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  1. [30] 『井伊家史料 幕末風聞探索書 安政五年編』の安政五年八月 京都町奉行与力渡辺金三郎より長野主膳へ密勅降下、青蓮院宮・鷹司・三條等密議の件探索報告より、「薩州候御家来鵜澤信三」なる人物が出てきます。実は薩摩藩士 日下部伊三次の変名なのです。この人物の生涯は文化11年(1814年)、元薩摩藩士・海江田訥斎連の子として誕生。出生当時、父は脱藩して水戸藩にいたので常陸国多賀郡で生まれる。
    > 続き
    気になる人々 その1
    大ふへん物 2015/07/18 18:08
    1. [66] 金輪五郎(本名 志渡長治)諸説ある生年があり、20代後半から30代後半か。

      秋田は阿仁銀山町、真木沢鉱山の台所手代(労働者の指揮監督役)をしていた志渡家の次男として誕生。

      17〜18歳の頃、久保田の城下に出た後、渋江内膳家へ下男奉公しながら直真影流を学ぶ。
      得意手を片手横面打ちだったとした。

      身長5尺前後の短躯ながら五人力  ・・・・ >> 続き
      気になる人々 金輪五郎
      杉さんぼく 2015/07/27 22:49
      1. [67] 相楽総三について触れたい。

        というのも、学者志士相楽総三が郷学校設立を熱望していたのは全く知られていないからです。
        以下、森安彦国文学研究資料室教授の講演(1994/7/28)を参照に紹介しましょう。

        まず、ここに荏原郡(東京世田谷)に、郷学校を作った髪結い渡世の常次郎なる人物がいます。
        明治維新政府は、財源のないままに各村で寺子屋と  ・・・・ >> 続き
        気になる人々 髪結い渡世常次郎と相楽総三
        杉さんぼく 2015/07/27 22:59
        1. [72] 見廻組以外の大野應之助門人余話

          金輪五郎友行(本名 志渡長次郎1833〜1868/12/29)
          秋田藩下の阿仁銀山(阿仁合町)、真木沢鉱山の台所手代(労働者の指揮監督役)志渡平四郎の次男として誕生。
          志度氏の先が金輪で、久保田藩佐竹3人扶持の苗字帯刀を許された家柄である。

          17〜18歳の頃、久保田の城下に出た後  ・・・・ >> 続き
          気になる人々 大野応之助門下
          杉さんぼく 2015/07/28 10:54
          1. [73] 京都の人見勝太郎と共に遊撃隊として闘った隻腕の粋な幕臣剣客、伊庭八郎に触れます。

            心形刀流伊庭八郎秀穎、幕臣、元治元年徳川家茂上洛に随行、遊撃隊として鳥羽伏見の戦いで負傷し、東帰後、西軍の後方を衝く箱根の戦いで左腕を負傷、左手首を失いました。
            しかし、その身体で敵を追い払って今に名を留めその後、箱館に至り歩兵頭並として善戦しました。

            確かに、池  ・・・・ >> 続き
            気になる人々 伊庭八郎
            杉さんぼく 2015/07/28 20:49
          2. [77] 金戒光明寺の墓地に
            大野應之助の墓があり、

            一昨年探しましたね
            墓石が横たわってました

            ちなみに、河上玄斎ではなく、河上彦斎(げんさい)ですね〜
            Re: 気になる人々 大野応之助門下
            京都歴史研究会代表 2015/07/29 20:27
        2. [197] 赤報隊相楽総三に絡んだ話。

          赤報隊池田勝馬こと黒駒の勝蔵は、土佐の那須信吾と繋がりのあるのはあまり知られていないでしょう。

          それだけにまた、東海の侠客水野弥太郎や黒駒勝蔵は赤報隊の致命傷でした。

          早い時期に長谷川伸氏は、「相楽総三とその同志」以前に「伝法さむらい」を著していますが、主人公に桜井常五郎を配し、農民あがりのヤクザな赤報隊  ・・・・ >> 続き
          気になる人々 幕末博徒と相楽総三
          杉さんぼく 2015/11/14 20:23
          1. [198] そう言えば、国定の長岡忠次の忘れ形見・大谷千乗(後に刑部国次を名乗る)も赤報隊に関わっていたとかどうとか…。(小説に、山田風太郎著「旅人国定龍次」「魔群の通過」がある)

            話し変わって、岩倉卿絡みの尾張藩青松葉事件についてです。
            当時、岩倉卿の動きとはかけはなれていた位置のが三条卿。

            この方はあまりポリシーのないお公家さんで、その分早くから行動力  ・・・・ >> 続き
            気になる人々 青松葉事件と相楽総三と西郷吉之助
            杉さんぼく 2015/11/14 20:32
          2. [259] 吉井良隆宮司から、第54代良昭宮司の代になってる西宮神社吉井家の話をします。

            その傍系の吉井宮司と言えばやはり貞俊権宮司が、伊勢本街道で馴染みが深いんですが、なぜか、「良」がつくのにこの権宮司さんは貞俊と言うお名前で、残念ながら故人になられてしまいました。

            それにしても、吉井一族は皆さん健筆家です。

            西宮史話の良隆宮司以前なら、14  ・・・・ >> 続き
            気になる人々 赤報隊・飯田武郷と西宮
            杉さんぼく 2016/04/09 09:01
      2. [147] 山国隊、藤野齋と千葉重太郎について触れます。

        それは明治元年11月に始まります。

        山国隊が因州藩の属農兵隊という事で、因幡藩江戸屋敷納戸役(金銀.衣服.調度出納)千葉重太郎が、藤野齋を因州裏判所(藩財政)に周旋した間柄により、帰郷に際し、それまでの立て替え金373両の返却督促に千葉重太郎が来ました。

        今、帰郷費用を裏判所に借財申請し  ・・・・ >> 続き
        気になる人々 藤野齋と千葉重太郎
        杉さんぼく 2015/10/06 06:48
        1. [148] やがて翌7日になって、ようやく山田から、裏判所と千葉より500両を借り出す事に成功、借金清算して東京を後に出来ました。
          こうした経緯に藤野の心に残ったのは、山田のような藩官僚への不信と憤懣のなにものでもありません。
          考えれば、龍馬と土佐藩京都官僚にも似たような何らの関係があったのでは、と勘ぐれます。
          かくして出征者35人中、戦死4人病死2人他負傷の山国隊、明治元年11  ・・・・ >> 続き
          気になる人々 続・藤野齋と千葉重太郎
          杉さんぼく 2015/10/06 06:51
          1. [149] タイトルが 藤野斎でなく
            藤木斎になってます。
            誤植の訂正の仕方を知りたいですね〜。
            Re: 気になる人々 続・藤野齋と千葉重太郎
            京都歴史研究会代表 2015/10/08 16:12
            1. [160] タイトル藤木斎になって、すんまへん。

              単なる打ち間違えで深謝で…。
              誤植訂正の打ち方分かりません〜。
              Re^2: 気になる人々 続・藤野齋と千葉重太郎
              杉さんぼく 2015/10/15 20:02
    2. [74] 続いて、以下も河田左久馬関連。
      昭和43年の名著「山国隊」(仲村研著-学生社)によれば、昭和40年代の河田左久馬景與相続人は、河田須賀江さん(80歳)だったとあります。
      当時、鎌倉の鳥取藩主池田家子孫の池田家に、なぜかその家臣の子孫も同居されていた、と言うわけです。

      河田左久馬景與には、妻喜久子さんとの間に一男四女がいて、唯一の長男頼功は明治30年急逝、そ  ・・・・ >> 続き
      気になる人々 河田左久馬
      杉さんぼく 2015/07/28 20:58
      1. [75] 続いて…の項より、こちらが先でした。

        鳥取因幡の内紛事件、本圀寺事件について〜。

        文久3年8.18政変前夜の17日に本圀寺にて勤王派河田左久馬等によって、黒部側用人を襲い、別働隊は佐幕派早川、加藤他を襲撃した事件です。

        河田左久馬と言えば、龍馬つながりがありますね。

        なぜか小説的なエゾ地開拓や鬱陵島新国開拓に  ・・・・ >> 続き
        Re: 気になる人々 河田左久馬本圀寺事件
        杉さんぼく 2015/07/28 22:52
        1. [177] 天朝だ、大樹公方さまだ、と喧しいあの時代はどこの藩、家中でも、勤王佐幕の内部抗争はありました。

          しかし、水戸人は何人の人が尊王攘夷の名で、外に向かわず、内に闘いの内乱抗争で亡くなったのでしょう。

          福井は敦賀の地、1000人余りが水戸から長行したその果ての、天狗党の悲劇353人の墳墓、敦賀湾近くの松原神社には411柱が祀られていて、今も子孫探しをしている研  ・・・・ >> 続き
          気になる人々 敦賀天狗党惨殺
          杉さんぼく 2015/10/28 03:27
          1. [178] 長行の果てに頼る慶喜公は、元冶元年12月17日に禁裏総督として間近の近江海津まで出張っていました。
            天狗党を討つべし、と手柄に逸るその弟昭徳(昭武)も来て布陣します。

            結局、事が済むや慶喜公は「この際の処置決まり安心に候」と書いたりもしていますから、自分の立場にほっとしたのでしょう。

            或いは皮肉な事に、以下のような逸話もあります。
            <  ・・・・ >> 続き
            気になる人々 続・敦賀天狗党惨殺
            杉さんぼく 2015/10/28 03:34
            1. [179] 天狗党死の長行路(出発時は1000余人が800数余人になり、この中の500人余りは水戸郷校で学んだ若者農民たちだった)で、揖斐根尾川へ向かう途路に、西郷吉之助使者として中村半次郎が来て、本道を西に進んで慶喜公に降伏すれば…と勧めているのは、西郷の意見か薩摩の意見かは計りかねる点は否めず、寺田屋事件の前例があるだけに、この点に疑問も残ります。

              大久保同様に、前述したように西郷も  ・・・・ >> 続き
              気になる人々 続々・敦賀天狗党惨殺
              杉さんぼく 2015/10/28 03:37
              1. [180] 敦賀市水戸烈士遺徳顕彰会は、小学生向け解説の小冊子まで無料で作られて顕彰していますね。

                ましてや、敦賀と水戸はなんのゆかりもなしなのに。

                観光ばかりに先行する京都の殿様観光では、ここまではしません。

                もう少し、他県人の供養顕彰に力を注いで欲しいと思わざるを得ません。

                この例では、東吉野の天忠(誅)組遺跡、墳墓も  ・・・・ >> 続き
                気になる人々 続々々・敦賀天狗党惨殺
                杉さんぼく 2015/10/28 03:48
                1. [181] 武田耕雲齋辞世

                  討つもはた
                  討たるるもはた 哀れなり
                  同じ日本の 乱れと思へば

                  咲く梅の
                  花ははかなく 散るとても
                  馨りは君が 袖にうつらん

                  という武田耕雲齋の和歌にちなんだのか、水戸から運ばれた水戸紅梅が多数植樹されています。

                  武田耕雲齋の孫に当たる武田金次郎、まだ年少  ・・・・ >> 続き
                  気になる人々 続々々々・敦賀天狗党惨殺
                  杉さんぼく 2015/10/28 03:52
      2. [172] 田中河内介父子に対し、科人‐とがにんと云う烙印を押された―、との認識で言われる方がいます。

        しかしながら、これは正しくなく、ましてや科人(咎人)ではないのではありません。

        柿本人麻呂のいろは歌ではありませんが、やはりは罪科=とがなくて死すと思われます。

        同じ例に、長州人による中山忠光卿惨殺事件があります。

        中山  ・・・・ >> 続き
        気になる人々 田中河内介父子
        杉さんぼく 2015/10/21 13:04
    3. [128] 小栗忠順について〜
      幕末維新の短い期間に任免を70数回繰り返した小栗の、後世に残した事業に有名な横須賀製鉄所(横須賀造船所)があります。
      この製鉄所建設に関して、小栗は慶応元年、推進派の外国奉行柴田日向守を仏に派遣し、資器材、要員、生糸販売等の専売機関となるコンパニー創設の方法協議に着手、柴田報告をもとに「交易商社」コンパニーの建設書を幕府に提出しました。
      順調にいけ  ・・・・ >> 続き
      気になる人々 小栗忠順
      杉さんぼく 2015/09/11 10:11
      1. [189] 服部半蔵、いうまでもなく武将忍者であるのは、誰しもに知られています。

        その墓が東京の四谷西念寺にあり、墓維持に窮した時の事。

        そこで勝海舟が相談を受けた(明治16年月26日)関連の記述が、海舟日記にあります。

        …梶田(政光)、服部半蔵へ三円遣わす…(3月14日)

        海舟と服部半蔵、どう繋がるんでしょうね。
        > 続き
        気になる人々 勝海舟忍者群屋敷に住む
        杉さんぼく 2015/11/10 20:08
        1. [190] 龍馬の本家になる才谷屋文書(六代直益順水日記)の記述に、日下茂兵衛と言う土佐のネズミ小僧なる、享保の頃の怪盗の事が記されています。

          本当にいたのだろうか、と伝説説、実在説の論議がある中、才谷屋文書に実在説の記載があったのです。

          享保六年九月四日夜、蓮池町牢舎の罪人日下茂兵衛といふもの、相牢の者の銀を盗み取り、牢をぬけ欠け落ち仕る…。

          > 続き
          気になる人々 土佐の忍び小僧・日下茂兵衛
          杉さんぼく 2015/11/10 20:26
    4. [129] 本名和栗吉次郎(1822[1836?]〜1894)、墓に刻まれたように後年名乗る井汲=いくみ姓は、剣を学んだ師の備中津山藩士井汲唯一に由来します。

      彼は元治元年12月18日の「倉敷-下津井屋事件」(下津井屋が米の買い占めをする不正を、大橋と云う町役人が代官所に訴えますが、まるで時代劇のように、その代官は下津井屋と結託していて、身柄を釈放し、逆に下津井屋が、大橋は不逞浪士と交流  ・・・・ >> 続き
      気になる人々 新選組隊士-井汲恭平
      杉さんぼく 2015/09/11 10:14
      1. [161] 人斬り以蔵、誰が言い出したか。

        幕末維新での同時代資料には、人斬り半次郎とか、人斬り新兵衛、そしての人斬り以蔵…、結局は、維新後に語られ創られた呼称でしょう。

        そんなひとりに明治を迎えた人斬りに河上彦齋がいます。
        人斬り彦齋?、俺は人斬りか、人斬りと言われるほど人を斬った事などないぞ、と言ったとか。
        この例は、半次郎、桐野利秋も同様で  ・・・・ >> 続き
        気になる人々 岡田以蔵
        杉さんぼく 2015/10/15 20:40
        1. [162] 大塩事件に触れます。

          天保8年2月19日(1837年3月25日土)の朝、自らの屋敷に火を放って、大坂町奉行与力大塩平八郎中齋が救民救済の為に決起しました。
          大塩平八郎の乱として世に伝わる、明治維新より30年前の事です。

          幕末維新を語る時、その始まりをこの@大塩平八郎の事件と見るか、或いはAペリー来航と見るかの評価が分かれます。
          > 続き
          気になる人々 大塩平八郎
          杉さんぼく 2015/10/16 04:33
          1. [163] その一例に清河八郎の話をします。
            この清河八郎が安政2年、母親他を伴って京都を始め伊勢や金毘羅、岩国等を廻った日記「西遊草」を残しています。
            むろん大坂にも泊っています。
            しかし、清河八郎なら大塩平八郎事件に興味持ちそうと思うのに、各地では旧跡に興味を示しながらも大塩事件遺跡には全く触れていません。
            「心斎橋通は大坂第一にぎはひの町にて、夜店のにぎはひをびた  ・・・・ >> 続き
            気になる人々 続-大塩平八郎〜清河八郎
            杉さんぼく 2015/10/16 04:46
            1. [164] 幕末期に活躍して人気を博した歌舞伎俳優(ワザヒト)に、三代目中村仲蔵(1809〜1886)が書き残した一代記・手前味噌(日本演劇文献研究会編1944/青蛙書房1969復刊)があります。

              それによるとこの仲蔵さん、景気が悪い上に大塩事件でよりいっそう景気が悪くなった大坂の町に、活気と景気を盛り上げようと、役者たちによる盆踊りを挙行して成功した、と書いています。
              > 続き
              気になる人々 続-大塩平八郎〜三代目中村仲蔵
              杉さんぼく 2015/10/16 04:49
              1. [165] 天明5年(1834)、大坂の医者らしい穿鑿好きの好事家が書いた「浮き世の有り様」全13巻(日本庶民生活史料集成J巻/1970/三一書房)の中で、大塩平八郎の乱に関しては、天保8年雑記6〜8巻に記載があり、かなりの記述が割かれています。

                今でいえば、大した取材力の筆走りです。

                第6巻には瓦版の写しがかなりの枚数を費やしていますから、瓦版はずいぶん出たのかも  ・・・・ >> 続き
                気になる人々 続-大塩平八郎〜浮き世の有り様
                杉さんぼく 2015/10/16 04:55
        2. [205] 高知の北東は薊野真宗寺山にある岡田家墓地に、岡田宜振(タカノブ)とあるのが以蔵の墓です。(あの有名な沢田マンションの横からも登れた)

          仲人まがいの世話好き好人物だった、とされる父義平の代に高知に出てきたようで、その以前は岡田家の墓もある神通寺村(香美市)に住んでいました。(未見)
          いわゆる、黒岩某から郷士株を買った譲受(ゆずりうけ)郷士でした。

          > 続き
          気になる人々 岡田宜振(以蔵の弟)
          杉さんぼく 2015/12/01 08:36

[ 編集 ][ 返信 ]気になる人々 その1

大ふへん物

『井伊家史料 幕末風聞探索書 安政五年編』の安政五年八月 京都町奉行与力渡辺金三郎より長野主膳へ密勅降下、青蓮院宮・鷹司・三條等密議の件探索報告より、「薩州候御家来鵜澤信三」なる人物が出てきます。実は薩摩藩士 日下部伊三次の変名なのです。この人物の生涯は文化11年(1814年)、元薩摩藩士・海江田訥斎連の子として誕生。出生当時、父は脱藩して水戸藩にいたので常陸国多賀郡で生まれる。

はじめ水戸藩主・徳川斉昭に仕える。天保10年(1839年)、父の跡を継いで太田学館益習館の幹事を務めた。弘化元年(1845年)、江戸幕府より斉昭が謹慎を受けた際にはその赦免運動に尽力している。

安政2年(1855年)、島津斉彬に目をかけられて薩摩藩に復帰し、江戸の藩邸に入る。安政5年(1858年)、将軍継嗣問題や条約勅許問題が起こると京都に赴き、水戸・薩摩両藩に繋がりを持つ事から攘夷派の志士の中心として京都で活動。水戸藩士・鵜飼吉左衛門らと公家の三条実万に接触し、同年に水戸藩へ密勅が下ると、実万よりその写しを受け取り、木曽路を通って江戸の水戸藩邸へ届けた(戊午の密勅)。しかしこのことが幕府による安政の大獄を誘発し、子の裕之進とともに捕縛される。江戸の伝馬町の獄に拘留され、凄惨な拷問を受けた末、安政5年(1859年)に獄中で病死した。墓所は青山霊園。家督は薩摩藩士・有村俊斎が海江田信義と改名して継承した。

明治24年(1891年)に贈正四位。

実に謎に包まれた、不思議な人物だと思います。

2015/07/18 Sat 18:08 [No.30]

[ 編集 ][ 返信 ]気になる人々 金輪五郎

杉さんぼく

金輪五郎(本名 志渡長治)諸説ある生年があり、20代後半から30代後半か。

秋田は阿仁銀山町、真木沢鉱山の台所手代(労働者の指揮監督役)をしていた志渡家の次男として誕生。

17〜18歳の頃、久保田の城下に出た後、渋江内膳家へ下男奉公しながら直真影流を学ぶ。
得意手を片手横面打ちだったとした。

身長5尺前後の短躯ながら五人力の肩幅がっしり型でそのいかつきは、手足を付けた衝立の様な体格だった。

年月不明ながら、そんな金輪の3尺5寸の朱鞘を越しにあびて闊歩する姿を人は、「赤鞘団九郎」と渾名した。

文久3年国抜け出奔して江戸を目指した。
おそらくこの後、赤報隊小島将満こと相楽総三たちと江戸辺りで出会い、東奔西走していたのかも知れない。

慶応2年、京都の所司代師範・大野応之助から西岡是心流の免許皆伝を受けている。

この大野応之助義章の門人には所司代のみならず、見廻組に多く、龍馬惨殺事件に名が挙がる渡邊篤、桂早之助などいる。

金輪五郎がなぜ大野応之助門下に名を連ね、免許皆伝までに至ったか。

ただ単に剣術だけに邁進していたのか、それとも、情報を得るために所司代・見廻組門下生の多い西岡是心流に学んだか、些かの疑念を感じなくもない。

その同門が龍馬惨殺に関与したか否かの慶応3年には、江戸にいて御用盗騒ぎの任務を負う薩邸浪士隊に入り、翌4年に相楽総三の赤報隊に身を置いた。

やがて、相楽総三は西郷や岩倉の命を帯びて官軍嚮導先鋒赤報隊として、中山道を進発。信州下諏訪まで進んだ所で、偽官軍の断命を下される。

しかし、金輪五郎は京都にいた為に、相楽総三たち赤報隊幹部が斬首された下諏訪の惨劇には遭遇しなかった。

赤報隊壊滅後、金輪五郎は、とにかく秋田に戻る。
しかし、血が騒ぐのかほどなく再び東征して来た官軍の戦列に身を投じて、東北各地を転戦している。

その最後、明治2年、攘夷志士として京都で大村益次郎暗殺に加わり、同年12月刑死した。

結局は、彷徨える西岡是心流の、それだけの尊王攘夷志士だったのかもか知れない。

2015/07/27 Mon 22:49 [No.66]

[ 編集 ][ 返信 ]気になる人々 髪結い渡世常次郎と相楽総三

杉さんぼく

相楽総三について触れたい。

というのも、学者志士相楽総三が郷学校設立を熱望していたのは全く知られていないからです。
以下、森安彦国文学研究資料室教授の講演(1994/7/28)を参照に紹介しましょう。

まず、ここに荏原郡(東京世田谷)に、郷学校を作った髪結い渡世の常次郎なる人物がいます。
明治維新政府は、財源のないままに各村で寺子屋とは違う学校を作らせようとしする中、郷とは村、村で学校を作らせる政策に出たのです。
そこに常次郎、独学で学び、世の中どうなってるんだ、と当時齢50歳にして子供三人を伴い、明治3年に帰郷するまでの時代を倒幕運動に奔走し、赤報隊に息子を引き連れ参加します。
この偽官軍事件での追放を受けを、斎藤寛斉と称した彼は、学校作りに呼び掛けます。

それは何故か。
相楽の意思であったと断じています。

建言書(明治18年)
謹而奉建言候
「……相楽総三ナル者拙宅江参リ面会ス、水魚交盟ヲ給ヒ……就而同氏存命ノ節…輩ニ替リ国ニ学校蒼立依頼サルル、同氏之心底感絶ス……」
知られざる相楽総三の逸話で、改めて認識を新たにした思いです。

2015/07/27 Mon 22:59 [No.67]

[ 編集 ][ 返信 ]気になる人々 大野応之助門下

杉さんぼく

見廻組以外の大野應之助門人余話

金輪五郎友行(本名 志渡長次郎1833〜1868/12/29)
秋田藩下の阿仁銀山(阿仁合町)、真木沢鉱山の台所手代(労働者の指揮監督役)志渡平四郎の次男として誕生。
志度氏の先が金輪で、久保田藩佐竹3人扶持の苗字帯刀を許された家柄である。

17〜18歳の頃、久保田の城下に出た後、20歳で家老となり、吉田松陰を迎えて天下を論じたと云う渋江内膳厚光に下男奉公して臣となった。
だが、臣として長くはいなく、この頃だろう、辻辰之助の親交を得、勤王運動に奔り江戸に出ている。
剣は直心影流で、得意手は片手横面打ちと云う。(河上玄齋も片手斬りだったようだ)

身長5尺前後の短躯ながら、3尺五寸の刀を帯び五人力の肩幅がっしり型のそのいかつきは、手足を付けた衝立の様な体格だった、と伝わる。

年月不明ながら、そんな金輪の3尺5寸の朱鞘を越しにあびて闊歩する姿を人は、「赤鞘団九郎」と渾名した。

文久3年脱藩。
いつ頃か、華夷弁論を著した赤報隊小島将満こと相楽総三たちと江戸辺りで恐らく出会い、東奔西走していたのだろうが、後、慶応2年、京都の所司代師範・大野應之助から西岡是心流の免許皆伝を受けている。

薩摩藩に属して鳥羽伏見を戦い、江戸薩摩浪士隊を経て、翌4年に相楽総三の赤報隊に身を置き、相楽と美濃大垣の総督府に同行、戦功あり、と烏帽子、直垂を貰ってもいる。

しかし、下諏訪で相楽総三たち赤報隊幹部が斬首された惨劇を聞き、赤報隊壊滅後は薩摩藩を離れて、とにかく秋田藩士小野寺主水と共に秋田藩に帰属した。
やがて、沢宣嘉卿を迎えた同勢に加わり、血が騒ぐのか、ほどなく戦列に身を投じ、東北各地を転戦して功を成して負傷もしている。

そして、沢宣嘉卿に従い、京都に再び帰った。

維新の残滓とも言える金輪のそのエネルギーは、やがて、明治2年の大村益次郎暗殺に加担する事の燃焼となるが、危うい暗殺現場から逃れて、越前敦賀に潜んでいるのを発見され、同年12月、36歳で刑死した。
「大君と皇国(みくに)の為に死ぬる身は 大和魂の道をまよはじ」
「身は野辺の草葉と共に朽ちるとも 天の川原に名をもさがさむ」との遺詠が残る。
(参考:相楽総三とその同志【長谷川伸】1943)

2015/07/28 Tue 10:54 [No.72]

[ 編集 ][ 返信 ]気になる人々 伊庭八郎

杉さんぼく

京都の人見勝太郎と共に遊撃隊として闘った隻腕の粋な幕臣剣客、伊庭八郎に触れます。

心形刀流伊庭八郎秀穎、幕臣、元治元年徳川家茂上洛に随行、遊撃隊として鳥羽伏見の戦いで負傷し、東帰後、西軍の後方を衝く箱根の戦いで左腕を負傷、左手首を失いました。
しかし、その身体で敵を追い払って今に名を留めその後、箱館に至り歩兵頭並として善戦しました。

確かに、池波正太郎氏の小説「幕末遊撃隊」の効用もさることながら、こうした生き様の反面で、遊女小稲を愛した伊庭八郎の人間的な粋さは、春日左衛門と共に玄人好みな女性にはずいぶん人気がありますね。

さてもその死。

土方歳三死す明治2年5月11日の翌日、箱館五稜郭で土方の後を追うようにして、12日土方より8歳年下の伊庭八郎は惜しくも27歳で死しました。

その前月19日の激戦で、肩と腹に銃創を受けての痛みに耐えての戦闘死でした。
新撰組隊士田村銀之助の語り残しでは、恭順に先立ってモルヒネを飲んで没した、と伝わります。
その他、伊庭に従っていた荒井鎌吉が談話資料を残しています。
ついでながら、以下真偽不明ながらの一文。

「八郎君の墓は函館五稜郭土方歳三君の墓の傍にあり」(旧幕府雑誌)

五月の時期になると、歳三忌(5月11日)や瑞山忌(5月11日)に続くのが、伊庭八郎秀穎の秀穎忌(5月12日)です。
墓は、関東大震災前の台東区から移転した中野区沼袋の貞源寺にあります。
「伊庭八郎征西日記」(維新日来纂輯)「伊庭氏世伝」「講武所」(東京市史・外篇)

余談ながら、心形刀流、その名跡を継ぎながら明治36年に没するのが実弟想太郎で、兄に劣らない心形刀流の剣客で温厚珍重な人物でした。
その剣技が予想だにしない、日本初の国際弁護士政治家・星亨刺殺事件(明治34年6月21日)を起こしたのは、八郎死した年から32年後の事でした。

2015/07/28 Tue 20:49 [No.73]

[ 編集 ][ 返信 ]Re: 気になる人々 大野応之助門下

京都歴史研究会代表

金戒光明寺の墓地に
大野應之助の墓があり、

一昨年探しましたね
墓石が横たわってました

ちなみに、河上玄斎ではなく、河上彦斎(げんさい)ですね〜

2015/07/29 Wed 20:27 [No.77]

[ 編集 ][ 返信 ]気になる人々 幕末博徒と相楽総三

杉さんぼく

赤報隊相楽総三に絡んだ話。

赤報隊池田勝馬こと黒駒の勝蔵は、土佐の那須信吾と繋がりのあるのはあまり知られていないでしょう。

それだけにまた、東海の侠客水野弥太郎や黒駒勝蔵は赤報隊の致命傷でした。

早い時期に長谷川伸氏は、「相楽総三とその同志」以前に「伝法さむらい」を著していますが、主人公に桜井常五郎を配し、農民あがりのヤクザな赤報隊を描いています。

ヤクザ小説ならお手のものだった長谷川伸氏にしては、これは不満だったのでしょう、後にこの作品は反古にしています。

これはダメだ、とそこから改めての名作「相楽総三とその同志」が生まれました。

確かに赤報隊の無頼な隊士の参加は否定出来ません

不遇の貧困時代、岩倉家では賭博開帳の場にもなっていました。
岩倉卿はそんな彼らをも見ていたのでしょう、赤報隊士の彼らを見捨て、黒駒勝蔵や水野弥太郎の処刑をもいといませんでした。

では、なぜ清水の次郎長はそうはならなかったのでしょう。

旧悪なら次郎長の方に多々ありますから勝てば官軍なのでしょう。

海舟と西郷の江戸会見のした準備に労の功績があった山岡鉄舟に、やはり関係するのかも判りません。
何しろ鉄舟は次郎長の知恵袋なのですから。

2015/11/14 Sat 20:23 [No.197]

[ 編集 ][ 返信 ]気になる人々 青松葉事件と相楽総三と西郷吉之助

杉さんぼく

そう言えば、国定の長岡忠次の忘れ形見・大谷千乗(後に刑部国次を名乗る)も赤報隊に関わっていたとかどうとか…。(小説に、山田風太郎著「旅人国定龍次」「魔群の通過」がある)

話し変わって、岩倉卿絡みの尾張藩青松葉事件についてです。
当時、岩倉卿の動きとはかけはなれていた位置のが三条卿。

この方はあまりポリシーのないお公家さんで、その分早くから行動力ある岩倉卿がフィクサーとして、人の役割を(利用)上手く考える人物として役割を担わざるを得ませんでした。

だから岩倉、大久保ラインはやはり政治家そのものです。

本来は、成彬のもとで隠密方として動いた西郷が、その役割だったかも知れませんが、入水事件以来(替え玉説もある)西郷は隠密性がなりを潜め、利用したりされたりと、成彬時代にはない働きと行動になります。

そんな西郷を知る大久保に、岩倉が早くから運動をして、敬天愛人を旨とする西郷を利用しない手はありません。

青松葉事件と赤報隊事件はその結果そのものです。

青松葉事件を描いた小説なら、城山三郎氏の「冬の派閥」(1982新潮社)がお薦めで、

「…現代における組織と人間の在りようへの問いかけ」(同書あとがき)

をする事で、指導者者の在り方を問う歴史小説です。

ともあれ、敬天愛人を旨とした西郷が、自分の役割にどうだったかは全く判りませんし、掴めません。

大きく叩くと大きく響く、小さく叩くと小さく響く、と龍馬が評したように、そこが西郷の西郷たる由縁でしょう。

正直、ホントによく隠密型の分からない人物です。

2015/11/14 Sat 20:32 [No.198]

[ 編集 ][ 返信 ]気になる人々 赤報隊・飯田武郷と西宮

杉さんぼく

吉井良隆宮司から、第54代良昭宮司の代になってる西宮神社吉井家の話をします。

その傍系の吉井宮司と言えばやはり貞俊権宮司が、伊勢本街道で馴染みが深いんですが、なぜか、「良」がつくのにこの権宮司さんは貞俊と言うお名前で、残念ながら故人になられてしまいました。

それにしても、吉井一族は皆さん健筆家です。

西宮史話の良隆宮司以前なら、14歳から国書神典を父良幹に受けた影響からか、その才覚を生かして、幾多の著述を残した吉井良秀に尽きます。
「老父の御神幸に関する記事は後人にとっては誠に有益」と、息、良尚宮司が記すように、その遺稿「樟園余影」(昭和15年和装本-良尚宮司編)がなかなか良い。

部屋で籠もって本探しをしていたら、偶然、手元に現れたこの良秀宮司、年譜に「37歳(明治22年)、信州の国学者飯田武郷の門について、皇典・歌文を研究し始めた」とあります。

云わずと知れた、飯田武郷は信州下諏訪で斬首された赤報隊相楽総三の首を奪って埋めた、とされる平田国学の雄です。

華夷弁論を著していた相楽総三と飯田武郷は、国学を通じての江戸での知り合いでした。

平田篤胤の死後門人のそんな武郷が、ほどなく幕末維新の政治運動が昂揚しつつあった慶応2年、京都に上がります。

しかし、何と、後に相楽総三梟首を画策した黒幕との噂があった、岩倉具視の所に落ち着くんです。

やがて、信州に帰郷した時に、下諏訪での相楽総三の偽官軍事件処刑に出会い、その首を神道に則って埋めてやりました。

皮肉な話しながらです。

西宮に来た飯田武郷を迎えた吉井良秀宮司と、何を語ったんでしょう。

皮肉と言えば、赤報隊と西宮…。
う〜ん、重い事件でしたね。
意外な繋がりがあるんですね。
だから、歴史は面白い。

お薦めです。

2016/04/09 Sat 09:01 [No.259]

[ 編集 ][ 返信 ]気になる人々 藤野齋と千葉重太郎

杉さんぼく

山国隊、藤野齋と千葉重太郎について触れます。

それは明治元年11月に始まります。

山国隊が因州藩の属農兵隊という事で、因幡藩江戸屋敷納戸役(金銀.衣服.調度出納)千葉重太郎が、藤野齋を因州裏判所(藩財政)に周旋した間柄により、帰郷に際し、それまでの立て替え金373両の返却督促に千葉重太郎が来ました。

今、帰郷費用を裏判所に借財申請しているとの藤野の弁に、半額でも返金願いたいと千葉が迫ります。

困った藤野は、11月1日河田左久馬に隊費陳情助力を乞いますが、色よい返事なく、11月5日の東京出立まで藤野は金策に奔走する訳です。

隊員不満も募り、河田名義の裏判所借受金50両で隊員をなだめながら、当時の上京していた因幡藩京都留守居役・山田宗平に、書面で500両の借財調達依頼をしました。

とにかく山田宅で待つと、そこに千葉がやって来ました。

そして言うには、裏判所から500両を拙者名義で借り、373両は拙者に返金して貰って、残127両から河田名義の50両を返却すればどうか?と持ちかけました。
ある意味、体のいい千葉の徴収の仕方で、千葉はそこまで、因州藩に関わり合っていたのです。

だからか先年、妹佐那が因州鳥取藩士と婚姻していたという事実が判明しました。

こうした中で、山国隊は11月5日に東京を出立します。
藤野はしかし借財問題で同行出来ません。

その夜、千葉が藤野を訪ねて来ました。
藤野はしかし、再借財、返金の金銭については言い出せず、憤懣は因幡藩京都留守居役山田宗平に向かいます。

翌日、不誠実だからだと、6日深川で宴席に耽る山田を訪ねて藤野は激しく詰問します。

続く

2015/10/06 Tue 06:48 [No.147]

[ 編集 ][ 返信 ]気になる人々 続・藤野齋と千葉重太郎

杉さんぼく

やがて翌7日になって、ようやく山田から、裏判所と千葉より500両を借り出す事に成功、借金清算して東京を後に出来ました。
こうした経緯に藤野の心に残ったのは、山田のような藩官僚への不信と憤懣のなにものでもありません。
考えれば、龍馬と土佐藩京都官僚にも似たような何らの関係があったのでは、と勘ぐれます。
かくして出征者35人中、戦死4人病死2人他負傷の山国隊、明治元年11月25日京都に凱旋しました。
明治5年6月25日付けで、藤野が出した「自弁取調書」には、「255両出兵中因藩御裏判所ニテ借用金額996両ヲ正金ヲ以、千葉重太郎及山田宗平殿へ、帰後金策二付…」
「996両鳥取藩裏判所より軍隊へ金度々借リ入、巳年2月繰り替金ヲ以返納ス」
との記載が見えます。
996両のうちの千葉の500両は、どうにかかき集めて元利と521両余りを、帰郷後直ちに12月の12日に発送返金しています。

明治2年1月21日には、千葉に謝礼として上羽二重一疋を贈っていますから、藤野って人は律義で偉いですねえ。

上記の自弁取調書いわく、軍費7800両のうち4400両を返済し、3400両が借財として残ったそうで、杣山売却等で返済したりした後、明治8年6年終身禄返還により、返納されたようです。

参考
山国隊史(永井登1906)/丹波山国隊史(水口民次郎.山国護国神社1966)/征東日記[山国農兵隊日記](藤野齋-仲村研・宇佐美英機編1985)/山国隊(仲村研1968)

2015/10/06 Tue 06:51 [No.148]

[ 編集 ][ 返信 ]Re: 気になる人々 続・藤野齋と千葉重太郎

京都歴史研究会代表

タイトルが 藤野斎でなく
藤木斎になってます。
誤植の訂正の仕方を知りたいですね〜。

2015/10/08 Thu 16:12 [No.149]

[ 編集 ][ 返信 ]Re^2: 気になる人々 続・藤野齋と千葉重太郎

杉さんぼく

タイトル藤木斎になって、すんまへん。

単なる打ち間違えで深謝で…。
誤植訂正の打ち方分かりません〜。

2015/10/15 Thu 20:02 [No.160]

[ 編集 ][ 返信 ]気になる人々 河田左久馬

杉さんぼく

続いて、以下も河田左久馬関連。
昭和43年の名著「山国隊」(仲村研著-学生社)によれば、昭和40年代の河田左久馬景與相続人は、河田須賀江さん(80歳)だったとあります。
当時、鎌倉の鳥取藩主池田家子孫の池田家に、なぜかその家臣の子孫も同居されていた、と言うわけです。

河田左久馬景與には、妻喜久子さんとの間に一男四女がいて、唯一の長男頼功は明治30年急逝、その友人穂波喜久之助が河田家に養子に入って景延と改名して跡を継ぎました。

この景延と結婚するのが須賀江さんで、佐久馬実弟精之丞の子景尚の長女になります。

その生家河田景尚邸は、京都一条新町にあり、時代祭に参列するに先立ち、この河田景尚邸に立ち寄った、とかで、左久馬関係資料は東京大塚の従弟佐々木秋生さん宅にある、と話しておられます。

佐々木秋生さんの父親の名は佐々木仙介、その父親は佐々木男也、奇兵隊南園隊々長の長州人でした。
従って、みささん(景尚の妻)仙介さん姉弟のそれぞれの子供が、須賀江さんと秋生さんとなり、尊王攘夷運動の長州、因州交流繋がる幕末維新の、姻戚関係の深さが感じられなくありません。

ちなみにこの佐々木家には、河田左久馬宛て龍馬書簡も確かあったと思います。

この佐々木家資料のその後は、確認されていません。

これらの史資料はどうなったか。

河田左久馬の墓が東京で守られるのか、京都の須賀江さんの実家縁戚、あるいは精之丞景福の子孫縁戚で守られるのか…。
(参考・仲村研-山国隊/学生社/中公文庫)

2015/07/28 Tue 20:58 [No.74]

[ 編集 ][ 返信 ]Re: 気になる人々 河田左久馬本圀寺事件

杉さんぼく

続いて…の項より、こちらが先でした。

鳥取因幡の内紛事件、本圀寺事件について〜。

文久3年8.18政変前夜の17日に本圀寺にて勤王派河田左久馬等によって、黒部側用人を襲い、別働隊は佐幕派早川、加藤他を襲撃した事件です。

河田左久馬と言えば、龍馬つながりがありますね。

なぜか小説的なエゾ地開拓や鬱陵島新国開拓には、竜馬には語らせない「竜馬ゆく」話です。

慶応3年3月14日龍馬書簡で、河田左久馬宛てに
「北門の方へ手初(始)致候…北行の船も借受申候。」として、北門開拓という話を「余程面白(き)事御耳に入れ候…」と、言い、北行の船が調達出来たと書いています。

この北門開拓(蝦夷)への想いは、その少し前の3月6日、長府藩士印藤肇にも触れていますが、主題は竹島行開拓に終始しています。

むろん今の竹島ではなく、現在の鬱陵島を差し、竹島は松島が正しいのですが、とはいえ、「小弟ハエゾに渡らんとせし頃より、新国を開き候ハ積年の思ひ一世の思ひ出ニ候…大州の船の来るをまち申べし…」と、並々ならぬ新国開拓の思いを龍馬は記しました。

そして河田にも伝えたのです。
ここで書いた大州の船とは、つまり後日沈没する事となったいろは丸に他なりません。

ちなみに、「いろは」とは以呂波、つまりABCを表し、オランダ語で言うアビソ(エー、ビー、シー)です。
龍馬が、アビソよさらば!?と言ったかどうか定かではないエピソードがあります。

この借り受けたいろは丸で、「彼竹島行の事ハ兼而御聞ニ…」と、北門とは別に、竹島、松島が身近い長州藩士情報によって、そうした新国開拓を考えていた、龍馬書簡が残る河田に伝えたのでしょう。

4月23日にそのいろは丸沈没後、4月28日に「然二太極丸は後藤庄(象)次郎引受くれ申候」を使って、再び「…蝦夷の一条は別して、兼而存込の事故、元より御同意仕候…」(林謙三あて11月11日付け書簡)の想いを語って、かなわぬままにその数日後惨殺されました。

いろは丸と太極丸の新国開拓のかなわぬ龍馬の夢、河田左久馬宛て書簡は、前述の一通のみしか残らないと云う消化不良はなんとも為しがたい。

佐々木秋生氏宅には龍馬書簡が存在しないのだろうか、と先月傍系子孫のS氏に聞いたら、…かも知れないとかで、代わりに河田左久馬景與実弟精之丞景福あて海舟書簡(未公開未解読)を持参されました。

2015/07/28 Tue 22:52 [No.75]

[ 編集 ][ 返信 ]気になる人々 敦賀天狗党惨殺

杉さんぼく

天朝だ、大樹公方さまだ、と喧しいあの時代はどこの藩、家中でも、勤王佐幕の内部抗争はありました。

しかし、水戸人は何人の人が尊王攘夷の名で、外に向かわず、内に闘いの内乱抗争で亡くなったのでしょう。

福井は敦賀の地、1000人余りが水戸から長行したその果ての、天狗党の悲劇353人の墳墓、敦賀湾近くの松原神社には411柱が祀られていて、今も子孫探しをしている研究会、顕彰会のいわゆる茨城県人は必ず来訪するとされる、いわゆる聖地です。

天狗党内乱の犠牲者は全体で1302人、農民716人、水戸家中士454人、郷士49人他で、水戸全体殉難者はゆうに3千数百人以上に登ります。

時に慶応元年、というより現地墳墓、松原神社での解説文では、4月7日(1865/5/1)慶応元年改元前の元冶2年2月4日(1865/3/1)、この日を皮きりに武田耕雲齋諸将24人斬首後、23日までに353人が断罪処刑されました。

通説での投降者は824人とされていますが、2月19日付け加賀藩軍監永原甚七郎の掲示では、元冶元年12月19日767人降伏とありますから、こちらが正しいのでしょう。

2015/10/28 Wed 03:27 [No.177]

[ 編集 ][ 返信 ]気になる人々 続・敦賀天狗党惨殺

杉さんぼく

長行の果てに頼る慶喜公は、元冶元年12月17日に禁裏総督として間近の近江海津まで出張っていました。
天狗党を討つべし、と手柄に逸るその弟昭徳(昭武)も来て布陣します。

結局、事が済むや慶喜公は「この際の処置決まり安心に候」と書いたりもしていますから、自分の立場にほっとしたのでしょう。

或いは皮肉な事に、以下のような逸話もあります。

死罪を免れた人たちを諸藩に預けようと、幕府は薩摩にも打診し、船を敦賀に回して受取に来いと通達しました。

そこで、西郷吉之助が書簡を書きます。

「降伏者を殺すのは日本武士道にはないことだ、それを殺した、命を助けた人間はもっと丁寧にしなけりゃならん、降伏者を苛めるという武士道は薩摩にはござらん、よ ってお断りもうす」

薩摩の作家海音字潮五郎氏が紹介し、以上の話を述べています。(昭和51年-NHk日本史探訪)

いささかの薩摩贔屓があるにしても、では、ではと、田中河内介父子や海賀宮人等への薩摩のとった惨殺行為はどうなんだ、との異論がなくもありませんが…。

いずれにもせよ、幕末維新での水戸の内部抗争は悲劇であるのは変わりありません。

そこには、水戸は破壊、長州は構築とした水長の成破盟約の結果だったとは言え、藤田小四郎に桂小五郎が千両もの軍資金援助をしたのがそれを物語ります。

2015/10/28 Wed 03:34 [No.178]

[ 編集 ][ 返信 ]気になる人々 続々・敦賀天狗党惨殺

杉さんぼく

天狗党死の長行路(出発時は1000余人が800数余人になり、この中の500人余りは水戸郷校で学んだ若者農民たちだった)で、揖斐根尾川へ向かう途路に、西郷吉之助使者として中村半次郎が来て、本道を西に進んで慶喜公に降伏すれば…と勧めているのは、西郷の意見か薩摩の意見かは計りかねる点は否めず、寺田屋事件の前例があるだけに、この点に疑問も残ります。

大久保同様に、前述したように西郷も後に天狗党惨殺処刑について「降伏者を殺したのは武士道にはない、もっと丁寧にすべき、降伏者を苛める武士道は薩摩にはない」
と幕府に述べています。

安政大獄で、西郷は月照上人さんと共に薩摩に逃げた時、薩摩の為に尽力した月照上人さんを匿う義理も果たさず、義理立てした西郷が一緒に投身せねばならなかった事実、寺田屋事件で田中河内介父子などを惨殺した事実からすれば、やはり、水戸が長州に繋がるがゆえに、何も天狗党には出来なかったのかも知れない、そんなこんな風に考えてしまいます。

しかし、偉いですね、地元にしたら迷惑だっただろうし、さりとて死んだら皆、平等で可哀想だろう…これを語り継ぐ、この地に科せられた供養顕彰、と今に伝える鯡(鰊)倉…。

2015/10/28 Wed 03:37 [No.179]

[ 編集 ][ 返信 ]気になる人々 続々々・敦賀天狗党惨殺

杉さんぼく

敦賀市水戸烈士遺徳顕彰会は、小学生向け解説の小冊子まで無料で作られて顕彰していますね。

ましてや、敦賀と水戸はなんのゆかりもなしなのに。

観光ばかりに先行する京都の殿様観光では、ここまではしません。

もう少し、他県人の供養顕彰に力を注いで欲しいと思わざるを得ません。

この例では、東吉野の天忠(誅)組遺跡、墳墓も同様で、地元ではよく供養顕彰がなされていますから感心します。

京都は観光意識よりも、地元として、こうした供養顕彰をする気持ちをもう少し見習わねばなりますまい。

なお、当時16棟あった鯡(鰊)倉は敦賀以外に、353人もの無念の思いをつめられて、故国水戸に運ばれ残されているのも忘れてはなりません。

当初は水戸常盤神社内に回天館としてあったのを、平成元年に水戸有志が回天神社境内に移築されたそうです。

それにしても水戸人にとって、武田耕雲齋墳墓、411柱の遺族にとっては情念の漂うばかりの墳墓かもわかりません。

なかなか立派な墓域で、なんと国史跡なんですね。

2015/10/28 Wed 03:48 [No.180]

[ 編集 ][ 返信 ]気になる人々 続々々々・敦賀天狗党惨殺

杉さんぼく

武田耕雲齋辞世

討つもはた
討たるるもはた 哀れなり
同じ日本の 乱れと思へば

咲く梅の
花ははかなく 散るとても
馨りは君が 袖にうつらん

という武田耕雲齋の和歌にちなんだのか、水戸から運ばれた水戸紅梅が多数植樹されています。

武田耕雲齋の孫に当たる武田金次郎、まだ年少だったため小浜藩に幽囚の身となり、明治元年の朝令で恩赦、京都に行き水戸に戻りました。

それにしても悔しいのは、武田家一族、その他天狗党勤王の士を無残に斬首惨殺した市川三左衛門らの諸生派だ、この仕返しをして怨みを晴らす、と同志を集め虐殺隊を組織し、諸生派を襲い斬り殺したり銃殺の挙に出ました。

ここに横山と云う諸生派に属した屋敷があります。

当然虐殺隊は狙いますから、危機を感じたその家の女性は水戸を離れようと、山を越えた辺りで産気づき、竹薮で一人の男の子を出産しました。

明治元年9月18日の事でした。
これが後の日本画壇最高峰となる横山大観でした。
もし、母子ともに武田金次郎虐殺隊に襲われて殺されていたら、日本画壇の進歩も横山大観その人もいなかったわけになりますから、歴史の歯車って不思議です。

ちなみに、よい意味で言えば天狗党の天狗とは、常に乱世に姿を現わして、邪を正し、賞罰が厳重である…という意味合いがあるのです。(石井良一/幕末動乱異聞1969/〜改題天狗党悲史‐1983)

2015/10/28 Wed 03:52 [No.181]

[ 編集 ][ 返信 ]気になる人々 田中河内介父子

杉さんぼく

田中河内介父子に対し、科人‐とがにんと云う烙印を押された―、との認識で言われる方がいます。

しかしながら、これは正しくなく、ましてや科人(咎人)ではないのではありません。

柿本人麻呂のいろは歌ではありませんが、やはりは罪科=とがなくて死すと思われます。

同じ例に、長州人による中山忠光卿惨殺事件があります。

中山忠光卿は、田中河内介の影響を強く受けて、闘う尊攘公家として暗殺されたとは言え、遠い長州の地で死しましたからね。
確かに、薩摩の罪刑はきつい法制がありました。

しかし、身ぐるみ剥いで、足枷手枷をして重しをつけ、海に沈めて投棄するのは、裁きも何もあったものではありません。
子孫にまで、追求するのも咎人以上です。

地元で祀られ建てられた小豆島の墳墓撤去にまで、薩摩人は干渉、疵跡抹消を求めて、明治12年の森遷郡長はこれを拒否した、と伝わります。(これについては、河内介が長州から資金を受けていたから、これをして薩摩人は背信行為だ、としたとも言われている)

偽装家紋まで墓に彫らねばならなかったのは、辛い限りです。
明治24年の贈位まで、これまた辛い限りです。

遺族への薩摩のしつこさ、陰謀の有り様、幽霊話しにまで仕立てるのは、やはり維新史上の汚点でしょうね。

これは赤報隊にまで続きます。

2015/10/21 Wed 13:04 [No.172]

[ 編集 ][ 返信 ]気になる人々 小栗忠順

杉さんぼく

小栗忠順について〜
幕末維新の短い期間に任免を70数回繰り返した小栗の、後世に残した事業に有名な横須賀製鉄所(横須賀造船所)があります。
この製鉄所建設に関して、小栗は慶応元年、推進派の外国奉行柴田日向守を仏に派遣し、資器材、要員、生糸販売等の専売機関となるコンパニー創設の方法協議に着手、柴田報告をもとに「交易商社」コンパニーの建設書を幕府に提出しました。
順調にいけば、その600万ドルくらいは年賦で払えるとの小栗との目算がありました。
しかし、海軍の必要性を説きながら同じ海軍伝習所同窓の中島三郎助や、この小栗の想いに反する勝海舟の敵愾心はどうしたものでしょうか。
さて、交易商社コンパニーの話。
結局、前述の建設書をもとに、それまでの外国商人による対人交易貿易を幕府の手でする商社「兵庫商社」の発想を慶応3年4月に小栗は発表しました。
小栗はこれをコンペニーと呼んでいます。
上方で100万両拠出できる商人を人選して、貿易業務をさせようと言うのです。
商社発足に、頭取は鴻池山中善右衛門に加島屋広岡久右衛門、加島屋長田作兵衛他に肝煎り数人の上方商人が名を連ねました。
国内消費外の物産を下値で売る国益が、不足でも売れば高値で売れる商人利益に国民は不利益を被る、ならば商社設立の共同貿易により国益と利益を一致させる、それがコンペニーだ、と説かれたのが兵庫商社でした。
この先見性は、明治の実業家渋沢栄一が高い評価を与えました。
遣米使節でのこれは、海舟とは違った知識の実践かも知れません。

2015/09/11 Fri 10:11 [No.128]

[ 編集 ][ 返信 ]気になる人々 勝海舟忍者群屋敷に住む

杉さんぼく

服部半蔵、いうまでもなく武将忍者であるのは、誰しもに知られています。

その墓が東京の四谷西念寺にあり、墓維持に窮した時の事。

そこで勝海舟が相談を受けた(明治16年月26日)関連の記述が、海舟日記にあります。

…梶田(政光)、服部半蔵へ三円遣わす…(3月14日)

海舟と服部半蔵、どう繋がるんでしょうね。

男谷家邸で生まれた海舟は、父男谷小吉が御家人勝家に婿入りして、名乗ることになる勝の由来を調べさせたことがあります。
そして近江坂田郡勝村(長浜勝町)だったことを知ると共に、男谷の遠祖が近江国の山上郷から、落ち武者として越後(柏崎)に土着したのもあわせて知りました。

いずれも近江の出、そして勝家、物部尾輿子孫の太郎冠者季時が勝村(長浜市勝町)に住んだことから名乗り、その子の左近時明は今川氏、孫の市郎左衛門時直は徳川氏に仕え、玉薬奉行配下同心となります。

そこに、服部半蔵正成支配の伊賀同心が加わり、戦乱に活躍しました。

つまり、伊賀同心と隠密行動をした玉薬組同心(箪笥方)でした。

時直の江戸入り以後、代々勝家は大箪笥組、玉薬同心として火薬や鉄砲玉等の製造管理する任にありながら、公儀隠密方役割をも果たしています。

居住区は、忍者拝領屋敷の多い伊賀町、忍町の東、御箪笥町でした。

こうした事どもを知ってか、明治2年(1869)冬の事、徳川慶喜が海舟の永年の労をねぎらった折りの話です。

海舟は皮肉を込めて答えます。

「…私の先祖は伊賀同心で、権現様の冬、夏両御陣とも先手組で、鉄砲持って敵に向かった、そんな二度の軍(いくさ)が済んでも矢張りり同心だ。ソコを考えればナンでもないわさ」

海舟、忍、忍んで忍者を愛おしんだ結果の、まさに義邦(ヨシクニならぬギノクニ)の、長命、艶福にてコレデオシマイの一生でした。

2015/11/10 Tue 20:08 [No.189]

[ 編集 ][ 返信 ]気になる人々 土佐の忍び小僧・日下茂兵衛

杉さんぼく

龍馬の本家になる才谷屋文書(六代直益順水日記)の記述に、日下茂兵衛と言う土佐のネズミ小僧なる、享保の頃の怪盗の事が記されています。

本当にいたのだろうか、と伝説説、実在説の論議がある中、才谷屋文書に実在説の記載があったのです。

享保六年九月四日夜、蓮池町牢舎の罪人日下茂兵衛といふもの、相牢の者の銀を盗み取り、牢をぬけ欠け落ち仕る…。

貧農に生まれた茂兵衛、奉公した庄屋の娘との恋仲を阻止され、死に場所求めて、とある洞窟に入りました。

そこで、天狗か仙人にかに救われ修行、忍術の奥義を極めた、というわけです。

この忍術で、豪商や殿様の屋敷に忍び込み、盗んだお金はネズミ小僧のように貧しい人々に施したとされ、伝説ヒーローになりました。

そう言えば、佐々木三四郎高行も土佐忍者の出身だとか(安岡章太郎談歴史余話)。

なお、数十年前に丹中山(たんちやま)で、順水日記を残した直益さんのお墓発掘に立ち会えました。

その折り、拵えも立派な銀のキセルが、炭をひいた土の中から出て来ました。
このキセルを使いながら、直益さんが土佐のネズミ小僧の事を順水日記に書いたのだと思うと、なかなかに感慨深くもあります。

参考
伝説の里を訪ねて(高知新聞学芸部編1994)

2015/11/10 Tue 20:26 [No.190]

[ 編集 ][ 返信 ]気になる人々 新選組隊士-井汲恭平

杉さんぼく

本名和栗吉次郎(1822[1836?]〜1894)、墓に刻まれたように後年名乗る井汲=いくみ姓は、剣を学んだ師の備中津山藩士井汲唯一に由来します。

彼は元治元年12月18日の「倉敷-下津井屋事件」(下津井屋が米の買い占めをする不正を、大橋と云う町役人が代官所に訴えますが、まるで時代劇のように、その代官は下津井屋と結託していて、身柄を釈放し、逆に下津井屋が、大橋は不逞浪士と交流あり、と逆訴して、これに対して大橋は数人の同志と一緒に、下津井屋を襲撃して、4人を惨殺、放火した、という事件=明治2年・和栗吉次郎嘆願書)に連座して大坂に来て、ぜんざい屋(武者小路家臣)本多大内蔵に入り込みます。

ここで、「大坂に登り…共に事を謀り…来る20日を以て計画を実行すべく」(那須盛馬書簡)の、土佐藩士の大坂蜂起計画を知ることになります。

当時、獄中にあった武市瑞山の獄外書簡にも、「大坂一挙もいかが候や…只々1日も早くあれかしと祈る事に御座候…」「大坂一挙の事、頗る急務に御座候…」とありますから、確かにそうした計画はあったのでしょう。
和栗には、京の池田屋事件の事が頭にあったのかも知れません。

「谷三十郎と申す者、(大坂)八軒家に寓居罷あり、馴染みに御座候」(井汲恭平関係文書)と、早速、この件を、同郷の新選組幹部の谷三十郎に持ち込み、新選組に入隊を得ます。

入隊を期に、名を兄に因んで、谷川辰蔵と名乗りました。
そして、維新前後に井汲恭平と改名し、倉敷に帰郷しています。

維新前の無断脱国や、下津井屋事件でのその遺族の訴えに罪を問われますが、官軍兵士での軍功で不問にされました。

1894年(明治27年)1月2日、井汲恭平として黒谷に墓石を刻み京都で死去。

なぜか、墓石側面に「泉州堺」の文字、堺県の下級官吏だった由縁でしょうか、それとも何か泉州堺にまつわる縁者か何かにつながりある曰くがあるのでしょうや。

2015/09/11 Fri 10:14 [No.129]

[ 編集 ][ 返信 ]気になる人々 岡田以蔵

杉さんぼく

人斬り以蔵、誰が言い出したか。

幕末維新での同時代資料には、人斬り半次郎とか、人斬り新兵衛、そしての人斬り以蔵…、結局は、維新後に語られ創られた呼称でしょう。

そんなひとりに明治を迎えた人斬りに河上彦齋がいます。
人斬り彦齋?、俺は人斬りか、人斬りと言われるほど人を斬った事などないぞ、と言ったとか。
この例は、半次郎、桐野利秋も同様で、表向きは赤松小三郎を斬ったと京在日記で明かした以外ありません。

しかし、あいつなら人を斬りそうだ、だから人斬りだ、との冠称がついたと思われます。

おまけにそんな人間は、皆な無学なんだ、とされました。

とはいえ以蔵、龍馬より早く西洋砲術を徳弘董齋に習っていて、読み書き算術は出来てはいたのは否めません。

ついでに言えば、司馬遼せんせが書くように以蔵は足軽ではなく、4代前に郷士株が取得された郷士でした。

元治元年の浪士摘発で、以蔵は捕縛、所司代から町奉行所、土佐藩へと身柄拘束されるなか、鉄蔵として、額に入れ墨をされた、と「土佐勤王史」「土佐偉人伝」は記載しています。

額に「犬」の文字を、一画ずつ彫られ、一画増すごとになり最終的には死罪の刑でした。

この刑典は、幕末まで続いた元禄元年(1690)制定の元禄大定目により、私娼売春行為で実際に焼き印追放もあったそうです。
あるいは、売春行為で2人の女性「かね」「はつ」が併合刑で、鼻を削がれて追放刑になった、とかの酷い刑もありました。(土佐藩法制史-吉永豊実1974)

が…。

以蔵は額入れ墨ではなく、腕への入れ墨でした。
「以蔵…浪花より来着…刑もまた重かるべし…公辺よりは腕へ入れ墨の上、追い払いとなり…」(元治元年6月25日付け伊藤善平書簡)

以蔵、慶応元年閏5月11日斬首、28歳、雁切橋河原に晒さる。
昭和58年11月、高知県護国神社に土佐勤王党同志として、合祀されました。

2015/10/15 Thu 20:40 [No.161]

[ 編集 ][ 返信 ]気になる人々 大塩平八郎

杉さんぼく

大塩事件に触れます。

天保8年2月19日(1837年3月25日土)の朝、自らの屋敷に火を放って、大坂町奉行与力大塩平八郎中齋が救民救済の為に決起しました。
大塩平八郎の乱として世に伝わる、明治維新より30年前の事です。

幕末維新を語る時、その始まりをこの@大塩平八郎の事件と見るか、或いはAペリー来航と見るかの評価が分かれます。

徳川幕府弱体化のその崩壊の兆しが、外圧からならA、内圧事件からなら@と言うのが、学術的な評価のようですね。

この事件の影響に呼応して、摂津能勢の山田屋大助の乱や、越後の生田万の乱などがあるにしても、やがて来る幕末混乱期にはどうも大塩平八郎事件は関心がいかず、あまりにも有名な忠臣蔵・元禄赤穂事件の方が、勤王佐幕を問わず興味がもたれていたようです。
薩摩藩士などが回し読んだのも赤城義人伝です。(長州藩士もか)

そこには、多分に今も昔も変わらずで、目でみる流行りものに心騒いだ心情があったのかも判りません。

中でも歌舞伎芝居などが人気を博しました。今なら、テレビ、ドラマ、映画に当たるでしょう。

歌舞伎は当時、庶民にも判る世界で、今はかなり高級感がありますから、江戸時代人が盛り立てた歌舞伎ってすごいなあ、の感です。

2015/10/16 Fri 04:33 [No.162]

[ 編集 ][ 返信 ]気になる人々 続-大塩平八郎〜清河八郎

杉さんぼく

その一例に清河八郎の話をします。
この清河八郎が安政2年、母親他を伴って京都を始め伊勢や金毘羅、岩国等を廻った日記「西遊草」を残しています。
むろん大坂にも泊っています。
しかし、清河八郎なら大塩平八郎事件に興味持ちそうと思うのに、各地では旧跡に興味を示しながらも大塩事件遺跡には全く触れていません。
「心斎橋通は大坂第一にぎはひの町にて、夜店のにぎはひをびただし…中の芝居にいたる。四、五町先の道頓堀にあり…狂言も至て手抜多く、さらに見る事もなけれども、やはり面白く遊覧せしとぞ…大坂の芝居は江戸にひとしき事のよしゆへ…今日のみにあらぬゆへ、またみるべき折もあらん…」(安政2年5月30日=1855/7/13金)

江戸時代の娯楽は、やはり芝居や狂言、浄瑠璃等が主流でしたから、大塩事件もそうした演目、題材で多種多様あればまた違ったかも知れません。

歴史の事実と嘘と虚構の、面白き虚構表現伝播恐るべし…。
「…相変わらず不景気と見へ、昔日の大坂にはあらざれども、三都の事ゆへ、所によりにぎわひはかわらざるなり。されども町人の地にて、武士気のもののあるまじき所なり。此又自然の勢ひなり」(安政2年5月30日=1855/7/13金)

参考=西遊草(岩波文庫 小山松勝一郎校注1993)

2015/10/16 Fri 04:46 [No.163]

[ 編集 ][ 返信 ]気になる人々 続-大塩平八郎〜三代目中村仲蔵

杉さんぼく

幕末期に活躍して人気を博した歌舞伎俳優(ワザヒト)に、三代目中村仲蔵(1809〜1886)が書き残した一代記・手前味噌(日本演劇文献研究会編1944/青蛙書房1969復刊)があります。

それによるとこの仲蔵さん、景気が悪い上に大塩事件でよりいっそう景気が悪くなった大坂の町に、活気と景気を盛り上げようと、役者たちによる盆踊りを挙行して成功した、と書いています。

大塩事件のさかのぼる事の文政12年、江戸は大火にみまわれ、芝居小屋も三座失いました。

江戸役者たちは困ります。
そこで諸国や上方に興行を持ち、仲蔵も諸国を巡っていました。

そして当時仲蔵は、鶴蔵として上方にいました。
そこで、天保8年2月19日大塩事件が起こり遭遇、その大火に遭ったのです。

それからすぐの夏、鶴蔵(仲蔵)は、役者たちによって景気付けに市街地で盆踊りを挙行しようと考えた訳です。
道頓堀より屋台を出し、この屋台には4代目中村歌右衛門等役者たちが乗り込み、市内を練り歩きました。

初日は7月11日(1837/8/11金)、人気役者が間近く見れると言うことで、評判になり、15日までのこの興行で、大坂庶民は祭礼気分に酔いしれました。

思わぬ余波は、堂島米相場が下がった事です。

大塩事件直後の高騰から、3〜4割も下落したのは、仲蔵たちにとっても予想外の何ものでもありません。

「…12日、堂島の米相場少しさたるゆゑ、弥々イヨイヨ今度の盆踊りは豊年の吉兆なりとて悦びあふ…益々世直しと言ひ囃し、大塩が噂も終に薄らぎ、太平の元に復したる」(手前味噌「天保の飢饉に一役をかふ」・青蛙房1969)

以上、大塩事件余話でした。チャンチャン。

なお、この仲蔵一代記を元ネタにした小説なら、仲蔵狂乱(松井今朝子)がお薦めです。

2015/10/16 Fri 04:49 [No.164]

[ 編集 ][ 返信 ]気になる人々 続-大塩平八郎〜浮き世の有り様

杉さんぼく

天明5年(1834)、大坂の医者らしい穿鑿好きの好事家が書いた「浮き世の有り様」全13巻(日本庶民生活史料集成J巻/1970/三一書房)の中で、大塩平八郎の乱に関しては、天保8年雑記6〜8巻に記載があり、かなりの記述が割かれています。

今でいえば、大した取材力の筆走りです。

第6巻には瓦版の写しがかなりの枚数を費やしていますから、瓦版はずいぶん出たのかも判りませんね。

大塩の乱、米価騰貴に始まり、堀伊賀守家来筆記まで、実にこまめに書いていますから驚きです。

有名な新選組の旗が「誠」一字で象徴的なのは知られていますけど、パラパラとめくるとこの本に所載されている大塩平八郎の目標旗には、桐の紋が描かれていました。

言うまでもなく、桐は今川家の紋で、大塩は今川の臣を先祖と思っていたのかも知れません。

あと「救民」、「東照大権現」「天照皇太神宮(中)・八幡大菩薩(左)・湯武両聖主(右)」の旗がありました。

詳細の興味ある方は図書館でご覧下さい。

2015/10/16 Fri 04:55 [No.165]

[ 編集 ][ 返信 ]気になる人々 岡田宜振(以蔵の弟)

杉さんぼく

高知の北東は薊野真宗寺山にある岡田家墓地に、岡田宜振(タカノブ)とあるのが以蔵の墓です。(あの有名な沢田マンションの横からも登れた)

仲人まがいの世話好き好人物だった、とされる父義平の代に高知に出てきたようで、その以前は岡田家の墓もある神通寺村(香美市)に住んでいました。(未見)
いわゆる、黒岩某から郷士株を買った譲受(ゆずりうけ)郷士でした。

以蔵は、詩文経書等に通じた父義平・和漢学問にも身につけた母里江の血を受けた事もあってか、当初は書を竹村東野氏、剣を麻田勘七氏に学んだ(殉難録稿)、とあります。

やがて13、4歳になった頃、麻田勘七氏弟子武市半平太さんに、以蔵を入門させました。

この以蔵さんには6歳下の弟がいて、土佐勤王党名簿に名を連ねた宜登=のち登稔、通称「慶次=啓吉」がいます。

薊野真宗寺山に行くと、以蔵の墓と共に「岡田登稔墓」「岡田登稔妻墓」とあるのが弟夫婦の墓です。

以蔵亡き後、家督は宜稔=啓吉さんが引き継いで、会津戦争に従軍、佐賀の乱では敗れた江藤新平を、自宅に泊めたりもしています。

この宜稔=啓吉さん、残念ながら、39歳で亡くなり(明治15年)、遺児の男子、虎輔さんは札幌農学校から大蔵省〜タバコ産業界に名を残し、次男の諒児さんは、大蔵省〜四国税務署長を務めました。

ちなみに以蔵の母、里江さんは89歳まで長命(明治39年歿)しています。

この宜稔氏の子孫宅には、まだまだ資料があるとされているだけに、人斬り以蔵に憚る事なく、もっと世に出て欲しいものです。
(参考/松岡司著=岡田以蔵正伝2014)

2015/12/01 Tue 08:36 [No.205]