藤原改新
天正10年(1582年)5月29日、織田信長は1年3ヶ月ぶりに上洛する為、安土城を発した。供廻は僅かに小姓2,30人だった。この供廻の少なさが信長の致命的な失態だったといえる。信長の旗本馬廻はこの時どうしていたか?大半は安土城のある近江国内に在住していたと思われる(人数は不明)。『信長公記』には「上洛後すぐに中国筋へ発向なされるので、出陣の用意をととのえておき、お知らせが有り次第出陣するように、という旨のお触れだったので、御供がなかった」信長を守るべき親衛隊は在地に待機したままで、信長からの出陣命令を待っていたのである。(信長の上洛にも随従せず、安土城の留守居衆も含まれていないから、中国出陣の為在所で待機していた旗本衆だといえる。)『晴豊記』には「その日の夕刻までに宿所の本能寺に入った信長は、翌6月1日参集した公家、門跡衆と対面した時、西国へは4日に出陣するつもりだと述べている。」とすれば、旗本衆もこの日までに上京するか、大坂辺りに集結する予定だったと思われる。又、信長出陣の目的は中国攻めの為だけで無く、九州や四国まで含めた西国全体の予定を意図していた可能性がある。
2015/11/29 Sun 15:47 [No.203]