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杉さんぼく
天狗党死の長行路(出発時は1000余人が800数余人になり、この中の500人余りは水戸郷校で学んだ若者農民たちだった)で、揖斐根尾川へ向かう途路に、西郷吉之助使者として中村半次郎が来て、本道を西に進んで慶喜公に降伏すれば…と勧めているのは、西郷の意見か薩摩の意見かは計りかねる点は否めず、寺田屋事件の前例があるだけに、この点に疑問も残ります。
大久保同様に、前述したように西郷も後に天狗党惨殺処刑について「降伏者を殺したのは武士道にはない、もっと丁寧にすべき、降伏者を苛める武士道は薩摩にはない」
と幕府に述べています。
安政大獄で、西郷は月照上人さんと共に薩摩に逃げた時、薩摩の為に尽力した月照上人さんを匿う義理も果たさず、義理立てした西郷が一緒に投身せねばならなかった事実、寺田屋事件で田中河内介父子などを惨殺した事実からすれば、やはり、水戸が長州に繋がるがゆえに、何も天狗党には出来なかったのかも知れない、そんなこんな風に考えてしまいます。
しかし、偉いですね、地元にしたら迷惑だっただろうし、さりとて死んだら皆、平等で可哀想だろう…これを語り継ぐ、この地に科せられた供養顕彰、と今に伝える鯡(鰊)倉…。
2015/10/28 Wed 03:37 [No.179]