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氷河期の賢者
男は言った。いっそ死んだほうがマシだと。家族も、住居も、宝物も全て失った男は言った。生きているほうがつらいと。
 男の目の前で、大事な人、物は全て消え去ってしまった。男に別れも告げず、何も抵抗せず、否、できず消えた。
 男は家族に責任があるとは考えなかった。自然のことだから、それはそうなのだが、男は自分を責めてしまっていた。家族の窮地に、ただ立ちすくむことしかできなかった自分を。助けようと思い立っても、一歩を踏み出す勇気が出なかった自分を。
 男は泳げるはずだった。男は力があるはずだった。男は速く走れるはずだった。でも、動くはずだった体の筋肉が、全く機能しなかった。結局心の問題で、体は脳の指示で動く。脳は心のほうを優先し、その弱気な性格から、躊躇を生んでしまったのだろう。
 男の周りの人物は優しかった。落ち込む男に、「君の責任じゃない」だったり、「こればっかりは仕方がない」というような励ましの言葉をかけてくれていた。男を責める者はだれ一人としていなかった。
 だが男にはそれが苦痛であった。
 男には皆の励ましが、自分の気持ちを理解しようとしない行動に思えてしまったのだ。だから、皆の思いを素直に受け取ることができず、一人でふさぎこんでしまうのだった。
 男は自分が今、なんという言葉をかけてほしいのか分からなかった。自分のことは自分が一番わかるというが、全くそんなこともない状態だった。ただ一人で疑心暗鬼になるしか、男のできることはなかった。否、ないというのは間違った表現かもしれない。男は「できない」状態なのだろう。
 男は、建物の陰で小さく座り込んでいた。その姿は、親が共働きで、帰りを待つ子供の姿とは似ても似つかなかった。もう、男の待っている人はいくら待っても帰ってこない。そんな世界に逝ってしまった。
 だが、男は忘れていた。
 男と同じ思いをしている人は何人もいる。男と同じ目に会った人は何人もいる。男以上の被害にあった人もいる。
 そして、同じ思いをした者たちで、つらさを、悲しみを共有できるということを。
 悲しみは、自分の中でため込めばくすぶり続ける。でも、それを少しでも吐き出すことによって、共有することによって、それは和らぎ、自分たちの目指すべき道が、見えてくる。光が、見える。
 ただ、人はそのことに一人では気付けない。誰かが手を差し伸べなければそれに気付けない。男も同様であった。男は家族を失って以来、たった一日とはいえ、他人との接触を避け続け、心の中に悲しみをため込んでいた。
 確かに、ただただ悲しみにくれ、涙を流すことも必要だろう。家族を弔うことも当然だ。
 だが男はもはや、生きる希望すら失いかけていた。家族の分まで生き続けなくてはならないのに、自分ができることを見失い、自暴自棄になってしまっていた。
 女もまた、大切な人を失った。女は、十年来の親友を失った。
 女は助けようとした。実際に行動も起こした。
 だが敵わなかった。敵うはずもない。女はいかに人間という生物が無力かを思い知った。
 だが、女はめげなかった。ここでめげて、ただ絶望するだけなら、自分勝手だと思ったからだ。女は身体的には元気だった。だからできる限り動いた。心酔しきった人々を慰め、同じ悲しみを共有できる空間を作った。
 女も本当はつらかった。一人でずっと泣いていたかった。でも女を突き動かしたものは責任感。もっとひどく、悲しい思いをした人がいる――そう思ったから、今は悲しみをこらえ、助ける側に回っているのだ。
 女は、建物の陰に座り込む男を見つけた――
「大丈夫ですか?あちらに施設があります。家族を亡くした方がたくさんいらっしゃいます。あなたも是非」
 男は何も答えなかった。
「そこでふさぎこんでいても、何も変わりませんよ」
 女がそう言った瞬間、男は勢いよく立ちあがり女の胸倉を掴んだ。
「わかったようなこと言いやがって……いいじゃねえかもう!俺もいっそ死んでしまえば……」
「違う!それは絶対に違う!私たちはそうなってはいけない!」
「なぜだ!?俺たちが悲しみにくれて何が悪い?俺たちはそうするしかないんじゃないのか?なあ、どうなんだよ、なあ!」
「違うわ。私たちは死んではいけない。亡くなった人の分まで生きなければならない。ただ生きるだけじゃない、輝かなければならない。そして、一人で悲しみを抱え込んではいけないのよ。みんなで分かち合うのよ」
「お前は人ごとだろうが、俺は大切な人がいなくなったんだ!偉そうなことを言うんじゃない」
「私も親友を亡くしたわ」
 男の表情がこわばった。男には想像しきれなかった。女の精神力を。
 しかし男は察した。女は強い気持ちを持とうと必死だった。自分が甘い気持ちでいるわけにはいかなかった。
「そうだ、俺もできることがある」
「そうです。できるんです。私たちには、できることがあるんです。絶望なんてない。私たちが持つべきものは、希望」
日本中が、希望を持つ。未来への、希望を持つ。
 確かに強大な敵を相手にする。けれど、みんなが希望を持てば――できることを探せば――
「ねえ、何か私にできることはない?」
「あたちもあたちも!これ、おかね!」
「あ、まってよう!ぼくもぼくも!」
「おかあさん、つかわないでんきはけさないと」
「これでみんなしあわせになるよ」
「そうね、みんなができることがある。あなたたち子供にもできることがあるのよ」
「おかーさんは?おかーさんはどうするの?」
「お母さんはね、これを送るの」
 母親は押入れからガサガサしたものを出した。布団だ。
「これ、つかってねたことある!」
「そうよ。これが役に立つ。あなたたちのような子供でも、何かできるのよ!」
「やったあ!」
 日本中が、宮城に願いを届けている。一人でも無事でいてほしい。また復活してほしい。被災地の復興を迅速に、原子力発電所の被害を食い止めて――
 さまざまな願いが交錯している。その中に悪い願いなんてない。みんないい願い。今、日本には善意のエネルギーがあふれている。
 僕たちにできることはなんだろう。それを探すこと、その行為から始めよう。まずは探そうじゃないか。僕たちにできることを。
2011/03/17 Thu 20:41 [No.187]