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気になる人々 大野応之助門下

杉さんぼく

見廻組以外の大野應之助門人余話

金輪五郎友行(本名 志渡長次郎1833〜1868/12/29)
秋田藩下の阿仁銀山(阿仁合町)、真木沢鉱山の台所手代(労働者の指揮監督役)志渡平四郎の次男として誕生。
志度氏の先が金輪で、久保田藩佐竹3人扶持の苗字帯刀を許された家柄である。

17〜18歳の頃、久保田の城下に出た後、20歳で家老となり、吉田松陰を迎えて天下を論じたと云う渋江内膳厚光に下男奉公して臣となった。
だが、臣として長くはいなく、この頃だろう、辻辰之助の親交を得、勤王運動に奔り江戸に出ている。
剣は直心影流で、得意手は片手横面打ちと云う。(河上玄齋も片手斬りだったようだ)

身長5尺前後の短躯ながら、3尺五寸の刀を帯び五人力の肩幅がっしり型のそのいかつきは、手足を付けた衝立の様な体格だった、と伝わる。

年月不明ながら、そんな金輪の3尺5寸の朱鞘を越しにあびて闊歩する姿を人は、「赤鞘団九郎」と渾名した。

文久3年脱藩。
いつ頃か、華夷弁論を著した赤報隊小島将満こと相楽総三たちと江戸辺りで恐らく出会い、東奔西走していたのだろうが、後、慶応2年、京都の所司代師範・大野應之助から西岡是心流の免許皆伝を受けている。

薩摩藩に属して鳥羽伏見を戦い、江戸薩摩浪士隊を経て、翌4年に相楽総三の赤報隊に身を置き、相楽と美濃大垣の総督府に同行、戦功あり、と烏帽子、直垂を貰ってもいる。

しかし、下諏訪で相楽総三たち赤報隊幹部が斬首された惨劇を聞き、赤報隊壊滅後は薩摩藩を離れて、とにかく秋田藩士小野寺主水と共に秋田藩に帰属した。
やがて、沢宣嘉卿を迎えた同勢に加わり、血が騒ぐのか、ほどなく戦列に身を投じ、東北各地を転戦して功を成して負傷もしている。

そして、沢宣嘉卿に従い、京都に再び帰った。

維新の残滓とも言える金輪のそのエネルギーは、やがて、明治2年の大村益次郎暗殺に加担する事の燃焼となるが、危うい暗殺現場から逃れて、越前敦賀に潜んでいるのを発見され、同年12月、36歳で刑死した。
「大君と皇国(みくに)の為に死ぬる身は 大和魂の道をまよはじ」
「身は野辺の草葉と共に朽ちるとも 天の川原に名をもさがさむ」との遺詠が残る。
(参考:相楽総三とその同志【長谷川伸】1943)

2015/07/28 Tue 10:54 [No.72]