京都歴史研究会・代表
慶長8年(1603)、徳川家康が上洛の際の宿舎として造営したのが、観光客で賑わう『二条城』。
しかし、一番最初の『二条城』は、永禄12年(1569)に、織田信長が室町幕府第15代将軍足利義昭の為に築城したもので、
歴史上では区別の為に
『旧二条城』とされている。
場所は、上京区下立売通室町西南角(平安女学院の敷地内)。
『二条御所』は、
天正7年(1579)に、義昭の二条城を廃し、信長の京屋敷として造られた建物。
現在も旧二条城と二条御所(別名:二条殿)を混同している書籍が多い。
二条御所(別名:二条殿)の場所は、
中京区金吹町…現在は廃校の龍池小学校を再利用した建物[京都国際マンガミュージアム]の場所である。
烏丸御池の北西で、二条殿町の名前が残り、二条殿交番も建っている。
当時の公家:山科言継(ときつぐ)の日記『言継卿記』やフロイス書簡にも、屋敷の壮麗さが記されていたが、完成して間もなく、信長は屋敷を二条関白:誠仁(さねひと)親王に献上してしまう。
それで屋敷は二条御所と呼ばれた。
信長は京都に城を築かず、寺社や豪商の屋敷などを宿舎にあてていた。そう、日蓮宗の寺院は、壕と土塁と塀を廻らせ、櫓を建てた城郭的な構造を持っており、信長は上洛時の宿舎として妙覚寺(妙覚寺城)をしばしば利用した。
本能寺も城郭のような壕がある立派な寺だったのだが、後に悲劇を生むとは知る由もなかった。
天正10年(1582)6月2日、
卯の刻(午前6時頃)、本能寺の変。
本能寺があったのは、
西洞院六角通〜蛸薬師通。
信長の長男:信忠は、西洞院通りから二筋東の衣棚通り、北は押小路通り(本能寺から北東約700m)の妙覚寺に宿泊していた(現在は上妙覚寺町の町名が残る)。
信忠は、光秀謀反の報を聞くと東隣の二条御所(二条殿)に、500ばかりの手勢を率いて移った。
一時休戦し、先に誠仁親王一行を退去させた後、激闘の末に信忠は自害し果てた。享年26歳。
本能寺と二条御所の戦闘が終わったのは、辰の刻(午前8時頃)だった。
ところで旧二条城は、
足利義昭の将軍座所で、こちらが最初に別名を二条御所と呼ばれた。
それで、二条殿と混同が起きているのだ。
信長が、足利義輝邸の跡地に70日間のスピードで築いた城で、石垣には墓石や石仏を利用していて、信長の神仏を信じない怖ろしさが垣間見える。
2016/03/11 Fri 20:40 [No.251]