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本能寺の変直前の動向 2

藤原改新

中国出陣を目前に控えていたはずの信長が、在京中に大規模な茶会を開く予定だったのではないかと言われている。上洛に合わせて、安土から大量の茶道具を本能寺に搬送させていた。右筆である楠長諳が書いた「御茶道具目録」には、38種の茶道具が記載されている。いずれも信長愛蔵の品々で、九十九茄子、珠光小茄子、万歳大海、珠光茶碗、牧谿絵、千鳥香炉など、名物逸品がそろっていた。そしてこの目録は博多商人の島井宗室に宛てられたものだった。宗室こそ信長が主宰する茶会の賓客だった可能性が考えられる。一方、徳川家康が主賓の1人だったとする説もある。イエズス会の「1582年度日本年報追信」には、「信長が都に来た時、これが最後になったが、三河の国主やその他の諸侯に見せる為、ほとんど全ての道具を揃えて来たからである。」と書かれている。家康は当時、上方遊覧の為、京都から泉州堺に下向して滞在中、堺代官の松井友閑や堺の豪商、茶人たちに茶湯などの接待を受けていた。本能寺の変当日の6月2日朝、上京の途につくが、これが信長、信忠父子の死が伝えられる前の出立だった。「宇野主水日記」の同日条によれば、家康一行は当日の朝、火急に上京していったとある。その理由は信長が安土から上洛した為だとしている。家康は予め信長から、上洛したから茶会を開く旨知らされていたからだろう。ところが、その上京の途上、河内の飯盛山か枚方辺りで京都から堺に向かっていた茶屋四郎次郎と行き会い、凶報を聞いて狼狽するのである。では、茶会はいつ開かれる予定だったのか?茶会は6月3日に予定されており、信長は家康や公家衆を客にして茶会を開き、愛蔵の茶道具を披露することによって、その由緒や権威を高めようとした。尚、信長がこれらの茶道具をいつ本能寺へ運び込んだか不明。信長の上洛時に随従したのは近習たち数十人のみだから、大量の茶道具類まで帯同出来たとは思えないので、上洛直前に搬入していたのだろう。

2015/12/05 Sat 18:49 [No.215]