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気になる人々 赤報隊・飯田武郷と西宮

杉さんぼく

吉井良隆宮司から、第54代良昭宮司の代になってる西宮神社吉井家の話をします。

その傍系の吉井宮司と言えばやはり貞俊権宮司が、伊勢本街道で馴染みが深いんですが、なぜか、「良」がつくのにこの権宮司さんは貞俊と言うお名前で、残念ながら故人になられてしまいました。

それにしても、吉井一族は皆さん健筆家です。

西宮史話の良隆宮司以前なら、14歳から国書神典を父良幹に受けた影響からか、その才覚を生かして、幾多の著述を残した吉井良秀に尽きます。
「老父の御神幸に関する記事は後人にとっては誠に有益」と、息、良尚宮司が記すように、その遺稿「樟園余影」(昭和15年和装本-良尚宮司編)がなかなか良い。

部屋で籠もって本探しをしていたら、偶然、手元に現れたこの良秀宮司、年譜に「37歳(明治22年)、信州の国学者飯田武郷の門について、皇典・歌文を研究し始めた」とあります。

云わずと知れた、飯田武郷は信州下諏訪で斬首された赤報隊相楽総三の首を奪って埋めた、とされる平田国学の雄です。

華夷弁論を著していた相楽総三と飯田武郷は、国学を通じての江戸での知り合いでした。

平田篤胤の死後門人のそんな武郷が、ほどなく幕末維新の政治運動が昂揚しつつあった慶応2年、京都に上がります。

しかし、何と、後に相楽総三梟首を画策した黒幕との噂があった、岩倉具視の所に落ち着くんです。

やがて、信州に帰郷した時に、下諏訪での相楽総三の偽官軍事件処刑に出会い、その首を神道に則って埋めてやりました。

皮肉な話しながらです。

西宮に来た飯田武郷を迎えた吉井良秀宮司と、何を語ったんでしょう。

皮肉と言えば、赤報隊と西宮…。
う〜ん、重い事件でしたね。
意外な繋がりがあるんですね。
だから、歴史は面白い。

お薦めです。

2016/04/09 Sat 09:01 [No.259]