京都歴史研究会・代表
@織田信雄ラスト、
◆信雄系列⇒上野小幡藩、宇陀松山藩、山形天童藩
◆有楽斎系列⇒戒重(かいじゅう)藩、後に岩田藩、芝村藩と改称、柳本藩
◆信包(のぶかね)系列⇒(丹波氷上郡の柏原藩)
信雄の五男:高長(たかなが)が、宇陀松山藩の第2代藩主。高長系織田家初代となり。
三男:信良が信雄の所領の一部、上野国で甘楽,多胡,碓氷併せて 2万石を分与され、その子孫は出羽国村山へ転封、この流れが、山形の天童藩で、最後の藩主/織田信学(のぶみち)は明治に子爵となり、天童県知事となった。
転封があったケースもあるが明治維新まで生き残った。
さらに信雄の娘:八重姫と家臣だった土方雄久の嫡男:雄氏を娶らせた。
雄氏は菰野藩初代藩主となり明治まで生き残る。
徳川は豊臣潰しをし、幼子の命をも躊躇せず奪った
しかし織田には気を遣い、
二代:秀忠ですら苦難の秀雄を救い、三代:家光は信雄を茶会に招くなど配慮を示した。
結果、信長の宗家は残っていないが、信長の血は脈々と生き続けている。
スケーターの人や、宗家と名乗って活動している人らは別として。
2016/04/02 Sat 12:15 [No.257]