京都歴史研究会・代表
@織田信雄…続々…
上野国小幡藩では養蚕など事業に務め、楽山園を造園(現代でも名園として知られる)。江戸後期、養蚕事業は地域の一大地場産業となり、明治期の富岡製糸場へと繋がっていく。
安土城近くの桑實寺は天智天皇の時代に建立され、養蚕が行われていた。信雄はそれを見て思いついた感がある。
やがて領地を子供らに分け与え、晩年は京都に移り、現:中京区西洞院三条下ル柳水町(りゅうすいちょう)に隠居した。
宇陀に出向くことはなく、能や茶の湯など優雅に暮らした。柳水町は正に、千利休が茶の湯に利用した[柳の水]の名水が出る場所だから。寛永(1624〜1645)初年に、
北野五辻に転居して没した。
享年73歳。
若い頃の天正伊賀の乱や、
小牧・長久手の戦いでの失敗はあったが、信忠や信孝といった直情型の兄弟とは違い、世渡り上手だった。
生き残ったことで、
成功者だからだ。
◆信雄系列⇒上野小幡藩、宇陀松山藩、山形天童藩
◆有楽斎系列⇒戒重(かいじゅう)藩、後に岩田藩、芝村藩と改称、柳本藩
◆信包(のぶかね)系列⇒(丹波氷上郡の柏原藩)
信雄の五男:高長(たかなが)が、宇陀松山藩の第2代藩主。高長系織田家初代となり。
2016/04/02 Sat 12:07 [No.256]