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気になる人々 続・敦賀天狗党惨殺

杉さんぼく

長行の果てに頼る慶喜公は、元冶元年12月17日に禁裏総督として間近の近江海津まで出張っていました。
天狗党を討つべし、と手柄に逸るその弟昭徳(昭武)も来て布陣します。

結局、事が済むや慶喜公は「この際の処置決まり安心に候」と書いたりもしていますから、自分の立場にほっとしたのでしょう。

或いは皮肉な事に、以下のような逸話もあります。

死罪を免れた人たちを諸藩に預けようと、幕府は薩摩にも打診し、船を敦賀に回して受取に来いと通達しました。

そこで、西郷吉之助が書簡を書きます。

「降伏者を殺すのは日本武士道にはないことだ、それを殺した、命を助けた人間はもっと丁寧にしなけりゃならん、降伏者を苛めるという武士道は薩摩にはござらん、よ ってお断りもうす」

薩摩の作家海音字潮五郎氏が紹介し、以上の話を述べています。(昭和51年-NHk日本史探訪)

いささかの薩摩贔屓があるにしても、では、ではと、田中河内介父子や海賀宮人等への薩摩のとった惨殺行為はどうなんだ、との異論がなくもありませんが…。

いずれにもせよ、幕末維新での水戸の内部抗争は悲劇であるのは変わりありません。

そこには、水戸は破壊、長州は構築とした水長の成破盟約の結果だったとは言え、藤田小四郎に桂小五郎が千両もの軍資金援助をしたのがそれを物語ります。

2015/10/28 Wed 03:34 [No.178]