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杉さんぼく
小栗忠順について〜
幕末維新の短い期間に任免を70数回繰り返した小栗の、後世に残した事業に有名な横須賀製鉄所(横須賀造船所)があります。
この製鉄所建設に関して、小栗は慶応元年、推進派の外国奉行柴田日向守を仏に派遣し、資器材、要員、生糸販売等の専売機関となるコンパニー創設の方法協議に着手、柴田報告をもとに「交易商社」コンパニーの建設書を幕府に提出しました。
順調にいけば、その600万ドルくらいは年賦で払えるとの小栗との目算がありました。
しかし、海軍の必要性を説きながら同じ海軍伝習所同窓の中島三郎助や、この小栗の想いに反する勝海舟の敵愾心はどうしたものでしょうか。
さて、交易商社コンパニーの話。
結局、前述の建設書をもとに、それまでの外国商人による対人交易貿易を幕府の手でする商社「兵庫商社」の発想を慶応3年4月に小栗は発表しました。
小栗はこれをコンペニーと呼んでいます。
上方で100万両拠出できる商人を人選して、貿易業務をさせようと言うのです。
商社発足に、頭取は鴻池山中善右衛門に加島屋広岡久右衛門、加島屋長田作兵衛他に肝煎り数人の上方商人が名を連ねました。
国内消費外の物産を下値で売る国益が、不足でも売れば高値で売れる商人利益に国民は不利益を被る、ならば商社設立の共同貿易により国益と利益を一致させる、それがコンペニーだ、と説かれたのが兵庫商社でした。
この先見性は、明治の実業家渋沢栄一が高い評価を与えました。
遣米使節でのこれは、海舟とは違った知識の実践かも知れません。
2015/09/11 Fri 10:11 [No.128]