Net4u レンタル掲示板を作る

[ 編集 ][ 返信 ]Re^2: 織田信長の関係者たち

京都歴史研究会・代表

@織田信雄ラスト、

◆信雄系列⇒上野小幡藩、宇陀松山藩、山形天童藩
◆有楽斎系列⇒戒重(かいじゅう)藩、後に岩田藩、芝村藩と改称、柳本藩
◆信包(のぶかね)系列⇒(丹波氷上郡の柏原藩)

信雄の五男:高長(たかなが)が、宇陀松山藩の第2代藩主。高長系織田家初代となり。

三男:信良が信雄の所領の一部、上野国で甘楽,多胡,碓氷併せて 2万石を分与され、その子孫は出羽国村山へ転封、この流れが、山形の天童藩で、最後の藩主/織田信学(のぶみち)は明治に子爵となり、天童県知事となった。

転封があったケースもあるが明治維新まで生き残った。
さらに信雄の娘:八重姫と家臣だった土方雄久の嫡男:雄氏を娶らせた。

雄氏は菰野藩初代藩主となり明治まで生き残る。

徳川は豊臣潰しをし、幼子の命をも躊躇せず奪った
しかし織田には気を遣い、
二代:秀忠ですら苦難の秀雄を救い、三代:家光は信雄を茶会に招くなど配慮を示した。

結果、信長の宗家は残っていないが、信長の血は脈々と生き続けている。
スケーターの人や、宗家と名乗って活動している人らは別として。

2016/04/02 Sat 12:15 [No.257]

  1. [254] @織田信雄

     信長の次男、織田 信雄
    (のぶかつ:1558〜1630)
    母は生駒吉乃(生駒家宗の娘)。生駒屋敷にて生まれた。
    大和宇陀松山藩の初代藩主。

    初め、伊勢北畠家の養子に入り、第10代当主として具豊(ともとよ)、信意(のぶおき)を名乗り、御本所と敬称された。
    (最終的に北畠家を掌握した)

    > 続き
    織田信長の関係者たち
    京都歴史研究会・代表 2016/04/02 12:00
    1. [255] @織田信雄続き、
      そして織田同士は戦わないようした。
       大坂の陣のとき、信包は死没していたが、信雄は先に片桐且元の殺害計画があることを本人に知らせ大坂を脱出させ、徳川に大坂の内情を知らせ、自らも脱出した。

       信雄の戦功から(家康の織田家を存続させる温情か)、元和元年(1615)、上野国甘楽郡(かんらぐん,群馬県)に2万石・大和国宇陀郡に3万石の  ・・・・ >> 続き
      Re: 織田信長の関係者たち
      京都歴史研究会・代表 2016/04/02 12:03
      1. [256] @織田信雄…続々…
        上野国小幡藩では養蚕など事業に務め、楽山園を造園(現代でも名園として知られる)。江戸後期、養蚕事業は地域の一大地場産業となり、明治期の富岡製糸場へと繋がっていく。

        安土城近くの桑實寺は天智天皇の時代に建立され、養蚕が行われていた。信雄はそれを見て思いついた感がある。

        やがて領地を子供らに分け与え、晩年は京都に移り  ・・・・ >> 続き
        Re^2: 織田信長の関係者たち
        京都歴史研究会・代表 2016/04/02 12:07
      2. [257] @織田信雄ラスト、

        ◆信雄系列⇒上野小幡藩、宇陀松山藩、山形天童藩
        ◆有楽斎系列⇒戒重(かいじゅう)藩、後に岩田藩、芝村藩と改称、柳本藩
        ◆信包(のぶかね)系列⇒(丹波氷上郡の柏原藩)

        信雄の五男:高長(たかなが)が、宇陀松山藩の第2代藩主。高長系織田家初代となり。

        三男:信良が信雄の所領の一部、上野国で甘楽,多  ・・・・ >> 続き
        Re^2: 織田信長の関係者たち
        京都歴史研究会・代表 2016/04/02 12:15