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杉さんぼく
京都の人見勝太郎と共に遊撃隊として闘った隻腕の粋な幕臣剣客、伊庭八郎に触れます。
心形刀流伊庭八郎秀穎、幕臣、元治元年徳川家茂上洛に随行、遊撃隊として鳥羽伏見の戦いで負傷し、東帰後、西軍の後方を衝く箱根の戦いで左腕を負傷、左手首を失いました。
しかし、その身体で敵を追い払って今に名を留めその後、箱館に至り歩兵頭並として善戦しました。
確かに、池波正太郎氏の小説「幕末遊撃隊」の効用もさることながら、こうした生き様の反面で、遊女小稲を愛した伊庭八郎の人間的な粋さは、春日左衛門と共に玄人好みな女性にはずいぶん人気がありますね。
さてもその死。
土方歳三死す明治2年5月11日の翌日、箱館五稜郭で土方の後を追うようにして、12日土方より8歳年下の伊庭八郎は惜しくも27歳で死しました。
その前月19日の激戦で、肩と腹に銃創を受けての痛みに耐えての戦闘死でした。
新撰組隊士田村銀之助の語り残しでは、恭順に先立ってモルヒネを飲んで没した、と伝わります。
その他、伊庭に従っていた荒井鎌吉が談話資料を残しています。
ついでながら、以下真偽不明ながらの一文。
「八郎君の墓は函館五稜郭土方歳三君の墓の傍にあり」(旧幕府雑誌)
五月の時期になると、歳三忌(5月11日)や瑞山忌(5月11日)に続くのが、伊庭八郎秀穎の秀穎忌(5月12日)です。
墓は、関東大震災前の台東区から移転した中野区沼袋の貞源寺にあります。
「伊庭八郎征西日記」(維新日来纂輯)「伊庭氏世伝」「講武所」(東京市史・外篇)
余談ながら、心形刀流、その名跡を継ぎながら明治36年に没するのが実弟想太郎で、兄に劣らない心形刀流の剣客で温厚珍重な人物でした。
その剣技が予想だにしない、日本初の国際弁護士政治家・星亨刺殺事件(明治34年6月21日)を起こしたのは、八郎死した年から32年後の事でした。
2015/07/28 Tue 20:49 [No.73]