杉さんぼく
続いて…の項より、こちらが先でした。
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鳥取因幡の内紛事件、本圀寺事件について〜。
文久3年8.18政変前夜の17日に本圀寺にて勤王派河田左久馬等によって、黒部側用人を襲い、別働隊は佐幕派早川、加藤他を襲撃した事件です。
河田左久馬と言えば、龍馬つながりがありますね。
なぜか小説的なエゾ地開拓や鬱陵島新国開拓には、竜馬には語らせない「竜馬ゆく」話です。
慶応3年3月14日龍馬書簡で、河田左久馬宛てに
「北門の方へ手初(始)致候…北行の船も借受申候。」として、北門開拓という話を「余程面白(き)事御耳に入れ候…」と、言い、北行の船が調達出来たと書いています。
この北門開拓(蝦夷)への想いは、その少し前の3月6日、長府藩士印藤肇にも触れていますが、主題は竹島行開拓に終始しています。
むろん今の竹島ではなく、現在の鬱陵島を差し、竹島は松島が正しいのですが、とはいえ、「小弟ハエゾに渡らんとせし頃より、新国を開き候ハ積年の思ひ一世の思ひ出ニ候…大州の船の来るをまち申べし…」と、並々ならぬ新国開拓の思いを龍馬は記しました。
そして河田にも伝えたのです。
ここで書いた大州の船とは、つまり後日沈没する事となったいろは丸に他なりません。
ちなみに、「いろは」とは以呂波、つまりABCを表し、オランダ語で言うアビソ(エー、ビー、シー)です。
龍馬が、アビソよさらば!?と言ったかどうか定かではないエピソードがあります。
この借り受けたいろは丸で、「彼竹島行の事ハ兼而御聞ニ…」と、北門とは別に、竹島、松島が身近い長州藩士情報によって、そうした新国開拓を考えていた、龍馬書簡が残る河田に伝えたのでしょう。
4月23日にそのいろは丸沈没後、4月28日に「然二太極丸は後藤庄(象)次郎引受くれ申候」を使って、再び「…蝦夷の一条は別して、兼而存込の事故、元より御同意仕候…」(林謙三あて11月11日付け書簡)の想いを語って、かなわぬままにその数日後惨殺されました。
いろは丸と太極丸の新国開拓のかなわぬ龍馬の夢、河田左久馬宛て書簡は、前述の一通のみしか残らないと云う消化不良はなんとも為しがたい。
佐々木秋生氏宅には龍馬書簡が存在しないのだろうか、と先月傍系子孫のS氏に聞いたら、…かも知れないとかで、代わりに河田左久馬景與実弟精之丞景福あて海舟書簡(未公開未解読)を持参されました。
2015/07/28 Tue 22:52 [No.75]