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杉さんぼく
人斬り以蔵、誰が言い出したか。
幕末維新での同時代資料には、人斬り半次郎とか、人斬り新兵衛、そしての人斬り以蔵…、結局は、維新後に語られ創られた呼称でしょう。
そんなひとりに明治を迎えた人斬りに河上彦齋がいます。
人斬り彦齋?、俺は人斬りか、人斬りと言われるほど人を斬った事などないぞ、と言ったとか。
この例は、半次郎、桐野利秋も同様で、表向きは赤松小三郎を斬ったと京在日記で明かした以外ありません。
しかし、あいつなら人を斬りそうだ、だから人斬りだ、との冠称がついたと思われます。
おまけにそんな人間は、皆な無学なんだ、とされました。
とはいえ以蔵、龍馬より早く西洋砲術を徳弘董齋に習っていて、読み書き算術は出来てはいたのは否めません。
ついでに言えば、司馬遼せんせが書くように以蔵は足軽ではなく、4代前に郷士株が取得された郷士でした。
元治元年の浪士摘発で、以蔵は捕縛、所司代から町奉行所、土佐藩へと身柄拘束されるなか、鉄蔵として、額に入れ墨をされた、と「土佐勤王史」「土佐偉人伝」は記載しています。
額に「犬」の文字を、一画ずつ彫られ、一画増すごとになり最終的には死罪の刑でした。
この刑典は、幕末まで続いた元禄元年(1690)制定の元禄大定目により、私娼売春行為で実際に焼き印追放もあったそうです。
あるいは、売春行為で2人の女性「かね」「はつ」が併合刑で、鼻を削がれて追放刑になった、とかの酷い刑もありました。(土佐藩法制史-吉永豊実1974)
が…。
以蔵は額入れ墨ではなく、腕への入れ墨でした。
「以蔵…浪花より来着…刑もまた重かるべし…公辺よりは腕へ入れ墨の上、追い払いとなり…」(元治元年6月25日付け伊藤善平書簡)
以蔵、慶応元年閏5月11日斬首、28歳、雁切橋河原に晒さる。
昭和58年11月、高知県護国神社に土佐勤王党同志として、合祀されました。
2015/10/15 Thu 20:40 [No.161]