杉さんぼく
マイナーな話しながら、京都歴史研究会の3月20日はおかげさまで盛況、会場定員30人部屋が予定オーバーした36人例会となりましたね。
32部の資料が行き渡らずで、それでも参加者の皆さん、知らなかった、勉強になった、と喜んで下さり、数名の会員入会もあったよし、重畳です。
何よりも、嬉しかったの田中河内介の分家で、田中河内介父子のような陶芸家壽寶・綏寶親子さんがいらっしゃった事です。
例会後、お彼岸ということもあり、会場向かいにある田中河内介菩提寺の金光寺さんに、10数名でお墓参りしました。
以下余談。
有馬正義が信頼した同志に、寺田屋到着に遅れた小河一敏がいます。
後に、小河は田中河内介惨殺を耳にし、明治8年、河内介父子事蹟を上申、招魂社合祀願いとして、「田中綏猷父子事蹟略記」を大久保内務卿に提出する事で世に出しました。
そこで明治天皇が田中河内介について問われた件。
その小河一敏発言以外に、別の話では黒田清隆が大久保に問い正した、とあります。
西郷が書簡で、河内介惨殺により「薩摩は勤王は語れない、三文芝居だ」と述べたのも無理はなく、だからかこうした事の起因に諸々、黒田清隆がなぜに酒乱になったとかとかや。
司馬遼さんが短編に書かなかった材料ながら、以下短編がお薦めです。(絶版なら図書館でどうぞ)
遺恨の譜(初出1974年)
滝口康彦
講談社文庫1984「遺恨の譜」
他、作品集等。
〜いわねばならぬ、いつかは真実を語り残しておかねばならぬ…との独白から始まり、旧薩摩藩士帖佐糺これを記す、で結ばれた田中河内介異聞です。
河内介の切腹
南條範夫
桃源社1981「華麗なる割腹」(新書版)
〜田中綏猷の生涯には二説あるとして、惨殺説と切腹説を紹介、異説に田中綏猷が仙石騒動で有名な仙石左京の次男である出自を述べ、経済学者でありながら、著者独特の史観を陳述開示しています。
2016/03/25 Fri 00:01 [No.253]