入った。二人は信長から京都、大坂、奈良、堺を遊覧するよう勧められており、信忠はその警固役も兼ねての同行だったと思わ  ・・・・ >> 続き
        本能寺の変直前の動向 3
        藤原改新 2016/02/08 01:40
    2. [251] 慶長8年(1603)、徳川家康が上洛の際の宿舎として造営したのが、観光客で賑わう『二条城』。

      しかし、一番最初の『二条城』は、永禄12年(1569)に、織田信長が室町幕府第15代将軍足利義昭の為に築城したもので、

      歴史上では区別の為に
      『旧二条城』とされている。
      場所は、上京区下立売通室町西南角(平安女学院の敷地内)。> 続き
      旧二条城・二条御所(二条殿)
      京都歴史研究会・代表 2016/03/11 20:40
    3. [252] 誤植がありました。

      誠仁親王の前の文章訂正します。
      関白二条晴良邸の跡地に建ったのが二条御所(別名:二条殿)です♪
      織田信忠終焉の地
      京都歴史研究会・代表 2016/03/11 20:52
      1. [258] 光秀の謀反が実は家康を討つ為だったという説が有る。光秀が軍勢を洛中の本能寺へと向かわせるにあたって、「家康を討つ為だ」と喧伝したことは、イエズス会資料や明智軍の兵士の回想『本城惣右衛門覚書』にも見えられるので、ほぼ事実だろう。しかし、これは中国へ出陣するはずなのに、反対方向の京都に向かって進軍することを兵士達に怪しまれないようにする為の偽装だったことは明らかである。又、京都に自邸や家臣の屋敷を持っ  ・・・・ >> 続き本能寺の変直前の動向4 藤原改新 2016/04/07 12:22
        1. [263] 光秀は謀反を決行するにあたり、機密保持を重視し、家老衆にも 出陣直前まで心中を明かさなかったことが『信長公記』で確認できる。だから、配下の与力大名に対しても事前に通告すらしていない。では、光秀の与力大名である丹後の細川藤孝•忠興父子と大和の筒井順慶の動向はどの様なものだったのか?

          『信長公記』巻十五によれば、5月17日、信長に家康饗応の役目を解かれた光秀が  ・・・・ >> 続き
          本能寺の変直前の動向5
          藤原改新 2016/04/25 22:25